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第3話 籠城戦と、揺れる心



 濡らしたタオルを絞る手が、小刻みに震えていた。


 薄暗い竜舎の中。

 私はヴェルドアの額にある汗を拭った。

 最強の黒竜と呼ばれた巨体は、今は高熱にうなされ、苦しげな呼吸を繰り返している。


『……痛い……こわいよ……』

『あいつらが……怒ってる……こっちに来る……』


 うわ言のように繰り返される心の声。

 北から響く「始祖竜」の怒りが、ヴェルドアの精神を蝕んでいるのだ。

 私の拙い通訳スキルでは、その苦痛を取り除くことはおろか、和らげることさえできない。


「ごめんね、ヴェルドア。何もしてあげられなくて」


 無力感が胸を刺す。

 私が「竜巫女」としての運命を受け入れれば、この苦しみは終わるのだろうか。

 あの子を楽にしてあげられるのだろうか。


 ズズズン……。


 遠くから、重低音が響いた。

 雷ではない。

 結界の外で、何かが爆発した音だ。


「奥様、こちらにいらっしゃいましたか」


 背後から声をかけられ、私はびくりと振り返った。

 古株の侍女が、盆を持って立っていた。

 彼女の顔色は土気色で、目には隠しきれない恐怖が浮かんでいる。


「お食事をお持ちしました。少しでも召し上がってください」

「……ありがとう。でも、食欲がなくて」

「なりませぬ。旦那様が心配なさいます」


 侍女は無理やりに笑顔を作ろうとして、引きつっていた。

 無理もない。

 この屋敷は今、世界中から敵視されているのだから。


 私は盆を受け取り、重い足取りで本邸へと戻った。

 廊下の窓はすべて厚い板で塞がれているが、それでも外の喧騒は漏れ聞こえてくる。


『魔女を出せ!』

『人殺し! 俺たちの家族を返せ!』


 避難民たちの怒号。

 石が結界に弾かれる乾いた音。

 それは、私への死刑宣告のように聞こえた。


 ***


 執務室に入ると、そこは異様な熱気に包まれていた。


 グレイド様は地図を広げた机にかじりつき、部下たちに矢継ぎ早に指示を飛ばしている。

 その目は充血し、頬はこけていた。

 不眠不休で指揮を執り続けているのだ。


「西門の結界強度を上げろ! 魔石の予備を惜しむな!」

「しかし閣下、在庫が底をつきそうです!」

「構わん、私の私財を投じてでも調達しろ! 蟻一匹通すな!」


 怒鳴り声に近い指示。

 普段の冷静沈着な彼からは想像もつかない姿だった。


「……グレイド様」


 私が声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げた。

 私を認めた瞬間、その険しい表情が崩れ、安堵の色が広がる。


「エルマ……!」


 彼は駆け寄り、私を強く抱きしめた。

 汗と鉄の匂いがする。

 鎧越しに伝わる鼓動は、痛いほど早かった。


「無事か? どこも怪我はないか? 誰かに酷いことを言われていないか?」

「大丈夫です。私は、平気です」

「そうか、よかった。……ああ、本当によかった」


 彼は私の髪に顔を埋め、深呼吸をした。

 まるで、私の存在を確認しなければ息もできないかのように。


 その姿を見て、私は確信してしまった。

 彼はもう、限界だ。

 私一人のために、国を、民を、世界を敵に回して、擦り切れるまで戦おうとしている。


「グレイド様。もう、いいんじゃありませんか?」


 私の口から、諦めの言葉が滑り落ちた。


「これ以上、あなたや騎士団の皆さんが傷つくのを見ていられません。外の人たちだって、悪気があってやっているわけじゃないんです」

「……何を言っている」


 グレイド様が体を離し、私の肩を掴んだ。

 その力が強すぎて、少し痛い。


「私が言えば、教団も無体なことはしないはずです。きっと、ヴェルドアも助かる。だから……」

「ダメだ!!」


 雷が落ちたような大声だった。

 私は縮み上がった。


「二度と言うな! 君を差し出して得る平和など、偽物だ! そんな汚れた世界で生きて何になる!」


 彼の瞳には、狂気じみた光が宿っていた。

 それは愛と呼ぶにはあまりに重く、執着と呼ぶにはあまりに切実だった。


「君がいなくなったら、私はどうすればいい? この世界を愛せるはずがない。君のいない世界など、滅びてしまえばいいんだ」


 滅びてしまえばいい。

 公爵家の当主として、国を守る騎士として、決して口にしてはいけない言葉。

 それを言わせてしまったのは、私だ。

 私の存在が、彼を英雄から怪物へと変えてしまっている。


「……ごめんなさい」


 私は謝ることしかできなかった。

 彼を愛している。

 だからこそ、彼の手をこれ以上汚させたくなかった。


 その時。

 部屋の中央に設置された通信用の水晶が、不吉な赤色に明滅し始めた。


『……聞こえるか、愚かなる背教者たちよ』


 ノイズ混じりの声が響く。

 竜神教団の司教の声だ。

 強制的な魔法通信による割り込み。


『我々は慈悲深い。最後の猶予を与えよう』


 グレイド様が水晶を睨みつける。

 騎士たちが息を呑む。


『明日の夜明けと共に、太陽が昇るその時までに、巫女を引き渡せ。さもなくば――』


 司教の声が、冷酷な宣告へと変わる。


『我らはこれを「聖戦」と認定する。神の御名において、武力による強制排除を行う』


 通信が切れた。

 静寂が戻った部屋に、絶望だけが残された。


 聖戦。

 それはつまり、総攻撃の合図だ。

 避難民だけでなく、正規軍や教団の武装兵力が、この屋敷を蹂躙しに来るということだ。


「……上等だ」


 グレイド様が低く呟いた。

 彼は剣の柄を握りしめ、歪んだ笑みを浮かべた。


「来るなら来い。私の愛を邪魔する者は、神だろうと斬り捨てる」


 彼はもう、戻れないところまで来てしまっている。

 明日になれば、この屋敷は血の海になるだろう。

 彼が守ろうとしているのは私だけれど、その代償として支払われる命の数は、あまりにも多すぎる。


 私は震える手を隠すように、スカートを握りしめた。


 ――決めなければ。


 ただ守られるだけの幸せな妻でいる時間は、もう終わったのだ。

 彼の愛に甘えて、目を背けている場合じゃない。


 夜明けまで、あと数時間。

 それが、私に残された最後の猶予だった。


 グレイド様が再び地図に向き直り、防衛線の配置を叫び始める。

 その背中はとても大きく、そして悲しいほどに孤独だった。


 私は静かに執務室を出た。

 誰にも気づかれないように。

 心の中で、さよならを告げながら。


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