第6話 元婚約者からの復縁要請? 手紙はヤギが食べました
かつて、私を「つまらない女」と切り捨てた男がいた。
元婚約者である子爵家の嫡男。
彼との縁は、手切れ金と引き換えに完全に切れたはずだった。
だから私は、この平和な竜騎士団での生活が、彼によって脅かされる可能性など微塵も考えていなかった。
***
「……おい。これはどういうことだ」
いつものようにヴェルドアのブラッシングを終え、報告のために団長室へ向かおうとした時のことだ。
中庭のベンチで、グレイド団長が低い声を漏らしているのが聞こえた。
彼の周りには、騎士団で飼われている白ヤギの『ユキちゃん』がのんびりと草を食んでいる。
平和な光景のはずだが、グレイド様の纏う空気は明らかに荒れていた。
「団長様? どうされたんですか?」
私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、慌てて手に持っていた紙を背後に隠した。
「エ、エルマか。いや、何でもない。ただの……迷惑な手紙だ」
「迷惑な手紙?」
珍しい。
いつも冷静沈着な彼が、こんなに動揺するなんて。
それに、隠された手紙からは、どす黒い殺気のようなものが滲み出ている気がする。
「検閲係から回ってきたのだがな。あまりにも非常識かつ、不愉快極まりない内容だったもので、つい感情的になってしまった」
彼はギリギリと歯噛みしている。
その手の中で、上質な紙がクシャクシャに握り潰されていくのが見えた。
「よろしければ私が処分しましょうか? シュレッダーにかけますけど」
「いや、君に見せるようなものではない。これは私が責任を持って……」
彼が言いかけた、その時だった。
メェ〜。
足元にいたヤギのユキちゃんが、グレイド様の手から垂れ下がっていた紙の端をパクっと咥えた。
「あ」
「む?」
次の瞬間、ムシャムシャという小気味良い音が響いた。
ユキちゃんは美味しそうに、その「不愉快な手紙」を咀嚼し始めたのだ。
「ああっ! ユキちゃん、だめだよ! 紙なんか食べたらお腹壊しちゃう!」
私は慌てて止めようとしたが、食欲旺盛なヤギは止まらない。
封筒ごと、バリバリと飲み込んでいく。
「……いや、いい」
グレイド様が、なぜか晴れやかな顔で私を制した。
「このヤギは優秀だな。まさに適切な処理方法だ」
「えっ? でも重要書類じゃ……」
「ゴミだと言っただろう。むしろ、ヤギの餌になっただけ有益だった」
彼は満足げに頷き、ユキちゃんの頭を撫でた。
手紙は完全に胃袋の中へ消えた。
一体、何が書いてあったのだろう。
チラリと見えた封筒の紋章が、どこか見覚えのある子爵家のものに似ていた気がするけれど、まさかね。
「それよりエルマ。君に話がある」
グレイド様は表情を引き締め、私に向き直った。
その青い瞳が、真剣な光を帯びている。
「君の住環境についてだ。現在の寮の部屋は、セキュリティ面で少々不安がある」
「えっ? そうですか? 鍵もしっかりしていますし、快適ですよ」
今の部屋は特別室で、一般の騎士たちとは隔離されている。
不満などあるはずがない。
「いいや、甘い。君は今や、我が騎士団の心臓部とも言える重要人物だ。外部からの接触……いや、害虫のような不審者が侵入する可能性を考慮せねばならない」
害虫?
先日の街での一件(絡んできた貴族)を気にしているのだろうか。
彼は少し言い淀んでから、咳払いをして続けた。
「そこでだ。君の部屋を移動させたい。私の執務室の隣にある、特別区画へ」
執務室の隣。
そこは、騎士団の中枢も中枢。
もっと言えば、団長であるグレイド様のプライベートスペースに直結している場所だ。
「ええっ!? そ、それはさすがに……!」
「ヴェルドアの竜舎にも近い。何かあった際、私がすぐに駆けつけられる。……嫌か?」
彼が不安そうに眉を下げる。
そんな顔をされて、断れるはずがない。
それに、彼が私の安全を第一に考えてくれているのは伝わってくる。
「……わかりました。団長様がそう仰るなら」
「そうか! よかった」
グレイド様はパッと表情を輝かせた。
その笑顔の裏に、別の意図があるなんて、私は知る由もなかった。
***
引っ越しは迅速に行われた。
というより、グレイド様が部下に命じて、私の荷物をあっという間に運ばせてしまったのだ。
新しい部屋は、以前の部屋よりもさらに広くて豪華だった。
ふかふかの絨毯、天蓋付きのベッド、そして窓からはヴェルドアがいる竜舎が一望できる。
「すごい……お姫様の部屋みたい」
私が感嘆の声を上げていると、隣の部屋(執務室)とのコネクティングドアが開いた。
グレイド様が顔を出す。
「気に入ってくれたか?」
「はい! もったいないくらいです」
「遠慮はいらない。ここは本来、公爵家の……いや、来賓用の部屋だからな」
彼は何かを言いかけて、口をつぐんだ。
そして、私の荷解きを手伝いながら、何気ない調子で言った。
「そういえば、郵便物の受け取りについてだが」
「はい?」
「今後は全ての郵便物を、一度私が確認することにする。君に変な虫がつかないように……もとい、危険物が送られてこないように検閲が必要だからな」
「はあ……お手数をおかけします」
徹底している。
まあ、軍事施設の職員だし、そういうものなのかな。
私は素直に頷いた。
まさかその「検閲」によって、元婚約者からの『君を愛している(だから金をくれ)』という厚かましい手紙の数々が、全てヤギのおやつになって消えていくことになるとは露知らず。
グレイド様は満足そうに微笑み、執務机の引き出しを開けた。
そこへ何か書類をしまい込む動作が見えた。
一瞬だけ見えたその書類には、『婚姻』という文字と、私の名前が記入されていたような気がしたが――。
「ん? どうかしたか?」
「いえ、なんでもありません」
見間違いだろう。
私は首を振り、新しい部屋での生活に思いを馳せた。
こうして私は、最強の騎士団長による鉄壁の(そして過保護すぎる)守りの中に、完全に囲い込まれることになったのだった。
一方その頃。
何度手紙を出しても返事が来ないことに業を煮やした元婚約者が、
「エルマのやつ、恥ずかしがっているのか? 仕方ない、僕が直接迎えに行ってやろう」
などというトンチンカンな決意を固めていることなど、知る由もなかった。




