第6話 「支配」の魔法は、心の声を塗りつぶす
『……あ、あ……やめ……』
その声は、耳ではなく心臓に直接突き刺さるようだった。
レオン皇子が放った黒い光が霧散し、庭園に静寂が落ちた。
あんなに暴れ回っていたヴェルドアが、糸が切れた人形のように動きを止めている。
巨大な体は地面に伏せられ、首には黒い光の輪が嵌められていた。
一見すれば、鎮静化したように見えるだろう。
けれど、私には見えていた。
ヴェルドアの金色の瞳から、生気という生気が失われ、泥のような濁った色に変わっていくのが。
そして、私にだけ聞こえていた。
心を塗りつぶされていく、あの子の絶望的な悲鳴が。
『ごめんなさい……いいこにします……だから、心を消さないで……!』
泣いている。
痛みよりも深い、自我を奪われる恐怖に震えている。
それは躾でも治療でもない。
ただの精神的な殺戮だ。
「どうだ? 静かになっただろう」
レオンは赤竜の背から降り立つと、満足げにヴェルドアを見上げた。
その顔には、一点の曇りもない達成感が浮かんでいる。
「感謝してくれよ、公爵。このまま暴れさせていれば殺処分しかなかったはずだ。俺が有効活用できる状態にしてやったんだからな」
「……ふざけるな」
私の口から、乾いた声が漏れた。
震えが止まらない。恐怖ではない。
腹の底から湧き上がる、どす黒い怒りのせいだ。
「ん? 何か言ったか? 通訳令嬢」
「ふざけるなと言ったのよ!」
私は叫び、レオンに向かって駆け出した。
瓦礫につまずきそうになりながらも、彼に肉薄する。
「これが治療!? ふざけないで! あの子は泣いてるわ! 心を殺さないでって叫んでる!」
「はあ? 何を言っている。見ろ、こんなに大人しいじゃないか」
レオンは理解できないという顔で肩をすくめた。
その態度が、余計に私の神経を逆撫でする。
彼は悪意を持ってやっているのではない。
本気で、これが「正しい愛し方」だと信じているのだ。
だからこそ、タチが悪い。
「元に戻して! 今すぐ術を解いて!」
私はレオンの胸倉を掴もうと手を伸ばした。
礼儀も身分も関係ない。
私の大切な相棒を壊そうとするなら、相手が皇子だろうと神だろうと許さない。
「おいおい、乱暴だな。ヒステリーは止めてくれよ」
レオンの目が冷ややかな光を帯びる。
彼が指を弾くと、背後の赤竜が動いた。
巨大な尾が、私を払いのけようと横薙ぎに迫る。
避けられない。
死ぬ、と思った瞬間。
ガギィンッ!!
重厚な金属音が響き、私の目の前で赤竜の尾が弾かれた。
白銀の鎧。
グレイド様が、大剣で攻撃を受け止めていた。
「……私の妻に、触れるな」
低い声と共に、グレイド様が剣を振り抜く。
衝撃波で赤竜がたじろぎ、レオンも数歩後退った。
「公爵、正気か? 俺に剣を向けるということは、帝国への宣戦布告と受け取るぞ」
「構わん」
グレイド様は即答した。
彼は私を背に庇い、切っ先をレオンに向けたまま言い放つ。
「我が国の竜に対し、許可なく魔術的干渉を行ったのは其方だ。これは主権侵害に対する正当防衛だ」
「ハッ、屁理屈を。たかがトカゲ一匹のために国を危険に晒すのか? 冷徹な騎士団長殿らしくもない」
レオンが嘲笑う。
しかし、グレイド様は揺るがなかった。
彼は振り返りもせず、私に告げた。
「エルマ。君には、ヴェルドアの声が聞こえているんだな?」
「……はい。苦しんでいます。助けてって、泣いています」
「そうか」
短い肯定。
けれど、そこには絶対的な信頼があった。
「ならば、君が正しい。私の妻が『苦しんでいる』と言うのなら、それは拷問だ。断じて許容できるものではない」
涙が出そうになった。
彼は、私の言葉を疑わなかった。
「魔獣の声が聞こえる」なんていう、証明しようのない世迷い言を、国家の命運よりも優先して信じてくれたのだ。
「グレイド様……」
「すまなかった。君を守るためだと言い訳をして、君の意志を封じ込めていた。……君は籠の鳥ではない。私の背中を守る、誇り高いパートナーだ」
その言葉が、凍りついていた私の心を溶かしていく。
夫婦喧嘩のわだかまりが、消えていく。
「指示をくれ、エルマ! どうすればヴェルドアを救える!」
グレイド様の叫びに、私は涙を拭って顔を上げた。
そうだ。泣いている場合じゃない。
私は通訳だ。
彼らの声を届け、最善の道を示すのが私の仕事だ。
「術を解くには、術者を倒すか、ヴェルドア自身の力で破るしかありません! でも、今のあの子には気力が……」
言いかけた時だった。
バリバリバリッ!
不快な破砕音が響き渡った。
見ると、ヴェルドアの首元の黒い光輪に、亀裂が走っていた。
『ウ、ウゥゥ……ガアアアアアッ!』
虚ろだったヴェルドアの瞳に、再び狂乱の炎が宿る。
支配への抵抗ではない。
もっと根本的な、生理的な衝動が、魔法の枷すらもねじ切ろうとしているのだ。
「馬鹿な!? 『支配の楔』が破られるだと!?」
レオンが驚愕に目を見開く。
ヴェルドアはのたうち回りながら、光輪を引きちぎった。
魔力の残滓が飛び散り、爆風となって周囲を薙ぎ払う。
『かゆい! 痛い! 邪魔すんなああああ!』
支配から解放されたヴェルドアは、正気に戻るどころか、さらなる錯乱状態に陥っていた。
痛みが増しているのだ。
無理やり精神を押さえつけられた反動で、暴走のエネルギーが倍増している。
「くっ、退がれエルマ!」
グレイド様が私を抱えて飛び退く。
直後、私たちが立っていた場所にヴェルドアのブレスが直撃し、地面が溶解した。
もう、言葉が届く状態ではない。
痛みで我を忘れている。
「失敗作め……! なら、殺すしかないな!」
レオンが赤竜に騎乗し、上空へと舞い上がった。
赤竜の口元に巨大な火球が収束していく。
ヴェルドアに向けて、最大級のブレスを放つ気だ。
弱っているヴェルドアに、あんなものが直撃したら――。
「させない!」
グレイド様が跳躍し、空中で剣を振るって火球を牽制する。
しかし、赤竜の機動力には追いつけない。
どうする。
どうすればいい。
ヴェルドアを止めるには、あの痛みの原因を取り除くしかない。
昨晩見た、白く変色した背中の鱗。
あそこさえ、どうにかできれば。
私の手元には、部屋から持ち出した「ミスリル製の孫の手」がある。
武器ではない。
けれど、これこそが今、最強の剣よりも必要なものだと直感が告げていた。
「グレイド様!」
私は戦場に響く声で叫んだ。
「私を、あそこまで投げてください!」
「何!?」
グレイド様が空中で振り返る。
私は孫の手を高く掲げ、暴れるヴェルドアの背中を指差した。
「原因はあそこです! 私が直接行って、処置します!」
「無茶だ! 今のヴェルドアに近づけば、細切れにされるぞ!」
「信じてください! 私はあの子の相棒です!」
一瞬の沈黙。
グレイド様の青い瞳が、私を射抜くように見つめた。
そして、ふっと笑った。
それは、私の知っている「旦那様」の、呆れるほど甘く、頼もしい笑顔だった。
「……ああ、わかった。私の妻は、世界一勇敢だな」
彼は着地するなり、私を横抱きにした。
筋肉が収縮し、魔力が足元に集束する。
「舌を噛むなよ。……愛している」
次の瞬間、私の体は砲弾のように空へと射出された。
目指すは、暴れ狂う黒竜の背中。
死地へのダイブ。
けれど、不思議と恐怖はなかった。




