第2話 「竜巫女」という名の人柱
「……つまり、死ねということですか?」
私の問いかけに、応接室の空気が凍りついた。
テーブルの上には、竜神教団が街中にばら撒いたビラと、古めかしい羊皮紙の写しが置かれている。
そこに記されていたのは、残酷な真実だった。
『竜巫女とは、荒ぶる始祖竜の魂を受け入れる器なり』
『己が自我を溶かし、竜の怒りと同調することで、これを鎮める人柱とす』
人柱。
救世主などという綺麗な言葉で飾られていたけれど、求められているのは「死」だった。
いいえ、死よりも酷いかもしれない。
自我を溶かし、永遠に竜の怒りの中で彷徨うなんて。
「ふざけるな!」
グレイド様がテーブルを拳で叩きつけた。
厚い木の天板にヒビが入る。
「これが教団のやり方か! こんな出鱈目な伝承を盾に、私の妻を殺せと言うのか!」
「落ち着いてください、グレイド様」
私は震える手で、夫の腕に触れた。
彼は私よりも怒り、私よりも傷ついている。
その横顔を見ていると、胸が苦しくなる。
「でも、これが事実なら……私の『通訳スキル』にも説明がつきます」
動物や魔獣の言葉がわかる力。
それは単なる特技ではなく、異質な精神と同調するための「回路」だったのだ。
始祖竜の膨大な感情を受け止めるための、受信機。
「だからこそ、私でなければダメなんですね」
「エルマ、よせ。聞く必要はない」
グレイド様が私の肩を抱き寄せ、ビラを払いのけた。
「こんなものは妄想だ。君は私の妻で、竜騎士団の顧問だ。それ以外の何者でもない」
「……はい」
頷きながらも、私の心は鉛のように重かった。
窓の外から、遠い地鳴りのような音が聞こえてくる。
竜の咆哮だ。
世界中で、今も誰かが襲われている。
***
状況は、刻一刻と悪化していた。
教団のプロパガンダは効果覿面だった。
「公爵家が救世の巫女を独占し、世界の危機を見殺しにしている」
そんな噂が、山火事のように広がっていったのだ。
特に、竜の襲撃を受けて家を失った避難民たちの反応は激しかった。
彼らは救いを求めて王都へ、そしてこの公爵領へと押し寄せてきていた。
午後。
私はカーテンの隙間から、正門の様子を覗き見た。
鉄柵の向こうに、数えきれないほどの人だかりができている。
ボロボロの服を着た人々。泣き叫ぶ子供。疲弊しきった老人たち。
「巫女様を出せ!」
「俺たちの村は焼かれたんだぞ!」
「一人の命で世界が助かるなら、安いもんじゃないか!」
罵声。懇願。そして怨嗟。
彼らは悪人ではない。
ただ、怖いのだ。
明日をも知れぬ恐怖の中で、提示された「簡単な解決策」に縋り付いているだけなのだ。
――私が、行けば。
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
もし本当に、私が人柱になることで、この人たちが救われるなら。
竜たちの暴走が止まり、ヴェルドアの頭痛も治るなら。
「……ダメだ、エルマ」
背後から、強い力で抱きしめられた。
グレイド様だ。
いつの間に部屋に入ってきていたのだろう。
「考えるな。君の悪い癖だ」
「グレイド様……」
「『自分さえ我慢すれば』なんて思うな。君が犠牲になって得られる平和になど、何の価値もない」
彼の声は震えていた。
耳元で聞こえる心臓の音は、早鐘のように激しい。
「でも、見てください。あんなにたくさんの人が……」
「関係ない!」
グレイド様が私を窓から引き剥がし、強い視線で見下ろした。
「世界中が敵に回ろうと、私は君を渡さない。君を守るためなら、私は悪魔にでもなる」
「……っ」
その瞳に宿る光は、愛と呼ぶにはあまりに重く、狂気と紙一重の執着だった。
嬉しいはずなのに、怖い。
私の命が、彼をここまで追い詰めている。
私がいるせいで、彼は国を、民を、世界を切り捨てようとしている。
「グレイド様は、優しすぎます」
「優しさではない。エゴだ。私の世界には、君が必要なんだ」
彼は私の額に口づけを落とした。
それは祈りのようでもあり、鎖のようでもあった。
***
日が暮れても、民衆は立ち去らなかった。
それどころか、人数は増える一方だった。
闇の中に、無数の松明の明かりが揺れている。
まるで、屋敷を取り囲む炎の海のようだ。
『巫女を出せ! 巫女を出せ!』
シュプレヒコールが、呪詛のように響き渡る。
石が投げ込まれる音がした。
窓ガラスが割れる音。
誰かの悲鳴。
公爵邸は、完全に孤立していた。
騎士団が必死にバリケードを築いているが、相手は非武装の避難民だ。
剣を向けるわけにはいかない。
じりじりと、包囲網が狭まってくる。
私は暗い部屋の中で、膝を抱えて座り込んでいた。
ヴェルドアは頭痛で動けない。
グレイド様は前線で指揮を執っている。
一人ぼっちだ。
世界中から拒絶されているような、冷たい感覚。
レオン皇子の言葉を思い出す。
『拒めば世界が滅びる』。
それは、こういう意味だったのか。
竜に滅ぼされる前に、人間の悪意と恐怖によって、私たちの居場所が壊されていく。
「……ごめんなさい」
誰にともなく、謝罪の言葉が漏れた。
生まれてきてごめんなさい。
こんな力を持っていてごめんなさい。
あなたを困らせて、ごめんなさい。
窓の外の明かりが、ゆらゆらと揺れる。
それはまるで、私を焼き尽くそうとする断罪の炎のように見えた。
私の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちていく音がした。
生きる意志と、諦めの境界線が、曖昧になっていく。
明日になれば、きっと教団は強硬手段に出るだろう。
その時、グレイド様はどうするつもりなのだろう。
民衆を斬り捨ててでも、私を守るのだろうか。
血塗れの英雄に、彼をしてしまうのだろうか。
それだけは、嫌だ。
私はゆっくりと立ち上がった。
足が震える。
でも、ここでじっとしていることだけは、どうしてもできなかった。




