第5話 竜が飛ばない緊急事態、原因はまさかの「虫歯」です
最強と謳われる竜騎士団に、最大の危機が訪れた。なぜか?
答えはシンプルだ。最強の戦力である黒竜ヴェルドアが、地面に突っ伏したまま動かなくなったからである。
「……おい。どうなっている」
演習場の貴賓席から、低い声が飛んだ。
声の主は、軍部を統括する大将軍だ。
その隣には、視察に訪れた高官たちがずらりと並んでいる。
今日は年に一度の大規模演習の日。
本来なら、今頃ヴェルドアが空へ舞い上がり、標的へ向かって豪快なブレスを放っているはずだった。
しかし、現実はこれだ。
演習場の中央で、ヴェルドアは巨大な前足で顔を覆い、ダンゴムシのように丸まっている。
「申し訳ありません! 現在、原因を究明中です!」
現場指揮官の叫び声が響く。
私は待機テントの中で、顔面蒼白になった副団長に肩を掴まれていた。
「エルマ! 頼む、ヴェルドア様を診てくれ! このままでは団長の、いや我々全員の首が飛ぶ!」
副団長の手が震えている。
私は急いで救護鞄を肩にかけ、駆け出した。
演習場の中央へ向かうと、グレイド団長がヴェルドアの鼻先に立ち、何かを話しかけていた。
いつもの冷徹な表情だが、眉間には深い皺が刻まれている。
「ヴェルドア。頼む、飛んでくれ。何が不満なんだ」
グレイド様の声にも、ヴェルドアは反応しない。
ただ小さく呻き声を上げるだけだ。
「団長様!」
私が駆け寄ると、グレイド様がパッと顔を上げた。
その瞳に、安堵の色が浮かぶ。
「エルマ……! すまない、緊急事態だ。ヴェルドアが口を利かない。動こうともしないんだ」
「わかりました。すぐに確認します」
私はヴェルドアの巨大な頭部に近づいた。
近くで見ると、彼の様子がおかしいことにすぐ気づいた。
右側の頬――鱗に覆われているからわかりにくいが、顎の関節あたりを庇うように前足を当てている。
「ヴェルドア? どうしたの? どこか痛いの?」
優しく声をかけながら、鼻先を撫でる。
すると、私の頭の中に、泣きそうな声が響いてきた。
『……ううぅ……痛い……』
「痛い? どこが?」
『口の中……右の奥……ズキズキするぅ……』
口の中。右奥。
私はハッとして、グレイド様を見た。
「団長様、口の中が痛いそうです。右の奥歯あたりだと」
「口の中? まさか……」
グレイド様の顔色が変わる。
竜種特有の病気。
魔力を帯びた唾液が結晶化し、歯の根元を浸食する現象。
人間で言うところの――。
「虫歯、ですか?」
「恐らくな。魔力石灰化現象だ。放置すれば激痛を伴う」
虫歯。
あの最強のドラゴンが、虫歯で泣いている。
笑い事ではないけれど、少しだけ力が抜けてしまった。
「治療はできますか?」
「可能だ。私が患部の結晶を剣で砕けばいい。だが……」
グレイド様が渋い顔でヴェルドアを見た。
「口を開けさせなければ、治療もできない」
そうなのだ。
ヴェルドアは今、痛みのあまり頑なに口を閉じている。
無理やりこじ開けようとすれば、パニックになって暴れるだろう。
ここには視察の将軍たちもいる。ブレスの暴発でもあれば大惨事だ。
『やだ……開けない……空気が触れるだけで痛いもん……』
ヴェルドアの心の声は、完全に駄々っ子のそれだった。
「ヴェルドア、口を開けて。団長様がすぐに治してくれるから」
『やだ! 絶対やだ! 痛いことするつもりだろ!』
「しないよ。一瞬で終わるって」
『嘘だ! お前らは俺の痛みがわからないんだ! 帰れ!』
説得失敗。
将軍たちの席からは「まだか!」「何をしている!」という苛立ちの声が聞こえ始めている。
時間がない。
私は深呼吸をした。
優しく諭してもダメなら、別の手を使うしかない。
私は腰に手を当て、演習場に響くような大声で叫んだ。
「ヴェルドア! いい加減にしなさい!」
ピクッ、と巨大な体が震えた。
グレイド様も驚いて私を見ている。
「あんたねぇ、いつまでメソメソしてるの! 痛いのはわかるけど、治さないともっと痛くなるのよ!」
『うぐっ……でもぉ……』
「いい? 今ここで口を開けて、治療を頑張ったら……ご褒美をあげる」
ご褒美。
その言葉に、ヴェルドアが薄目を開けた。
『……なにくれるんだよ』
かかった。
私はニヤリと笑い、あらかじめ計算しておいた切り札を切る。
「最高級の霜降り肉、百キロ! もちろん、特製ソースで味付けした焼き立てステーキにしてあげる!」
『ひゃ、ひゃっきろ……!?』
ヴェルドアの喉がゴクリと鳴った。
よだれが出そうになったのか、口元が少し緩む。
そこを逃さず、私は畳み掛けた。
「それだけじゃないわよ。食後のデザートには、蜂蜜をたっぷりかけた果物の盛り合わせもつけちゃう。どう? 痛いのを我慢してでも食べる価値、あると思わない?」
沈黙。
ヴェルドアの中で、激しい葛藤が起きているのが伝わってくる。
痛みへの恐怖と、食欲との戦い。
数秒後。
ヴェルドアは決死の覚悟で目を見開いた。
『……食う』
「よし!」
私はグレイド様に合図を送った。
彼は既に剣の柄に手をかけ、臨戦態勢に入っている。
「団長様、開きます! 一発で決めてください!」
「任せろ」
ヴェルドアが、震えながらゆっくりと巨大な顎を開いた。
上下に並ぶ鋭い牙。
その右奥、赤黒く腫れた歯茎に、白く濁った結晶が食い込んでいるのが見えた。
あれが元凶だ。
「……はあっ!」
グレイド様が動いた。
速い。
白銀の閃光が走ったかと思うと、彼は既にヴェルドアの口内へ飛び込み、そして戻ってきていた。
キィン! という甲高い音が遅れて響く。
宙を舞った白い結晶の欠片が、地面に落ちて砕け散った。
「終わりだ」
グレイド様が剣を納める音が、静寂に響く。
神速の剣技。
ヴェルドアは何が起きたのかわからない顔で、きょとんとしていた。
『……あれ?』
彼は恐る恐る口を動かし、歯を噛み合わせた。
『痛くない……痛くないぞ!』
痛みが消えたことを理解した瞬間、ヴェルドアは喜びの咆哮を上げた。
今度は苦痛の声ではない。
力が漲るような、覇気に満ちた叫びだ。
『うおおおおお! 治った! 飯だ! 飯食わせろおおおお!』
元気になりすぎたヴェルドアは、そのまま勢いよく翼を広げ、空へと舞い上がった。
予定されていた演習開始の合図など待たずに。
ドォォォォン!
遥か上空から放たれた漆黒のブレスが、演習用の標的(巨大な岩山)を直撃し、跡形もなく消し飛ばした。
凄まじい破壊力。
観客席からは悲鳴に近い歓声が上がった。
「見事だ! これぞ我が国の誇る竜騎士団!」
「あの制御不能な状態から、一瞬で立て直すとは!」
将軍たちが立ち上がって拍手喝采を送っている。
どうやら、今のドタバタも含めて「高度な演習」だと思ってくれたらしい。
結果オーライだ。
ヴェルドアが満足げに旋回して戻ってくる。
私はへなへなとその場に座り込んだ。
寿命が縮むかと思った。
「エルマ」
頭上から声が降ってきた。
見上げると、グレイド様が立っている。
逆光で表情は見えないけれど、その声は弾んでいた。
「君は……本当に、私の救世主だ」
言うが早いか、彼は私の両脇に手を入れた。
えっ、と思った次の瞬間。
私の体はふわりと宙に浮いていた。
「きゃっ!?」
高い高い。
グレイド様が、私を軽々と抱き上げたのだ。
まるで小さな子供にするように。
「ありがとう、エルマ! 君のおかげで首が繋がった!」
「ちょ、団長様! 降ろしてください! みんな見てますから!」
私は空中で足をバタつかせた。
周囲の騎士たちが、ニヤニヤしながらこちらを見ている。
将軍たちも「ほほう」と興味深げだ。
恥ずかしい。
顔から火が出そうだ。
でも、目の前にあるグレイド様の顔は、いつもの能面が嘘のように綻んでいた。
少年のような、屈託のない笑顔。
……まあ、いいか。
この笑顔が見られたのなら、頑張った甲斐があったというものだ。
その後。
約束通り百キロの高級肉を請求され、騎士団の会計係が白目を剥いて倒れたのは、また別の話である。




