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第4話 夫の涙と、妻の決断



 荷物は持たないことにした。

 何も持たず、手紙も残さず、ただ静かに消えるのが一番いいと思ったからだ。


 夜明けまで、あと数時間。

 屋敷の中は、嵐の前の静けさに包まれている。

 騎士たちは防衛ラインの構築で外に出払っており、廊下には誰もいないはずだ。


 私はドレスの上から、目立たない灰色のローブを羽織った。

 足音を立てないように、靴を脱いで裸足になる。

 冷たい床の感触が、これから向かう場所の冷たさを予感させた。


「……さようなら、グレイド様」


 寝室のドアノブに手をかける。

 回すと、カチャリと小さな音がした。

 鍵は掛かっていない。

 彼はもう、私を閉じ込めたりしないと約束してくれたから。

 その信頼を裏切ることに胸が痛んだけれど、彼を生かすためにはこれしかない。


 私はそっとドアを開け、廊下へと踏み出した。


「……待っていたよ」


 足元から声がした。

 心臓が止まるかと思った。


 廊下の壁に寄りかかるようにして、一人の男が座り込んでいた。

 白銀の鎧を身につけたまま、膝を抱えている。

 グレイド様だった。


「グ、グレイド様……? どうして、ここに」

「君が出てくる気がしたんだ」


 彼は顔を上げた。

 その顔を見て、私は息を呑んだ。

 酷い顔だった。

 目の下には濃い隈があり、頬はこけ、瞳は充血している。

 何日も寝ていないのは知っていたけれど、今の彼はまるで幽鬼のようだった。


「指揮は……どうされたのですか?」

「副団長に任せた。今の私に、冷静な判断などできないからな」


 彼はふらりと立ち上がった。

 足元がおぼつかない。

 最強の騎士と呼ばれた彼が、立っているのがやっとという有様だ。


「どこへ行くつもりだ、エルマ」

「……トイレです」

「嘘だ」


 彼は私の腕を掴んだ。

 その手は氷のように冷たく、そして震えていた。


「行こうとしているんだろう? 教団のところへ。自分が犠牲になれば全て丸く収まると、そう思っているんだろう?」


 図星だった。

 私は視線を逸らし、唇を噛んだ。


「……それしか、ないじゃありませんか」

「ある! 私たちは戦える! 君を守り抜くことだって……!」

「守って、どうなるんですか!」


 私は声を荒らげた。

 抑えていた感情が溢れ出す。


「私を守るために、何人の騎士が死ぬんですか? 民衆を殺すんですか? 国を滅ぼすんですか? 私の命一つで、それが全部助かるなら……!」

「君のいない世界に、何の価値がある!」


 グレイド様が叫んだ。

 彼は私を壁に押し付け、肩に額を押し当ててきた。


「国など滅びればいい。世界など燃え尽きればいい。君がいないのなら、私は生きていけない。君を人柱にして得た平和の中で、私が正気でいられると思うか?」


 肩口に、熱いものが染み込んでくる。

 涙だ。

 あの冷徹で、強くて、誰よりも気高かった騎士団長が、子供のように泣いている。


「頼む、エルマ。行かないでくれ。私を置いていかないでくれ……」


 その慟哭を聞いて、私は初めて理解した。

 私の考えは、傲慢だったのだ。

 自分が犠牲になれば彼は助かるなんて、とんだ思い上がりだ。

 私が死ねば、彼は後を追う。

 あるいは、世界を憎んで本当に魔王のようになってしまうかもしれない。


 彼を生かすためには、私が生きていなければならないのだ。


「……ごめんなさい」


 私は彼を抱きしめ返した。

 痩せた背中をさすり、その震えを受け止める。


「私が間違っていました。勝手に諦めて、あなたを傷つけて……ごめんなさい」

「エルマ……」

「死にません。私は、あなたと一緒に生きたい」


 言葉にすると、力が湧いてきた。

 そうだ。

 なんで私は、死ぬことばかり考えていたんだろう。

 私たちはこれまで、竜の暴走も、他国の干渉も、全部乗り越えてきたじゃないか。


 今回だって、方法はあるはずだ。

 「竜巫女」として死ぬのではなく、「通訳」として解決する方法が。


「グレイド様。顔を上げてください」


 私は彼の方を掴んで、無理やり顔を上げさせた。

 涙と隈でぐしゃぐしゃの顔。

 世界一愛おしい夫の顔だ。


「泣いている場合じゃありませんよ。夜明けまで時間がありません」

「……あ、ああ。だが、どうすれば」

「逃げましょう」

「え?」


 グレイド様が目を丸くした。


「籠城は終わりです。ここで守られていてもジリ貧です。だったら、打って出るしかありません」

「打って出る? 教団軍にか?」

「いいえ。元凶のところへです」


 私は窓の外、北の空を指差した。


「ヴェルドアが言っていました。北から声がすると。全ての竜を暴走させている『始祖竜』がいる場所へ、直接乗り込みます」

「なっ……!?」

「教団に引き渡されるくらいなら、自分から会いに行きます。そして、文句を言ってやるんです。『うるさい、静かにしろ』って」


 とんでもない提案だ。

 世界中の竜が発狂するほどのプレッシャーを放つ化け物の元へ、自分から飛び込むなんて。

 でも、ここで座して死を待つよりは、よっぽど私たちらしい。


 グレイド様の瞳に、少しずつ光が戻ってくる。

 絶望の色が消え、戦士の、そして私の夫としての強い光が宿る。


「……無茶だ」

「知ってます。でも、あなたなら連れて行ってくれますよね?」

「当然だ」


 彼は涙を拭い、ニヤリと笑った。

 不敵で、頼もしい笑みだ。


「君が望むなら、地獄の底だろうとエスコートしよう。運命ごときに、私の妻は渡さない」


 彼は私の手を取り、その甲に口づけを落とした。

 誓いのキスだ。


「行きましょう、グレイド様。運命をねじ伏せに」


 私たちは頷き合い、廊下を駆け出した。

 目指すは竜舎。

 頭痛持ちの相棒を叩き起こして、最後の、そして最大の喧嘩を売りに行くのだ。


 夜明け前の闇の中、最強の夫婦の反撃が始まろうとしていた。


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