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第10話 かゆい所に手が届く、最高の人生



「ママー! おじいちゃんがまたおやつ盗み食いしてるー!」


 平和な午後のサンルームに、可愛らしい告げ口の声が響き渡った。

 私が振り向くと、三歳になる双子の息子たちが、頬を膨らませてテーブルを指差している。


 そこには、猫ほどの大きさしかない小さな竜――かつて世界を滅ぼしかけた始祖竜が、口の周りをクッキーの粉だらけにして鎮座していた。


『フォッフォッフォ。人聞きが悪いのぅ。これは味見じゃよ、味見』

「もう、おじいちゃんったら。夕飯前ですよ?」


 私は呆れながら、始祖竜の口元をハンカチで拭いてあげた。

 彼は気持ちよさそうに目を細め、私の手に擦り寄ってくる。


『エルマの手はいつ触れても極楽じゃのぅ。ついでに首の凝りもほぐしてくれんか?』

「はいはい、あとでね」


 あの大騒動から、数年の月日が流れた。

 世界は平穏を取り戻し、「大共鳴」の恐怖は過去のものとなった。

 教団は解体され再編され、今では「竜と人の共存」を説く穏健な組織に生まれ変わっている。


 そして私は、公爵夫人として、二児の母として、そして竜たちの「通訳」として、目の回るような忙しい日々を送っていた。


『エルマ! 俺も! 俺も遊んでくれ!』


 庭からドスンと音がして、巨大な黒い影が窓を塞いだ。

 ヴェルドアだ。

 彼は以前にも増して立派な体格になったけれど、中身は相変わらず甘えん坊のままだ。


「ヴェルドア、子供たちの相手をしてくれてありがとうね」

『おうよ! こいつら、すぐ俺の尻尾に乗ろうとするから危なくて目が離せねぇんだ』


 文句を言いながらも、ヴェルドアの声は弾んでいる。

 彼は双子たちにとって、最高に強くて優しいお兄ちゃんなのだ。


「きゃー! べるどあー!」

「のるー! とぶー!」


 双子たちが歓声を上げて庭へ飛び出していく。

 ヴェルドアは器用に体を低くし、子供たちが登りやすいように背中を差し出している。


『ほら、落ちるなよ。低空飛行で行くからな』


 微笑ましい光景だ。

 かつて「生物兵器」と呼ばれた彼が、こんな風に幼子を背に乗せて遊ぶ日が来るなんて。


 私はサンルームの椅子に腰掛け、温かい紅茶を口に含んだ。

 幸せだなぁ。

 特別な「巫女」として崇められるよりも、こうして家族の笑い声に包まれている方が、私には何倍も似合っている。


 カチャリ。


 玄関の方で、扉が開く音がした。

 この時間の帰宅は珍しい。


「ただいま、エルマ」


 リビングに入ってきたのは、少し疲れた様子の、けれど私を見てパッと表情を輝かせた夫――グレイド様だった。

 騎士団の制服を少し着崩し、銀色の髪をかき上げている。

 年を重ねて、その美貌には渋みが加わり、ますます魅力が増している気がする。


「お帰りなさい、あなた。今日は早いのですね」

「ああ。君に会いたくて、仕事をマッハで片付けてきた」


 彼は迷いなく私に歩み寄り、抱きしめてキスをした。

 子供たちが庭にいるのをいいことに、相変わらず情熱的だ。


「んっ……ふふ、お疲れ様です。お茶を淹れますか?」

「いや、君の顔を見ただけで疲れが半分吹き飛んだ。残りの半分は……」


 彼は甘えるように私の肩に頭を乗せた。

 最強の騎士団長が、家ではこんなに甘えん坊だなんて、部下たちは夢にも思うまい。


「残りの半分は?」

「君の手で癒やしてほしい」


 私は苦笑して、サイドテーブルに置いてあった愛用の道具を手に取った。

 使い込まれて艶が出た、ミスリル製の孫の手だ。


「肩ですか? それとも腰?」

「全部だ。……と言いたいところだが」


 グレイド様は顔を上げ、いたずらっぽく笑った。


「今日は背中じゃない」

「えっ?」

「ここだ」


 彼は自分の胸――心臓のあるあたりを指差した。


「心がかゆいんだ。君が足りなくて」


 キザな台詞を、真顔で言う。

 新婚当時なら顔を真っ赤にしていただろうけれど、今の私はもう慣れっこだ。

 というか、この不器用な求愛表現が、どうしようもなく愛おしい。


「まあ。それは重症ですね」


 私は孫の手を置き、両手で彼の頬を包み込んだ。


「特効薬が必要ですね」

「ああ。至急、処方してくれ」


 私たちは自然と唇を重ねた。

 深く、長く。

 互いの体温と愛情を確かめ合うように。


 庭からは、子供たちのはしゃぐ声と、ヴェルドアの楽しげな咆哮が聞こえてくる。

 足元では、始祖竜がクッキーの食べかすをこぼしながら昼寝を始めている。


 なんて騒がしくて、温かい日常だろう。


 かつて私は、婚約破棄され、居場所を失った「つまらない女」だった。

 魔獣の言葉がわかるだけの、地味な令嬢だった。

 

 でも今は違う。

 私は世界一幸せな「通訳」だ。

 竜たちの声を聞き、子供たちの言葉にならない思いを汲み取り、そして愛する夫の心を誰よりも深く理解できる。


「……愛しているよ、エルマ」


 グレイド様が、私の額に額を当てて囁く。


「私もです、グレイド様」


 言葉は、心を伝えるための道具だ。

 でも、本当に大切なことは、言葉にしなくても伝わる。

 この温もりが、鼓動が、何よりの証拠だから。


 私は夫の背中に手を回し、優しくさすった。

 かゆい所に手が届く。

 そんな些細で、けれどかけがえのない触れ合いこそが、私たちが選び取った「最高の人生」なのだ。


 窓の外には、どこまでも青く澄んだ空が広がっている。

 明日もきっと、賑やかで忙しくて、最高に幸せな一日になるだろう。


 私は満ち足りた気持ちで、愛する人の腕の中に身を預けた。


(完)


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