第1話 世界中の竜が不機嫌です
空の色が、妙に濁っている気がした。
レオン皇子が去り、ベアトリス夫人に認められてから数ヶ月。
公爵邸での生活は穏やかに過ぎていたはずだった。
けれど、今日の空気は重い。
肌にまとわりつくような湿気と、遠くで鳴り続ける地鳴りのような音が、不安を掻き立てる。
「……エルマ、下がっていなさい」
竜騎士団の作戦室。
グレイド様が険しい表情で地図を睨んでいる。
その周囲では、通信兵たちが青ざめた顔で報告を叫び合っていた。
「東部方面軍より入電! 配備されていた飛竜部隊が命令を無視し、基地を破壊して逃走!」
「西の同盟国からも緊急連絡です! 野生の竜が街を襲撃中、騎士団の竜も制御不能とのこと!」
「被害甚大! これ以上は抑えきれません!」
飛び交うのは、悲鳴のような報告ばかりだ。
世界中の竜が、一斉に暴れ出したというのだ。
「どうなっているんだ……。原因は特定できたか?」
「いえ、不明です! ただ、全ての竜が何かに怯えるように、北の方角を向いて咆哮していると……」
北。
その言葉に、私はハッとした。
「ヴェルドア!」
私は作戦室を飛び出し、竜舎へと走った。
グレイド様の制止する声が聞こえたけれど、今はあの子のことが心配でたまらなかった。
竜舎に着くと、そこには頭を抱えてうずくまる黒竜の姿があった。
『……あぁ……うぅ……痛い……』
ヴェルドアの声が、直接脳内に響いてくる。
いつもの元気な声じゃない。
割れるような頭痛に耐える、苦悶の声だ。
「ヴェルドア! しっかりして! どこが痛いの!?」
私が駆け寄り、その鼻先を撫でる。
いつもなら冷んやりとしている鱗が、高熱を発しているように熱い。
『頭が……割れる……声が、聞こえるんだ……』
「声?」
『北から……怖い声が……呼んでる……怒ってる……』
ヴェルドアはガタガタと震えていた。
最強の黒竜が、何かに怯えている。
ただ事ではない。
私は持っていたハンカチを水で濡らし、彼の額に当ててやった。
「大丈夫、私がついてる。変な声なんて聞かなくていいのよ」
『エルマ……そばにいて……行かないで……』
巨大な体を小さく丸め、私にすがりついてくる。
私は必死に背中をさすり続けた。
胸騒ぎが止まらない。
レオン皇子が去り際に残した言葉が、脳裏をよぎる。
――大陸中の国が、あんたの力を欲しがるだろう。
その予言が、最悪の形で現実になろうとしている気がした。
***
その日の午後。
公爵邸の正門前に、物々しい一団が現れた。
白装束に身を包み、金の刺繍が施された法衣を纏った男たち。
大陸で最も信者が多いとされる「竜神教団」の使者たちだ。
彼らの背後には、護衛と思われる神殿騎士たちがずらりと並んでいる。
応接間に通された使者の代表――司教と名乗る男は、慇懃無礼な態度で一枚の羊皮紙をテーブルに広げた。
「単刀直入に申し上げます、グレイド公爵。奥方であられるエルマ様を、我ら教団にお預けいただきたい」
グレイド様は眉一つ動かさず、冷ややかに司教を見据えた。
「断る。帰れ」
「おやおや、ご自身の立場をお忘れですか? これは教団だけでなく、周辺諸国の王族連名による正式な要請書ですよ」
司教は羊皮紙を指先で叩いた。
そこには確かに、各国の王家の紋章が並んでいる。
断れば国際問題になりかねない、強烈な圧力だ。
私はグレイド様の隣で、拳を握りしめていた。
怖い。
けれど、ここで逃げるわけにはいかない。
「……理由を伺っても?」
私が尋ねると、司教は狂信的な光を宿した瞳で私を見た。
「世界中で起きている『大共鳴』。竜たちの暴走。これを鎮められるのは、古の伝承にある『竜巫女』のみ」
「竜巫女……」
「そうです。魔獣の言葉を解し、心を通わせる者。エルマ様、あなたこそがその再来なのです」
司教は芝居がかった仕草で両手を広げた。
「世界は滅びの危機にあります。あなた一人の力で、あまねく命が救えるのです。さあ、慈悲の心がおありなら、我らと共に聖地へ!」
救世。
その言葉の響きは甘美だが、裏に透けて見えるのは「人身御供」という残酷な響きだった。
私一人が犠牲になればいい。
そう言われている気がした。
動揺する私の肩を、グレイド様の手が強く抱いた。
「戯言を」
グレイド様が吐き捨てるように言った。
「妻は道具ではない。世界を救うために一人の女性を犠牲にするなど、笑止千万だ」
「公爵! 世界の危機なのですよ! 一個人の感情で拒絶するなど……!」
「黙れ」
グレイド様の殺気が、部屋の空気を凍りつかせた。
彼は司教を睨みつけ、低く告げた。
「エルマは私の妻だ。彼女の意志を無視して連れ去ろうとするなら、教団だろうが国家だろうが、全て敵とみなす」
「なっ……正気ですか!? 世界を敵に回すことになりますぞ!」
「望むところだ。私の世界は、彼女がいなければ存在しないも同然だからな」
迷いのない言葉だった。
グレイド様は立ち上がり、扉を指差した。
「失せろ。二度と敷居を跨ぐな」
司教は顔を真っ赤にして立ち上がった。
屈辱と怒りに震えながら、捨て台詞を吐く。
「……後悔しますよ。拒めば世界が滅びるのです。その時、全ての罪はあなた方が背負うことになる!」
使者たちが去っていく。
嵐が過ぎ去った後のような静寂の中で、グレイド様は私を強く抱きしめた。
「怖がらせてすまない。……大丈夫だ、私が守る」
その腕の温かさに、私は身を委ねた。
けれど、胸のざわめきは消えない。
世界が滅びる。
その言葉が、呪いのように耳にこびりついて離れなかった。




