第3話 冷徹団長様は竜の「おねだり」通訳に弱いようです
ゴオオオ、という地鳴りのような寝息が、石造りのドームに響いている。
竜騎士団での仕事が始まって、一週間が経った。
私の朝は早い。
まずはヴェルドアの寝床を掃除し、飲み水を入れ替え、そして日課のブラッシングをする。
「おはよ、ヴェルドア。今日も鱗の艶がいいね」
私が声をかけると、巨大な黒竜は薄目を開け、鼻先を私の腰に押し当ててきた。
『……ん、おはよ。そこ、背中の真ん中。もうちょい右』
私は苦笑しながら、特注の道具を構えた。
ミスリル銀で作られた、柄の長い巨大な孫の手だ。
先端は絶妙なカーブを描き、硬い鱗の隙間にも入り込むように設計されている。
カリカリ、ゴリゴリ。
孫の手を動かすと、ヴェルドアは喉を鳴らして脱力した。
『あ〜、そこそこ。お前、マジで天才だな』
褒められた。
国宝級の金属をこんなことに使っていいのかと最初は震えたけれど、今ではすっかり手になじんでいる。
平和だ。
一週間前までは「近づけば死ぬ」と言われていた場所とはとても思えない。
そんな穏やかな空気を破るように、重厚な足音が近づいてきた。
白銀の鎧をきっちりと着込んだ、グレイド団長だ。
「おはよう、エルマ。変わりはないか」
相変わらずの美貌。そして氷のような無表情。
彼は毎朝こうして、視察という名目でやってくる。
「おはようございます、団長様。ヴェルドアも機嫌が良いようです」
「そうか」
彼は少しだけ視線を逸らし、咳払いをした。
そして、いつもの質問を投げかけてくる。
「……昨夜は、その、何か言っていなかったか?」
これだ。
彼は毎日、私が帰った後のヴェルドアの様子や、呟いた言葉を聞きたがるのだ。
管理官としての報告義務だと思って、私は手元のメモ帳を開いた。
「ええと、昨夜寝る前に少し。団長様が見回りに来られた時ですよね?」
「ああ。私が頭を撫でようとしたら、鼻を鳴らしていたが……あれは威嚇だったのか?」
グレイド団長の声が少し硬い。
私は首を横に振った。
「いいえ。ヴェルドアはこう言っていました。『団長の鎧、ひんやりしてて気持ちいいから好き。もっと触ってくれればいいのに』と」
その瞬間。
グレイド団長が、口元を手で覆ってうつむいた。
耳まで真っ赤になっている。
「……そ、そうか……好き、か……」
「団長様? 大丈夫ですか?」
顔色が悪いわけではないようだが、プルプルと震えている。
暑いのだろうか。この竜舎は保温のために少し室温が高めだから、フルプレートアーマーでは蒸れるのかもしれない。
「……問題ない。続けてくれ」
彼は素早く表情を戻したが、声が少し上ずっていた。
不思議な人だ。
その時、ヴェルドアがむくりと起き上がり、大きなお腹を鳴らした。
グゥゥゥゥ、という音だけで空気が振動する。
『腹減った。飯』
「あ、ご飯の時間ですね。すぐ用意させます」
私は入り口に待機していた補給係の騎士に合図を送った。
すぐに荷車が運ばれてくる。
積まれているのは、牛の半身ほどの巨大な生肉の塊だ。
血が滴るそれを、騎士たちはフォークリフトのような魔導具で持ち上げ、餌箱へと放り込んだ。
「ヴェルドア様、朝食です!」
いつもの光景だ。
しかし、今日のヴェルドアは違った。
肉の塊を鼻先でツンと突き、ふんと鼻息を吹きかけたのだ。
『……チッ』
え、舌打ち?
ヴェルドアは私の方を向き、不満げに言った。
『なぁエルマ。俺、最近胃もたれすんだよな』
「胃もたれ?」
『生肉って脂っこいじゃん? なんかこう、もっと香ばしくて、中はジューシーなやつが食いたい』
なんという注文だろう。
野生の本能はどうした。
『焼いてくれよ。焼き加減はレアで。あと塩コショウも振ってくれ』
「……ええー」
私は困り果てて団長を見た。
彼は既に冷静さを取り戻し(まだ少し耳が赤いが)、私に尋ねた。
「どうした? 食欲がないのか?」
「いえ、その……『生肉は脂っこいから嫌だ』と。焼いてほしいそうです。レアで、味付けも希望だと」
騎士たちがざわめいた。
団長も目を丸くしている。
「竜が……料理を要求するのか?」
「はい。どうしましょう」
「……厨房に伝えよう。用意させる」
団長の判断は早かった。
私たちはヴェルドアを待たせ、騎士団の食堂裏にある厨房へと向かった。
***
「はあ!? 竜にステーキを焼くだと!?」
厨房に入ると、恰幅のいいコック長が包丁をまな板に突き立てて怒鳴った。
湯気と熱気が充満する戦場のような場所だ。
数百人の騎士の胃袋を支える彼らにとって、竜の餌など管轄外なのだろう。
「ふざけるな! 俺たちはこれから昼食の仕込みで忙しいんだ! だいたい、あんなデカい肉を焼く鉄板なんてねえよ!」
コック長は私の顔を睨みつけた。
「嬢ちゃん、竜語がわかるだか何だか知らねえが、動物のワガママにいちいち付き合ってられるか。生で食えねえなら飢え死にするだけだ!」
ごもっともだ。
でも、ヴェルドアはお腹を空かせている。
あの子(竜)は、私が来てからずっと良い子にしていた。
たまの贅沢くらい、叶えてあげたい。
私はコック長を真っ直ぐに見返した。
「鉄板がないなら、私が焼きます。場所と調味料だけ貸してください」
「ああん? お前みたいな細腕で何ができるってんだ」
「やります。ヴェルドアがお腹を空かせて待っているんです」
私の剣幕に、コック長が少し怯んだ。
背後で見ていたグレイド団長が口を開こうとしたが、私はそれを手で制した。
ここで権力を使えば無理強いはできるけれど、毎日ご飯を作ってもらうなら、現場の理解が必要だ。
「……チッ。勝手にしろ! 火傷しても知らねえぞ!」
コック長は顎で大鍋の方をしゃくった。
私は「ありがとうございます!」と頭を下げ、準備に取り掛かった。
牛半頭分の肉。
通常のフライパンでは無理だ。
私は大鍋の蓋として使われている巨大な鉄板を引きずり出し、魔導コンロの火力を最大にした。
ジュウウウウウ!
肉を乗せると、猛烈な音と煙が立ち上る。
重い。熱い。
でも、私は負けない。
岩塩を鷲掴みにして振りかけ、肉汁を閉じ込めるように表面を焼き固める。
「おい、トングじゃ無理だ! スコップを持ってこい!」
見かねた若い料理人が、新品の調理用スコップを持ってきてくれた。
私はそれを借りて、全身の力を使って肉を裏返す。
ボワッ! と炎が上がる。
香ばしい匂いが厨房中に広がった。
コック長の手が止まり、他の料理人たちも集まってくる。
「……おいおい、マジかよ」
「あの量の肉を、一人で……」
焼き上がったのは、表面はカリッと、中は肉汁たっぷりの特大ステーキ。
私はそれを台車に乗せ、汗を拭った。
「お借りしました! ありがとうございます!」
呆然とするコック長たちに一礼し、私は急いで竜舎へと戻った。
***
『うおおおおお! これこれ! こういうのが食いたかったんだよ!』
ヴェルドアは大興奮だった。
焼きたての肉にかぶりつき、ハフハフと熱がりながらも、幸せそうに咀嚼している。
『うめぇ! エルマ、お前最高! 一生ついてく!』
あっという間に完食し、彼は満足げに寝転がった。
その様子を見て、私はへなへなとその場に座り込んだ。
腕がパンパンだ。
「……見事だ」
一部始終を見ていたグレイド団長が、静かに言った。
彼は私の前に膝をつき、ハンカチで私の顔についた煤を拭ってくれた。
距離が近い。
彼の綺麗な指先が頬に触れて、心臓が跳ねる。
「君は、本当にヴェルドアのために動くのだな」
「……仕事ですから。それに、美味しいものを食べてほしいじゃないですか」
私が答えると、彼は小さく微笑んだ。
氷が溶けるような、見たこともない優しい表情だった。
その日の午後。
グレイド団長の名前で、厨房に通達が出された。
『今後、竜舎管理官エルマの要求する食材および調理器具は、最優先で提供すること。彼女の言葉は、私の言葉と同義と心得るべし』
厨房だけでなく、騎士団全体にその命令は響き渡ったらしい。
廊下ですれ違う騎士たちが、私を見るなり「お疲れ様です!」「聖女様!」と敬礼してくるようになった。
聖女?
いや、私はただ肉を焼いて、背中を掻いただけなんだけど。
『エルマ〜、次はデザート食いたい。甘いやつ』
甘えん坊の最強生物に寄りかかられながら、私は遠い目をした。
どうやら私の「目立たずひっそり暮らす」という計画は、完全に崩壊してしまったようだ。
でも、まあ。
この温かい寝息を聞いていると、それも悪くないかもしれない、なんて。
少しだけ、そう思ってしまったのだった。




