第6話 始祖竜の嘆き
「……下がるな! 突っ切れ!」
グレイド様の怒号が、轟音にかき消されそうになる。
始祖の谷は、暴風の坩堝だった。
目の前にそびえ立つ山のような巨体――始祖竜が、ただ一吠えするだけで、空気が圧縮されて砲弾のように飛んでくる。
物理的な衝撃波だ。
『ぐゥゥゥ……ッ! 重い……!』
ヴェルドアが悲鳴を上げながら、翼を羽ばたかせている。
前に進もうとしても、見えない壁に押し戻されるようだ。
頭痛を抱えた今の彼には、近づくだけでも限界に近い。
「エルマ! これ以上は危険だ! 一度体勢を立て直すか!?」
手綱を握るグレイド様が、焦燥の色を浮かべて振り返る。
彼の頬には、飛来した礫で切ったのか、赤い血が滲んでいた。
私は始祖竜を見上げた。
雲を突き抜ける巨大な頭部。
その瞳は白く濁り、どこを見ているのかもわからない。
ただ、苦しみにのたうち回るたびに、世界が揺れる。
声が、聞こえる。
でも、遠い。
ノイズのような感情の波が押し寄せてくるだけで、言葉として形を成していない。
――痛い、苦しい、誰か。
断片的な思念だけが、私の頭をガンガンと殴りつけてくる。
これが「竜巫女」の宿命なのかもしれない。
あまりに巨大で、あまりに悲痛な感情の奔流。
これを受け止めきれずに、歴代の巫女たちは心を壊し、自ら自我を溶かして同調する道を選んだのだ。
でも、私は違う。
私は人柱になりに来たんじゃない。
話を聞きに来たのだ。
「いいえ! 進んでください!」
私はグレイド様の背中にしがみつき、叫んだ。
「声が遠すぎます! もっと近くへ! あの子の言葉がはっきり聞こえる距離まで!」
「しかし、この衝撃波だぞ! 生身の君が耐えられる保証はない!」
「耐えます! あなたがいるもの!」
私の言葉に、グレイド様がハッとして目を見開いた。
一瞬の躊躇。
そして、彼はニヤリと笑った。
狂気じみた、けれど最高に頼もしい、戦士の笑みだ。
「……違いない。私の妻は、世界一頑丈だからな」
彼は剣を抜き放ち、切っ先を天に向けた。
白銀の魔力が、刀身から溢れ出す。
「ヴェルドア! 根性を見せろ! あの懐まで一気に飛び込むぞ!」
『へっ、当たり前だ! 俺を誰だと思ってやがる!』
ヴェルドアが呼応して吼える。
主人の気迫を受けて、黒竜の瞳に闘志が戻る。
「行くぞッ!」
ヴェルドアが翼を畳み、弾丸のように急降下した。
真正面からの突撃。
始祖竜がそれに気づき、口を大きく開けた。
喉の奥で、破壊の光が収束していく。
ブレスだ。
「させん!」
グレイド様が剣を振るう。
放たれた斬撃波が、始祖竜のブレスの出鼻をくじき、軌道をわずかに逸らす。
熱線が私たちの横を掠め、後方の山を消し飛ばした。
熱い。怖い。
でも、目は逸らさない。
距離が縮まる。
ノイズが大きくなる。
頭が割れそうだ。
何千人もの人間が、耳元で同時に叫んでいるような圧迫感。
「ぐっ……うぅ……!」
私は耳を塞ぎたくなるのを堪え、意識を一点に集中させた。
雑音を切り分けろ。
感情の波に飲まれるな。
私は通訳だ。
意味のある言葉だけを、拾い上げるんだ。
――聞こえろ。
あなたの声を、私に聞かせて。
ズンッ、と空気が重くなった。
私たちは、始祖竜の鼻先、わずか数十メートルの距離まで肉薄していた。
そこは、暴風の目の中に入ったように、奇妙な静寂に包まれていた。
そして。
その声は、届いた。
『……あ痛たたた……』
え?
『腰が……腰が痛いのぅ……』
『背中もムズムズするし……誰か……誰かおらんか……』
『寂しいのぅ……誰も来てくれん……』
脳内に響いたのは、世界を滅ぼす呪詛でも、神の怒りでもなかった。
それは、途方もなく長い時間を孤独に過ごしてきた、老人の愚痴だった。
私は拍子抜けして、思わず瞬きをした。
千年生きる伝説の竜。
人類の敵。
そう恐れられていた存在の正体が、これ?
『もう疲れたわい……楽になりたい……』
『いっそ暴れて、何もかも壊してしまえば、この痛みも消えるじゃろうか……』
悲痛な響きだが、内容は完全に「身体の不調にキレたお年寄り」のそれだ。
歴代の巫女たちは、このあまりに人間臭い(竜臭い?)愚痴の奔流を、神の託宣だと勘違いして受け止めすぎてしまったのではないだろうか。
恐怖が、急速に引いていく。
代わりに湧いてきたのは、職業病とも言える「お世話したい欲」だった。
「……聞こえました」
「何と言っている? やはり、人類への憎悪か?」
グレイド様が緊張した面持ちで問う。
私は首を横に振った。
「いいえ。ただの、肩こりと寂しさの訴えです」
「は?」
グレイド様が素っ頓狂な声を上げる。
ヴェルドアも『マジかよ』と目を丸くしている。
「よく見てください、グレイド様。あそこの、背中のあたり」
私は指差した。
始祖竜の首の付け根から背中にかけて、山脈のように隆起した鱗の隙間。
そこに、異様なものがへばりついているのが見えた。
巨大な岩のような、硬化した角質の塊。
そして、その周りをうごめく、馬車ほどの大きさもある不気味な生物たち。
「あれは……魔獣か?」
「たぶん、巨大なダニか何かです。あれが噛み付いて血を吸っているんですよ。それに、古い皮が剥がれ落ちずに溜まって、角質化しています」
千年の間、誰も手入れをしてくれなかった体。
たまった垢と、寄生虫。
そりゃあ、痛いし痒いし、不機嫌にもなるだろう。
『痛い……背中が焼けるようじゃ……』
始祖竜が涙声で呻き、身をよじる。
そのたびに衝撃波が発生し、世界を揺らす。
この「大共鳴」の原因は、ただの強烈な生理的不快感だったのだ。
「原因はわかりました。あとは、治療するだけです」
私は腰のベルトを確認した。
そこには、私の愛用する「ミスリル製孫の手」がある。
……でも、さすがにサイズが違いすぎる。
あんな巨体の、しかも岩のように固まった角質を相手にするには、爪楊枝にもならない。
「グレイド様。お願いがあります」
「なんだ。言ってみろ」
「あの寄生虫どもを、排除してください。それから、あの角質の塊を剣で削り取ってほしいんです」
「……物理治療か」
グレイド様がニヤリと笑った。
理解が早くて助かる。
「任せろ。神話の怪物と戦う覚悟はしていたが、まさか掃除を頼まれるとはな」
「掃除じゃありません。治療です!」
「違いはないさ。君が望むなら、あの山ごときれいに磨き上げてやる」
彼はヴェルドアの手綱を強く握りしめた。
「行くぞ、ヴェルドア! あの大先輩の背中を借りるぞ!」
『おうよ! 寄生虫退治なら任せとけ!』
ヴェルドアが加速する。
私たちは、暴れる始祖竜の背中――患部へと向かって突撃を開始した。
人柱なんて必要ない。
精神の同調なんてしなくていい。
必要なのは、適切なケアと、ちょっとした手助けだけだ。
私は大きく息を吸い込み、腹の底から声を張り上げた。
「おじいちゃん! 今、楽にしてあげるからね! ちょっとチクッとしますよ!」
私の声が届いたのか、始祖竜の濁った瞳が、わずかにこちらを向いた気がした。




