第8話 脱皮! そして現れたのは……
バリバリ、という乾いた音が、静まり返った庭園に響き渡った。
私の目の前で、ヴェルドアの背中を覆っていた巨大な鱗が、次々とめくれ上がっていく。
まるで枯れ木が割れるように。
あるいは、窮屈な鎧が弾け飛ぶように。
「うわっ、すごい……!」
隙間から溢れ出す光が強すぎて、私は思わず目を細めた。
熱い。
けれど、それは火傷するような熱さではなく、生命が爆発するような温かい熱気だった。
『んああっ! 抜ける! 抜けるうううう!』
ヴェルドアが恍惚の声を上げ、全身を震わせた。
その震動に合わせて、背中だけでなく、首、翼、尻尾に至るまで、全身の古い皮がひび割れていく。
私は「ミスリル製の孫の手」を握り直し、引っかかっている大きな欠片をこじ開けた。
ここが最後の難関だ。
「よいっ、しょぉぉぉぉ!」
テコの原理で力を込める。
バキィッ!
大きな音と共に、背中を覆っていた最も分厚い角質が弾け飛んだ。
瞬間、視界が真っ白に染まった。
ドォォォォォン!
光の奔流が天を衝く。
私は吹き飛ばされそうになりながらも、新しく現れた角にしがみついた。
さっきまでのザラザラした感触じゃない。
滑らかで、温かくて、鋼鉄のように硬い。
光が収まると、そこには信じられない光景が広がっていた。
漆黒の鱗は、以前よりも深みのある濡れたような黒色に変わり、その一枚一枚が宝石のような輝きを放っている。
体格も一回り、いや二回りほど大きくなっていた。
翼の骨格はより太く、爪は鋭く研ぎ澄まされている。
脱皮。
それは単なる成長ではない。
生物としての格が、一段階上がったような神々しさがあった。
『……ふぅ。スッキリしたぁ……』
ヴェルドアが長い首を伸ばし、満足げに鼻を鳴らした。
その声は、以前よりも低く、威厳のある響きを帯びている。
中身は相変わらずかもしれないけれど、見た目は完全に「伝説の魔竜」そのものだ。
「よかった……本当によかったね、ヴェルドア」
私はへなへなと彼の背中に座り込んだ。
緊張の糸が切れて、全身の力が抜けていく。
手のひらがジンジンと痺れている。
必死すぎて気づかなかったけれど、ドレスは煤と泥で真っ黒だし、髪もボサボサだ。
公爵夫人にあるまじき姿だろう。
けれど、ヴェルドアは長い首を回して、私の顔を覗き込んだ。
新しくなった金色の瞳が、優しく私を映している。
『サンキュな、エルマ。お前のおかげで生き返ったぜ』
「どういたしまして。でも、次はもっと早く言ってよね。心配したんだから」
私が鼻先を撫でると、彼はくすぐったそうに目を細めた。
脱皮したてだからか、皮膚が少し湿っていて柔らかい。
今は一番敏感な時期なのだ。
「しばらくは激しい運動は禁止よ。保湿クリームをたっぷり塗って、安静にしてなきゃダメだからね」
『えー、肉食いたい』
「ご飯はいいけど、暴れるのはなし」
そんな日常会話を交わしていると、下から名前を呼ばれた。
「エルマ!」
グレイド様だ。
彼は瓦礫の山を駆け上がり、ヴェルドアの背中までよじ登ってきた。
普段ならあり得ないほど必死な形相だ。
その白銀の鎧も、煤と土埃で汚れている。
「グレイド様、私……きゃっ!」
言いかける間もなく、私は強い力で抱きすくめられた。
彼の胸に顔が埋まる。
心臓の音が、痛いほど激しく聞こえた。
「無事か……! 怪我はないか!?」
「はい、大丈夫です。ちょっと汚れちゃいましたけど」
「そんなことはどうでもいい! 君が無事なら、それだけで……」
グレイド様の声が震えている。
彼は私の肩を掴んで体を離すと、顔中を検分するように見つめ、そして再び抱きしめた。
「生きた心地がしなかった。君を投げた瞬間、後悔で死ぬかと思った」
「でも、信じてくれたでしょう? おかげでヴェルドアを救えました」
私は彼の背中に手を回し、ポンポンとあやした。
この最強の騎士様は、私に関することになると途端に弱くなる。
それがどうしようもなく愛おしい。
「……もう二度とさせない。あんな無茶は」
「ふふ、善処します」
グレイド様が顔を上げた。
至近距離で目が合う。
青い瞳が熱を帯びて揺れている。
「エルマ」
名前を呼ばれ、唇が重なった。
戦場の真ん中。
ドラゴンの背中の上。
泥だらけの二人。
ロマンチックとは程遠いシチュエーションだけれど、今までで一番情熱的なキスだった。
彼の不安も、愛も、全てが流れ込んでくるような。
『おいおい、俺の背中でイチャつくなよなー』
ヴェルドアの呆れた声が聞こえたけれど、今回ばかりは無視させてもらった。
長い口づけが終わると、私たちは額を合わせて笑い合った。
その時だった。
ドサッ!
下の方で、重い何かが落ちる音がした。
私たちが視線を向けると、そこには信じられない光景があった。
上空にいたはずのレオン皇子が、地面に無様に転がっていたのだ。
そして、その上には赤い竜――アカが覆いかぶさるように着地していた。
「な、なんだ……!? アカ、貴様、俺を振り落としたのか!?」
レオンが尻餅をついたまま、震える声で叫ぶ。
彼の顔には、怒りよりも困惑と恐怖が浮かんでいた。
自分の手足のように動くはずの道具に、拒絶されたことが理解できないのだ。
アカは低い唸り声を上げている。
その瞳は、先ほどまでの虚ろな色ではない。
ヴェルドアと同じ、強い意志の光が宿っていた。
『……もう、痛いのは嫌だ』
私には聞こえた。
アカの心の声が。
アカは首元の「支配の楔」を、自らの爪で引っ掻いていた。
血が滲むのも構わずに。
それは、レオンへの明確な反逆だった。
「やめろ! 俺の命令が聞けないのか! 止まれ!」
レオンが手をかざし、再び黒い魔力を放とうとする。
しかし、アカは翼を広げ、その魔力を風圧で吹き飛ばした。
「うわっ!?」
レオンが吹き飛ばされ、泥水の中に転がる。
「竜帝」と呼ばれた皇子の、あまりにあっけない失墜だった。
グレイド様が私を庇うように剣に手をかける。
しかし、アカは私たちを攻撃しようとはしなかった。
代わりに、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
その視線は、真っ直ぐに私に向けられていた。
敵意はない。
むしろ、何かにすがるような、迷子の子どものような目をしている。
「……エルマ?」
「大丈夫です、グレイド様」
私はグレイド様の手をそっと押し留めた。
ヴェルドアも、敵意を感じていないのか、静かに見守っている。
アカはヴェルドアの横まで来ると、長い首を下げて、私の方へ鼻先を近づけた。
『……なあ』
拙い、けれどはっきりとした言葉が響く。
『お前なら、俺の言葉もわかるのか?』
『あいつみたいに、俺の背中も……楽にしてくれるのか?』
それは、切実な願いだった。
支配され、心を閉ざしていた彼が、初めて自分から求めた救いだった。
私は泥だらけの手を伸ばし、その赤い鼻先に触れた。
「ええ、わかるわよ。……アカっていうのね?」
レオンが呆然と口を開けて見ている前で、赤い竜は私の手に頭を擦り付けた。
どうやら私には、新しい友達が増えてしまったようだった。




