第8話 歴史が変わる音がする
世界が白に染まった。
私が最後の角質を引き抜いた瞬間、始祖竜の背中から放たれたのは、破壊の炎でも呪いの瘴気でもなかった。
それは、純粋で膨大な、魔力の奔流だった。
『ほ、ほぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!』
天を衝く絶叫。
けれどそれは、苦痛の悲鳴ではない。
千年分の肩こりが解け、溜まりに溜まった老廃物が排出された瞬間の、極上の解放感。
端的に言えば、気持ちよすぎて声が出たのだ。
魔力の柱が雲を突き抜け、成層圏まで駆け上がっていく。
その余波で、始祖の谷を覆っていた万年の吹雪が一瞬で消し飛んだ。
分厚い鉛色の雲が渦を巻いて晴れていき、見たこともないほど澄み切った青空が広がっていく。
「……すごい」
私は強風に飛ばされないよう、ヴェルドアの角にしがみついて空を見上げた。
太陽の光が降り注ぐ。
その光は、谷底だけでなく、遥か遠くの世界中へと広がっていくように見えた。
肌を刺していたピリピリとした殺気が消え、代わりに春の日差しのような温かい空気が満ちていく。
『あぁ……極楽じゃ……』
脳内に響く声も、もはやノイズ混じりの悲鳴ではなかった。
温泉に浸かった後のような、心底リラックスした老人の独り言だ。
「終わった……の?」
私は手元を見た。
特大孫の手の先端には、バスぐらいの大きさがある黒い塊が突き刺さっている。
これが、世界を滅ぼしかけた元凶。
千年の垢だ。
ポイッ。
私はそれを谷底へ投げ捨てた。
「お疲れ様、エルマ」
背後から、グレイド様の声がした。
振り返ると、彼は剣を収め、呆れたような、それでいてどこか誇らしげな笑顔で私を見ていた。
「まさか本当に、孫の手一本で神話を終わらせるとはな」
「グレイド様たちの協力があったからです。私一人じゃ、あんな岩みたいなの抜けませんでした」
「謙遜するな。君が『話を聞く』という選択をしなかったら、私たちは今頃、この老人の癇癪に付き合って全滅していただろう」
彼は私の頭を撫でた。
その手は温かく、戦いの緊張から解放された安堵が伝わってくる。
私たちは証明したのだ。
世界を救うのに、悲劇的な自己犠牲なんて必要なかった。
ただ、相手の痛みを知り、適切なケアをする。
それだけでよかったのだ。
その時、足元の巨大な背中が光に包まれ始めた。
『むぅ……体が軽いのぅ』
始祖竜の体が、光の粒子となって縮んでいく。
山脈のようだった巨体が、みるみるうちに小さくなっていく。
「えっ!? 消えちゃうの!?」
「いや、これは……圧縮か?」
私たちは慌ててヴェルドアの背中に避難し、その様子を見守った。
光が収束した先に残ったのは、一匹の小さな竜だった。
サイズは人間と同じくらい。
白銀の髭を生やし、背中を少し丸めた、二足歩行のドラゴン。
手には杖を持っている。
どう見ても、「近所の好々爺」といった風情だ。
小さくなった始祖竜は、空中にふわりと浮いたまま、自身の背中をポンポンと叩いた。
『うむ。軽い。羽が生えたようじゃ』
『じいちゃん、元から羽は生えてるだろ』
ヴェルドアが冷静にツッコミを入れる。
始祖竜は「フォッフォッフォ」と笑い、ゆっくりとこちらへ近づいてきた。
その瞳は澄んだ翡翠色で、知性と慈愛に満ちている。
『礼を言うぞ、若いの。そして、そこの小さき娘よ』
彼は私の目の前まで来ると、杖をついて深々と頭を下げた。
『千年の間、わしはずっと背中が痒くて死にそうじゃった。歴代の巫女たちは、わしの精神を眠らせて誤魔化すばかりで、誰一人として垢を落としてくれなんだ』
「それは……お辛かったですね」
『うむ。だが、お主は違った。わしの声を聞き、痛みを取り除いてくれた。……見事な手際じゃったぞ』
彼は顔を上げ、私の手を両手(前足?)で握りしめた。
ぷにぷにとした肉球の感触がする。
『極楽じゃった……。あのカリカリという絶妙な力加減、まさに神業。わしは感動した』
「あ、ありがとうございます……?」
世界を救った感想が「カリカリが気持ちよかった」でいいのだろうか。
まあ、結果オーライだ。
『名はなんと言う?』
「エルマです。こっちは夫のグレイド、相棒のヴェルドアです」
『エルマか。よい名じゃ。……どうじゃ? わしの専属マッサージ師にならんか? 世界の半分をやろう』
とんでもないことをさらりと言い出した。
魔王か何かか。
「お断りします。私は公爵夫人で、竜騎士団の顧問ですので」
『むぅ、つれないのぅ。まあよい、ならばせめて、これからも時々は掻きに来てくれんか? あの快感は病みつきになりそうじゃ』
始祖竜はウインクをした。
どうやら、この伝説の存在は、すっかり私の「孫の手」の虜になってしまったらしい。
グレイド様が苦笑して、私の肩を抱いた。
「どうやら君は、世界最強のコネクションを手に入れてしまったようだな」
「嬉しくないコネですね……肩もみの予約で埋まりそうです」
私たちは顔を見合わせて笑った。
眼下には、雲海が広がっている。
その下では、きっと暴走していた竜たちが正気を取り戻し、人々が安堵していることだろう。
教団が言っていた「滅びの運命」は、あっけなく回避された。
物理的なアプローチと、少しの思いやりによって。
私は空を見上げた。
どこまでも青く、広い空。
もう、誰も犠牲にならなくていい。
私は生きて、愛する人と共に帰ることができる。
その事実が、何よりも嬉しかった。
さあ、帰ろう。
私たちの家に。
でもその前に、教団や王族たちに、この結果をどう説明するか考えないといけないけれど。
まあ、このおじいちゃん竜がいれば、誰も文句は言えないだろう。
『よし、行くかの。久しぶりの下界じゃ。うまい茶でも飲みたいのぅ』
始祖竜がのんきに言い出し、私たちは揃って帰路についた。
歴史が変わる音は、案外、間の抜けたものだったのかもしれない。




