第1話 新婚生活は甘いですが、鬼のお目付役がやってきました
結婚式から数週間が経ち、季節は鮮やかな新緑の候へと移り変わっていた。
公爵邸の朝は早い。
広いダイニングルームに、食器が触れ合う軽やかな音が響く。
長テーブルの向かいには、愛しい夫であるグレイド様が座っていた。
「エルマ。今日の焼き加減はどうだ?」
「完璧です。厨房の方々も、最近はヴェルドア用のステーキで鍛えられて腕を上げましたね」
私が微笑むと、グレイド様もつられて口元を緩める。
氷の騎士と呼ばれた彼の、私だけに見せてくれる柔らかい表情。
新婚生活は、砂糖菓子のように甘く、穏やかだった。
……あの日までは。
カツン、カツン、カツン。
廊下から、規則正しく、かつ威圧的な足音が近づいてきた。
軍靴ではない。ヒールの音だ。
けれど、その響きには歴戦の騎士すらたじろぐような気迫が込められていた。
バンッ!
ダイニングの扉が勢いよく開かれた。
現れたのは、背筋を定規で測ったように伸ばした、初老の女性だった。
黒いドレスに身を包み、銀髪をきっちりと結い上げている。
その瞳は、獲物を値踏みする鷹のように鋭い。
「……叔母上」
グレイド様が珍しく動揺して立ち上がった。
叔母上?
ということは、公爵家の重鎮であるベアトリス夫人!?
夫人はグレイド様の挨拶を手で制し、まっすぐに私の元へ歩み寄ってきた。
至近距離で立ち止まる。
香水の匂いではなく、古い紙とインクのような、厳格な香りがした。
「あなたが、エルマさんね」
低い声。
私は慌てて椅子から立ち上がり、カーテシーをした。
練習した通りにスカートをつまみ、膝を折る。
「は、はい。エルマでございます。お初にお目にかかります、ベアトリス様」
「……ふむ」
夫人は私の頭のてっぺんから爪先までを、冷徹な視線でスキャンした。
そして、ふんと鼻を鳴らす。
「背筋が三ミリ曲がっていてよ。挨拶の角度も浅い。これでは男爵家の娘だと丸わかりですわね」
「えっ」
「グレイド。あなたからの手紙には『最高の女性』とありましたが、随分と磨きがいのある原石を選んだものですこと」
夫人は扇子でピシャリと私の肩を叩いた(痛くはないけれど、音にびくりとした)。
「単刀直入に申し上げます。わたくしは、この娘が公爵夫人に相応しいか見定めに参りました」
「見定め、ですか?」
「ええ。気に入らなければ、即刻実家へ送り返すつもりでお覚悟なさい」
部屋の空気が凍りついた。
送り返すと言われても、私の実家とは絶縁状態だし、ここ以外に行く場所はない。
「叔母上。彼女は私の正式な妻です。そのような言い草は……」
「黙らっしゃい!」
夫人の一喝に、国最強の騎士団長が口をつぐんだ。
強い。強すぎる。
「グレイド、あなたは甘すぎます。公爵家を背負うということは、ただ愛し合えばいいというものではありません。社交、教養、家政。全てにおいて完璧でなければ、家名は守れないのです」
夫人は私に向き直り、扇子を突きつけた。
「エルマさん。わたくしが直々に教育して差し上げます。逃げ出すなら今のうちですわよ?」
逃げる?
私はグレイド様をちらりと見た。
彼は心配そうに眉を寄せ、首を横に振っている。
『断っていい』という合図だ。
確かに、私は元々平民に近い暮らしをしていたし、堅苦しいのは苦手だ。
竜の世話をしている方が百倍気が楽だ。
でも。
――君と出会えて、本当によかった。
そう言ってくれた彼の隣に立つのなら。
いつまでも「守られるだけ」の存在でいたくない。
彼の妻として、誰に見せても恥ずかしくない人間になりたい。
私はスカートを握りしめ、顔を上げた。
「……お願いします。ご指導ください」
「エルマ!?」
「ほう」
夫人の目が、ほんの少しだけ細められた。
「口だけは達者なようですわね。では、早速始めますわよ。まずは歩き方から!」
***
その日から、地獄の特訓が始まった。
「姿勢! 本を落とさない!」
「フォークの角度が違います!」
「ダンスのステップが遅れていてよ!」
夫人の指導は容赦がなかった。
朝から晩まで、分刻みのスケジュールでマナー、歴史、ダンス、刺繍を叩き込まれる。
竜騎士団の仕事に行く暇もない。
唯一の安らぎであるヴェルドアに助けを求めようと、休憩時間に庭へ出たときのことだ。
『……zzz』
竜舎の前で、ヴェルドアが巨大な体を丸めて死んだふりをしていた。
薄目が開いているので起きているのはバレバレだ。
「ヴェルドア、起きてよ。慰めてよぉ」
『やだ。あのババア怖いもん』
心の声が返ってきた。
最強の黒竜が震えている。
『昨日、俺が昼寝してたら『行儀が悪い!』って扇子で鼻を叩かれたんだぞ? 魔法障壁もなしにだぞ? 絶対勝てねぇ』
「あんたねぇ……」
頼みの綱が切れた。
私はがっくりと肩を落とし、屋敷へと戻った。
廊下の角を曲がったところで、グレイド様と鉢合わせた。
彼は私の顔を見るなり、痛ましげに駆け寄ってきた。
「エルマ……顔色が悪いぞ。もう十分だ。叔母上には私から言って、帰ってもらう」
「だ、駄目です」
私は彼の腕を掴んで止めた。
「ここで辞めたら、本当に『男爵家の娘』のままです。私、頑張りたいんです」
「しかし、君が辛い思いをするのは見たくない」
「辛くありません。あなたが選んでくれた私を、私が証明したいだけですから」
強がりを言うと、グレイド様は泣きそうな顔で私を抱きしめた。
「……すまない。私がもっとしっかりしていれば」
「ふふ、団長様でも勝てない相手がいると知れて、少し安心しましたよ」
彼の体温で少しだけ気力を回復させ、私は午後のレッスンへと向かった。
***
午後は庭園でのダンスレッスンだった。
優雅に見えて、実は一番体力を消耗するメニューだ。
「ワン、ツー、スリー。背筋を伸ばして! 笑顔を絶やさない!」
夫人の手拍子に合わせて、見えない相手とステップを踏む。
足が棒のようだ。
息が切れる。
それでも、私は必死に笑顔を作った。
「……悪くありませんわね」
不意に、夫人の声が和らいだ。
「筋は悪いですが、根性は認めましょう。公爵夫人には、何よりもその『折れない心』が必要ですの」
えっ?
今、褒められた?
私が驚いて足を止めようとした、その時だった。
ヒュオオオオオ……。
上空から、風を切る音が聞こえた。
鳥?
いや、それにしては大きすぎる。
見上げると、太陽を背にして、巨大な影が降下してくるところだった。
ヴェルドアではない。
ヴェルドアよりも一回り小さく、しかし鮮血のように赤い鱗を持つ竜だ。
「竜……? 野生種?」
私が呟くと、ベアトリス夫人が鋭く叫んだ。
「エルマさん、下がりなさい! あれはドラグニール帝国の紋章機です!」
帝国?
隣国から、どうして竜が?
赤い竜は、公爵邸の庭園――私の目の前に、砂煙を上げて着陸した。
風圧でドレスがめくれ上がる。
砂塵の中から、一人の青年が降り立った。
燃えるような赤髪に、派手な軍服。
その瞳は傲慢な光を宿し、まっすぐに私を見据えていた。
「へぇ。これが噂の『通訳令嬢』か」
青年はニヤリと笑い、私に向かって手を差し出した。
「俺はレオン。帝国の皇子だ。迎えに来てやったぜ、俺の新しい玩具」
その言葉に、私は背筋が寒くなるのを感じた。
甘い新婚生活は、どうやら唐突に終わりを告げようとしているらしかった。
屋敷の奥から、グレイド様の怒号と、剣を抜く音が聞こえてくる。
嵐の予感がした。




