第9話 日向ぼっこと、終わらない愛
あの日から、随分と長い月日が流れた。
双子たちが英雄として称えられた日から、季節は何度も巡り、時代は穏やかに移ろいでいった。
若かった私たちも、いつしか人生の黄昏時を迎えている。
庭の木々が、赤や黄色に色づき始めていた。
秋の陽だまりは優しく、老いた体を芯から温めてくれる。
私は庭のベンチに座り、ひざ掛けを直した。
手には皺が増え、血管が浮き出ているけれど、隣に座る夫の手を握る力だけは、昔と変わらないつもりだ。
「……いい天気ですね、グレイド様」
「ああ。風も穏やかだ」
グレイド様がゆっくりと頷く。
かつての鋭い眼光は柔和になり、銀髪はすっかり白髪に変わってしまったけれど、その横顔の美しさは変わらない。
むしろ、年輪を重ねた分だけ、味わい深くなった気がする。
私の膝の上では、始祖竜のおじいちゃんが丸くなっていた。
猫サイズのまま、何十年も変わらない姿で、クークーと寝息を立てている。
『……んむ。茶の時間か?』
「まだですよ。もう少し寝ていてください」
背中を撫でてやると、おじいちゃんは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
伝説の竜も、今ではすっかりただのペット――いいえ、家族の長老だ。
庭の向こうでは、巨大な影が動いていた。
漆黒の鱗を持つ巨竜、ポチだ。
その背中には、小さな子供たちが鈴なりに乗っている。
私たちの孫たちだ。
「きゃー! ポチ、もっと高く!」
「じいじ! ばあば! 見てて!」
孫たちが手を振る。
ポチは『グルルッ』と優しく鳴き、危なくないようにゆっくりと歩いている。
かつての双子と同じように、孫たちもまた、言葉を超えて竜と心を通わせている。
「……賑やかだな」
「ええ。あの子たちが小さかった頃を思い出しますね」
私は懐かしさに目を細めた。
アレンとレンは、今や国を代表する竜騎士団長と副団長だ。
多忙な彼らに代わって、孫たちの面倒を見るのが、隠居した私たちの楽しみになっている。
「ねえ、あなた」
「ん?」
「背中、凝っていませんか?」
私が尋ねると、グレイド様は苦笑した。
「お見通しか。……少しな」
「では、失礼します」
私はサイドテーブルに置いてあった、愛用の道具を手に取った。
かつて彼が贈ってくれた、特注の孫の手。
宝石が埋め込まれた柄は、長年の使用ですっかり手に馴染み、鈍い光沢を放っている。
私は彼の背中に回り込み、いつもの場所に孫の手を差し入れた。
カリッ、カリカリ。
ゆっくりと、リズムよく動かす。
若い頃のように強く掻く必要はない。
ただ、そこにある痒みや凝りを、優しく撫でて散らしてあげるだけでいい。
「ここですか?」
「……ああ、そこだ。……うまいな」
グレイド様がほうっと息を吐き、肩の力を抜いた。
背中から伝わってくる、彼の安らぎ。
それが私の喜びだ。
「昔は、よくこうやってお互いの背中を掻き合いましたね」
「そうだな。君の『通訳』のおかげで、随分と助けられた」
「ふふ、言葉の通訳だけじゃありませんよ。あなたの心の通訳も、随分としましたから」
私が軽口を叩くと、彼は背中を揺らして笑った。
「違いない。……君がいなければ、私はただの堅物な騎士団長で終わっていた」
「そんなことありません。あなたは誰よりも愛情深い人ですもの」
私は手を止めず、彼の広い背中を見つめた。
この背中が、ずっと私を守ってきてくれた。
国を守り、家族を守り、そして私との約束を守り抜いてくれた、偉大な背中。
「……ありがとう、グレイド様」
「礼を言うのは私の方だ。……エルマ」
彼が私の手を取り、振り返った。
その瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。
老いてもなお、少年のような純粋さを宿した瞳。
「君と出会えて、私の人生は完璧だった」
「……私もです」
涙が滲んだ。
言葉はいらない。
ただ触れ合うだけで、万感の思いが伝わってくる。
私たちは長い間、そうやって見つめ合っていた。
言葉を交わさずとも、心は通じている。
それは、「魔獣通訳」というスキルを超えた、夫婦という長い時間をかけて築き上げた奇跡だ。
『……おいおい。当てられちまうわい』
膝の上で、おじいちゃんが片目を開けてニヤリとした。
『まあ、よきかな。お主らの愛は、見ていて飽きん』
「もう。冷やかさないでください」
私は涙を拭い、孫の手を置いた。
日が傾き、風が少し冷たくなってきた。
「そろそろ、中に入りましょうか」
「ああ。……そういえば」
グレイド様がふと、空を見上げた。
夕焼けに染まる高い空。
そこには、かつてヴェルドアと共に飛んだ景色が広がっている。
「そろそろ、ヴェルドアが待ちくたびれているかもしれんな」
「……そうですね」
不吉な言葉ではない。
それは、旅立ちの予感だった。
私たちは十分に生きた。
愛し合い、育て上げ、役割を果たした。
だから、その時が来ても、きっと怖くはない。
「待たせすぎると、また拗ねて暴れるかもしれませんよ」
「違いない。あいつは短気だからな」
私たちは笑い合った。
死への恐怖はない。
あるのは、懐かしい友に会いに行くような、静かな期待だけ。
孫たちが、ポチから降りて駆け寄ってくる。
「じいじ! ばあば! お腹すいたー!」
「今日のご飯なにー?」
元気な声。
未来を生きる命の輝き。
この子たちがいる限り、私たちの物語は終わらない。
形を変え、受け継がれていくのだ。
「さあ、行こう。今日はシチューだそうだ」
「やったー!」
グレイド様が立ち上がり、私に手を差し出した。
私はその手をしっかりと握り返した。
皺だらけの手。
でも、世界で一番温かい手。
私たちは並んで、屋敷へと歩き出した。
背後には、長い長い影が伸びている。
それは、私たちが歩んできた道のりの長さを物語っていた。
明日はどうなるかわからない。
でも、今日という日がこんなにも幸せだったなら、それで十分だ。
私は夫の肩に頭を寄せ、心の中で呟いた。
愛しています。
これまでも、これからも、ずっと。




