第4話 夜の密会と、ヴェルドアの不機嫌な理由
私は震える手で窓の鍵を外し、そっとガラスを押し開けた。
夜風と共に、生温かい吐息が部屋に流れ込んでくる。
目の前にあったのは、窓枠を埋め尽くすほどの巨大な金色の瞳だった。
『……開いた』
頭の中に響く声は、涙声だった。
人影に見えたのは、ヴェルドアが器用に前足の爪を窓枠にかけて、巨体を支えていたかららしい。
三階の窓にへばりつく黒竜。
普通なら悲鳴を上げる光景だけれど、私には彼が必死に助けを求めているのがわかった。
『エルマ……かゆい……背中がムズムズして、気が狂いそうだ……』
「ヴェルドア……」
あの子がこんな夜中に、危険を冒してまで私を呼びに来た。
その事実だけで、胸が締め付けられるようだった。
専属の騎士たちには、この苦しみは伝わらない。
私しかいないのだ。
私は部屋の扉を振り返った。
廊下には見張りの騎士がいる。
正面から出ることは不可能だ。
覚悟を決めて、私はヴェルドアの鼻先に手を触れた。
「庭の奥、木陰の方へ行って。あそこなら見つかりにくいわ」
『……乗れ。連れてってやる』
ヴェルドアが首を差し出す。
私はナイトドレスの裾をたくし上げ、窓枠に足をかけた。
高所恐怖症なんて言っていられない。
彼の首筋に飛び移り、太い角に捕まる。
ふわりと体が浮いた。
ヴェルドアは音もなく羽ばたき、闇に紛れて庭園の奥深くへと滑空した。
***
月明かりさえ届かない木々の陰。
私はヴェルドアの背中に乗り、夢中でブラッシングをしていた。
部屋から持ち出した愛用の「ミスリル製孫の手」が、硬い音を立てて鱗を擦る。
「ここ? それともこっち?」
『あぁ……そこ……もっと強く……!』
ヴェルドアが喉を鳴らし、体をよじる。
手応えがおかしい。
いつもなら硬く滑らかな鱗の感触なのに、今日の背中は妙にざらついている。
暗くてよく見えないが、鱗の一部がカサカサと白く変色しているようだった。
「どうしたの、これ。皮膚病かな?」
『わかんねぇ……とにかくかゆいんだよぉ……』
可哀想に。
私がもっと早く気づいてあげていれば。
そんな後悔に襲われていると、不意に背後から声が掛かった。
「へぇ。本当に会話が成立してるんだな」
心臓が跳ねた。
孫の手を落としそうになりながら振り返ると、木の幹に寄りかかってこちらを見ている人影があった。
闇の中で赤髪が揺れる。
レオン皇子だ。
「どうして、ここに……」
「散歩さ。夜風が気持ちいいからな」
嘘だ。
ここは公爵邸の敷地内、それも最深部だ。
厳重な警備をどうやって潜り抜けてきたのか。
ヴェルドアが低く唸り、私を守るように体を起こそうとする。
けれど、かゆみのせいか動きが鈍い。
「無理すんなよ、黒いの。お前、ボロボロじゃねぇか」
レオンはヴェルドアを一瞥し、私に視線を戻した。
「そんな瀕死の竜に構ってないで、俺のところに来いよ。帝国の技術なら、その皮膚病も治せるかもしれないぜ?」
「……勧誘なら、お断りしたはずです」
「頑固だなぁ。公爵に閉じ込められてるんだろ? 自由のない籠の鳥より、広い空を飛べる俺の妃の方がいいに決まってる」
彼は一歩近づいてきた。
その瞳は、獲物を追い詰める捕食者の色をしている。
「俺はあんたを評価してるんだ。その能力は世界を変える。田舎貴族の妻で終わる器じゃない」
「評価、ですか」
私は孫の手を握りしめ、彼を睨み返した。
確かに、彼は私を「有能」だと言ってくれる。
けれど、それは私自身を見ているわけじゃない。
私の「機能」を欲しがっているだけだ。
「私は道具じゃありません。グレイド様の妻で、ヴェルドアの相棒です。それ以外の肩書きなんて欲しくありません!」
「相棒、ねぇ」
レオンが鼻で笑い、さらに距離を詰めようとした、その時。
ジャリッ。
砂利を踏みしめる音が、静寂を切り裂いた。
「……離れろ」
凍えるような声。
木立の向こうから、白銀の影が現れた。
グレイド様だ。
剣は抜いていない。けれど、その全身から放たれる殺気は、剣よりも鋭く周囲の空気を支配していた。
「チッ、見つかったか」
レオンは悪びれもせず、両手を挙げて後ずさる。
「邪魔が入ったな。まあいい、続きはまた今度だ」
彼は身軽な動きで闇の中へ溶け込み、あっという間に気配を消した。
残されたのは、私とヴェルドア、そしてグレイド様だけ。
助かった。
そう思って安堵の息を吐こうとしたけれど、グレイド様の表情を見て言葉が凍りついた。
彼は怒っていた。
今まで見たことがないほど、激しく。
「……エルマ。降りてきなさい」
「グレイド様、あの、これは……」
「部屋から出るなと言ったはずだ。なぜ約束を破った」
低い声が、私の言い訳を遮る。
彼はヴェルドアに近づき、私を抱き下ろした。
その手は乱暴ではないけれど、拒絶を許さない強さで私の腕を掴んでいる。
「ヴェルドアが苦しんでいたんです。かゆみで眠れないって……だから私が」
「それで、あんな男と密会か?」
「違います! あいつが勝手に現れただけで……!」
「結果は同じだ!」
怒鳴り声に、肩がびくりと震えた。
グレイド様が私を怒鳴るなんて、初めてだった。
「もし私が来るのが遅れていたら、連れ去られていたかもしれないんだぞ! 君は自分の価値と、置かれている状況を理解していない!」
「理解しています! だからこそ、ヴェルドアを放っておけなかったんです! あの子の状態がおかしいんです!」
私は背後のヴェルドアを指差した。
月明かりの下、白くカサついた鱗が痛々しく浮かび上がっている。
けれど、頭に血が上ったグレイド様は、それを見ようともしなかった。
「竜の管理は騎士団の仕事だ。君の仕事じゃない」
「私の仕事です! 通訳できるのは私だけでしょう!?」
「黙りなさい!」
彼は私の腕を引き、屋敷の方へと歩き出した。
振り返ると、ヴェルドアが悲しげな目でこちらを見ている。
『エルマ……』という声が聞こえるけれど、私は強制的に連れ戻されていく。
部屋に押し込められ、鍵が掛けられる音が響いた。
「ほとぼりが冷めるまで、窓も施錠させてもらう」
扉の向こうから、冷たい声が告げた。
足音が遠ざかっていく。
私はその場にへたり込んだ。
悔しさと、情けなさで涙が溢れてくる。
どうして信じてくれないの。
どうして話を聞いてくれないの。
ただ守りたいだけだと言うけれど、それは私を無力な存在だと決めつけているのと同じだ。
私はあなたのパートナーになりたかったのに。
窓の外を見る。
ヴェルドアはまだそこにいるのだろうか。
あの白い鱗。
ただの皮膚病には見えなかった。
何かが起きようとしている予感が、私の胸をざわつかせていた。
翌朝、その予感が最悪の形で的中することになるとは、この時の私はまだ知らなかった。
夜明け前。
静寂を破る、竜の狂ったような咆哮が響き渡った。




