第9話 竜帝の敗北と、新しい友達
私は泥だらけの手でアカの鼻先を撫でながら、泥水の中に座り込んだままのレオン皇子を見つめた。
かつて「竜帝」と名乗り、傲慢な笑みを浮かべていた皇子の面影はない。
彼は信じられないものを見る目で、自分の相棒だったはずの赤竜を見上げていた。
「……なぜだ」
絞り出すような声が漏れる。
「俺は、こいつに全てを与えたはずだ。最強の力も、食事も、寝床も。支配こそが、知能の低い魔獣に対する最大の慈悲だったはずだ。それなのに……」
「違います」
私は静かに言葉を挟んだ。
アカが、私の手のひらに温かい鼻息を吹きかけてくる。
その振動と共に、彼の心の声が流れ込んでくる。
「アカは、あなたを裏切ったのではありません。ただ、気づいてほしかっただけです」
「気づく? 何をだ」
「聞いてください。彼の声を」
私はアカの首筋を優しく叩き、通訳を始めた。
「『ご主人様』」
「……!」
レオンの肩が震えた。
「『僕は強くなりました。言う通りにしました。だから、一度でいいから鞭じゃなくて、その手で触れてほしかった』」
私はアカの言葉を紡ぐ。
それは、暴力を振るわれてもなお主人を慕う、健気で切ない願いだった。
「『痛いのは嫌です。でも、ご主人様の役に立たないのはもっと嫌です。だから……お願いです。僕を見てください。道具じゃなくて、相棒として』」
通訳を終えると、アカは不安げにクゥンと喉を鳴らし、レオンの方へと首を伸ばした。
攻撃するつもりはない。
ただ、その赤い瞳で、主人の答えを待っている。
レオンは呆然と口を開けていた。
彼が信じていた「道具としての竜」は、そこにはいなかった。
意思を持ち、感情を持ち、主人の愛を乞う生き物がいるだけだ。
「……俺は……」
レオンが震える手を伸ばした。
アカの鼻先が、その指に触れる。
ビクリと身を竦めるレオン。
しかし、アカは噛み付く代わりに、ザラザラした舌で彼の手を舐めた。
「っ……!」
レオンの目から、涙が溢れた。
彼は泥水も構わずに立ち上がり、アカの首に抱きついた。
「すまなかった……アカ……! 俺が、間違っていた……!」
アカが嬉しそうに目を細め、翼でレオンを包み込む。
支配の楔などなくても、彼らの絆はそこにあったのだ。
私はほっと息を吐き、へなへなと座り込みそうになった。
そこへ、温かい腕が差し出される。
「お疲れ様、エルマ」
グレイド様だ。
彼は私を支え、ハンカチで頬の汚れを拭ってくれた。
その表情は、どこか誇らしげだ。
「君の勝ちだ。剣を抜くまでもなかったな」
「ふふ、言葉が通じてよかったです。でも、これからが大変ですよ」
私は腰に差していた「ミスリル製の孫の手」を抜いた。
そして、感動の再会を果たしているレオン皇子に歩み寄る。
「レオン様」
「……公爵夫人」
レオンが涙を拭い、バツが悪そうに私を見た。
私はニッコリと笑い、孫の手を差し出した。
「これ、差し上げます」
「は? なんだその棒切れは」
「棒切れじゃありません。竜とのコミュニケーションに必須の『魔法の杖』です」
私は孫の手の先端をアカの首元――鱗の隙間に当てた。
カリカリ、と軽く掻く。
『んあ……そこ……きもちいい……』
アカが蕩けた顔をして、力が抜けたようにへたり込んだ。
レオンが目を剥く。
「なっ!? なんだ今の反応は!?」
「竜は体が大きいので、自分では掻けない場所がたくさんあるんです。そこを優しく掻いてあげると、一発で仲良くなれますよ」
私は孫の手をレオンに握らせた。
「支配や命令よりも、まずは『かゆいところ』を見つけてあげてください。そうすれば、きっと最高の相棒になれます」
「か、かゆいところ……」
レオンは孫の手とアカを交互に見て、複雑そうな顔をした。
けれど、その目にもう以前のような傲慢な光はない。
「……わかった。試してみる」
彼は不器用な手つきで、アカの背中を掻き始めた。
アカが気持ちよさそうに喉を鳴らすのを見て、レオンの表情が柔らかく崩れていく。
一件落着だ。
私はグレイド様の隣に戻り、大きく伸びをした。
「さて、と。これで帰ってくれますかね?」
「帰らせるさ。これ以上、私の庭で妻に色目を使われてはたまらない」
グレイド様が私の腰に腕を回し、引き寄せた。
独占欲たっぷりの抱擁に、私は苦笑する。
レオンがこちらを振り返った。
彼は孫の手を大事そうに懐にしまい、深々と頭を下げた。
「……悪かった。俺の完敗だ」
「わかればいい」
グレイド様が涼しい顔で答える。
「あんたの妻は、確かに世界を変えるかもしれない。だが……」
レオンは私を見て、少しだけ寂しげに笑った。
「その隣に立てるのは、俺じゃなかったな。俺にはまだ、竜の声を聞く資格すらない」
「精進することだ。私の妻がくれたその棒があれば、少しはマシになるだろう」
グレイド様の容赦ない言葉に、レオンは苦笑いで返した。
彼はアカの背に乗り、手綱ではなく、その首を優しく撫でた。
「行くぞ、アカ。国に帰ってやり直しだ」
アカが力強く翼を広げる。
風が巻き起こり、赤い竜は空高く舞い上がった。
隣国へ去っていくその背中は、来た時よりもずっと軽やかに見えた。
嵐が去った庭園に、静寂が戻る。
ヴェルドアが『あーあ、行っちゃった。せっかく友達になれたのに』と残念そうに欠伸をした。
脱皮したてのピカピカの体で寝転がる彼を見て、私は思わず吹き出した。
「ふふっ。また会えるよ、きっと」
「そうだな。だが、しばらくは御免だ」
グレイド様が私の髪にキスを落とす。
「君を危険に晒した詫びは、一生かけてさせてもらう。……愛している、エルマ」
「私もです、グレイド様」
私たちは瓦礫の山の中で、改めて愛を確かめ合うように見つめ合った。
試練を乗り越え、私たちの絆はより強固なものになった。
もう、誰にも邪魔はさせない。
そう思っていた、その時だった。
カツン、カツン、カツン。
背後から、規則正しいヒールの音が近づいてきた。
この足音は。
この、背筋が凍るようなプレッシャーは。
私とグレイド様は同時に動きを止め、恐る恐る振り返った。
そこには、瓦礫だらけの庭園を優雅に歩いてくる、黒いドレスの老婦人――ベアトリス夫人の姿があった。
扇子で口元を隠しているが、その目は笑っていない。
次なる試練の予感に、私はごくりと喉を鳴らした。




