第9話 言葉はいらない
穏やかな午後の日差しが、芝生を黄金色に染めていた。
テラスの椅子に深く腰掛け、私は湯気の立つ紅茶を口に運んだ。
香り高い茶葉の匂い。
隣には、書類仕事の合間に休憩をとりに来たグレイド様がいる。
私たちは言葉少なに、庭で繰り広げられる光景を眺めていた。
それは、数年前の私が見たら信じられないような、賑やかで、そして奇跡のような光景だった。
「行けー! ポチ号、発進!」
「右だよ! 右から回り込むんだ!」
アレンとレンが声を張り上げる。
二人がまたがっているのは、以前よりも少しふっくらとして、鱗に艶が出てきた小竜――ポチだ。
傷はすっかり癒え、栄養状態も良くなり、本来の赤褐色の鱗が美しく輝いている。
『グルルッ!』
ポチが喉を鳴らし、器用に身を翻す。
背中に乗せた二人を落とさないよう、絶妙なバランスを保ちながら、庭木の間を縫うように疾走する。
驚くべきは、その連携だ。
双子は手綱など持っていない。
ポチの首元に手を添え、膝で合図を送っているだけだ。
それなのに、ポチは彼らの意図を完璧に汲み取り、まるで一つの生き物のように動いている。
「……すごいですね」
私はカップをソーサーに置き、感嘆の息を漏らした。
「あの子たち、本当に言葉がわかっていないのでしょうか」
「聞こえてはいないさ。だが、わかってはいる」
グレイド様が目を細めて笑った。
「見ろ。レンがポチの首筋を軽く叩いた。あれは『減速』の合図だ。アレンが体を傾けたのは『旋回』の指示。ポチもそれを理解して動いている」
言われてよく見れば、確かに細かなサインの交換が行われている。
でも、それは訓練された合図というよりは、遊びの中で自然に生まれた「阿吽の呼吸」に見えた。
『へっ、やるじゃねえかチビども! だが俺のスピードには勝てねぇぞ!』
上空からヴェルドアが急降下してくる。
彼はわざとポチの鼻先をかすめるように飛び、挑発する。
大人げない最強の竜だ。
『ワンッ! 負けないぞ、デカいの!』
ポチが犬のように吠え(本当に鳴き声が『ワン』に近いのだ)、果敢にヴェルドアを追いかける。
体格差は何十倍もあるけれど、ポチに恐れの色はない。
背中に信頼できる相棒たちを乗せているからだろう。
『フォッフォッフォ。若いのは元気じゃのぅ』
縁側……ではなくテラスの隅で、始祖竜のおじいちゃんが日向ぼっこをしながら笑っている。
彼の手には、双子が食べ残したクッキーが握られていた。
カオスだ。
伝説の魔竜と、最強の黒竜と、野生の小竜が入り乱れる庭。
普通なら国家非常事態宣言が出てもおかしくない状況だけれど、今の公爵邸にとっては、これが日常だった。
「……以前の私は、思い上がっていました」
私はポチの背中で笑う双子を見つめながら、静かに言った。
「『通訳』がいなければ、人と竜はわかり合えないと思っていました。言葉こそが、理解の鍵だと」
「無理もない。君はずっと、その力で生き抜いてきたのだからな」
「ええ。でも、あの子たちが教えてくれました」
言葉は、時に邪魔になることもある。
「痛い」「お腹が空いた」と言葉で伝えられれば、確かに解決は早い。
けれど、言葉に頼りすぎると、相手の表情や、体温の変化や、空気感を見落としてしまう。
双子とポチの間には、言葉はない。
だからこそ彼らは、全身全霊で相手を感じ取ろうとする。
その結果生まれた絆は、言葉で繋がった関係よりも、もしかしたら強靭なのかもしれない。
「言葉はいらないんですね、本当は」
「……そうだな。だが」
グレイド様が私の手を取り、指先をそっと撫でた。
「君の言葉があったからこそ、今の私たちがあるのも事実だ。君が声を拾い上げ、繋いでくれたから、この幸せな庭が生まれた」
彼の言葉に、胸が温かくなる。
否定されたわけじゃない。
私の役割も、あの子たちのやり方も、どちらも正しくて、どちらも尊いのだ。
「私たちは、いい仕事をしたな」
グレイド様が、どこか満足げに言った。
騎士団長としての激務を終えた後でも見せないような、達成感に満ちた顔だ。
「ええ。あの子たちの成長を見守れたこと、私の誇りです」
「私もだ。……君の教育方針には、正直ヒヤヒヤさせられたがな」
「あら、グレイド様こそ。あんなにスパルタな剣術指導、見ていて胃が痛くなりましたよ」
私たちは顔を見合わせて笑った。
夫婦として、親として、悩みながらも歩んできた数年間。
その答え合わせが、目の前の笑顔だ。
日が傾き始め、空が茜色に染まっていく。
遊び疲れたのか、ポチの動きがゆっくりになった。
双子もポチの背中から降りて、芝生の上に寝転がっている。
「はぁー、疲れた!」
「ポチ、速かったね!」
ポチが二人の間に割り込み、顔を舐める。
ヴェルドアも着地し、翼を畳んでその横に座り込んだ。
始祖竜がお茶菓子を持ってトコトコと歩いていく。
自然と、みんなが一箇所に集まっていく。
示し合わせたわけでもないのに。
「……そろそろ、夕食の時間ですね」
「ああ。今日は君の好物のシチューを作らせている」
「まあ。子供たちも喜びます」
私たちは立ち上がり、手すりに寄りかかって庭に声をかけた。
「アレン! レン! ご飯にするわよ!」
「ポチも、ヴェルドアも、おじいちゃんも! みんなおいで!」
私の声に、全員が一斉にこちらを向いた。
「はーい!」
『飯だ! 肉だ!』
『茶の時間か、よきかな』
『ワンッ!』
種族も、言葉も、大きさもバラバラな家族たち。
けれど、彼らの瞳に宿る温かい光は、みんな同じだった。
かつて、私は自分の能力を「気味が悪い」と言われ、孤独だった。
誰にも理解されないと思っていた。
でも今、私の周りにはこんなにもたくさんの「理解者」がいる。
言葉が通じる人も、通じない竜も、みんな私の大切な家族だ。
「ママ、抱っこ!」
「パパ、肩車!」
テラスに戻ってきた双子が、甘えて手を伸ばす。
グレイド様は軽々とレンを肩に乗せ、私はアレンを抱き上げた。
ずっしりと重い。
成長の証だ。
「ポチも、おうちに入る?」
アレンが尋ねる。
ポチは少し迷ったように鼻を鳴らしたが、ヴェルドアが背中をドンと押した。
『行けよ。今日は特別だ』
『……いいのか?』
「もちろんよ。家族だもの」
私が言うと、ポチは嬉しそうに尻尾を振って、リビングへと足を踏み入れた。
まあ、家具を壊さないか心配だけど、今日くらいは大目にみよう。
賑やかな食卓が待っている。
「通訳」なんてなくても、美味しいものを食べて、笑い合えば、心は通じる。
それが、私がこの数年で見つけた、一番の真理だった。
「さあ、帰りましょう」
グレイド様が私の腰に手を回す。
夕日に照らされた彼の横顔は、出会った頃よりもずっと穏やかで、優しかった。
私は幸せを噛み締めながら、愛する人たちと共に、温かい明かりの灯る部屋へと戻っていった。




