第10話 最強の「通訳」兼「奥様」として幸せに暮らします
幸せとは、こういう日常のことを言うのだろう。
王都の大聖堂で行われた結婚式から、数ヶ月が経った。
あの日は本当に大変だった。
純白のドレスに身を包んだ私を、グレイド様がお姫様抱っこしたままバージンロードを歩こうとしたり(さすがに止められたけれど)、ヴェルドアが教会の屋根に止まって『俺も誓いのキスする!』と窓から顔を突っ込んできたり。
ドタバタだったけれど、祝福の鐘の音と、グレイド様の涙ぐんだ笑顔は、一生忘れないと思う。
そして現在。
私は公爵夫人として優雅に……暮らしているわけではなかった。
「……エルマ。下がっていなさい」
「団長様、いえ、あなた。下がるも何も、ここ私の職場ですよね?」
場所は竜騎士団の竜舎前。
私は作業着(特注の可愛い刺繍入り)を着て、ミスリル製の孫の手を構えている。
対する夫、グレイド公爵は、眉間に深い皺を寄せて私の前に立ち塞がっていた。
「君はもう公爵夫人だ。こんな危険な場所で、肉体労働をする必要はない」
「危険じゃありません。相手はヴェルドアですよ?」
「万が一ということがある。それに、君が他の男……いや、雄の竜に触れているのを見るのは面白くない」
嫉妬だ。
新婚生活に入ってから、この人の過保護と独占欲は天井知らずに加速している。
執務室での事務仕事さえ、「指が疲れるだろう」と代わろうとするのだから困ったものだ。
『おいグレイド! 邪魔すんな! そこ痒いんだよ!』
背後でヴェルドアが抗議の声を上げた。
巨大な鼻先でグレイド様を小突く。
『エルマじゃないとダメなんだよ! 他のやつのブラッシングじゃ力が足りねぇ! 鱗の隙間に届かねぇんだ!』
ヴェルドアの切実な訴えを通訳してあげると、グレイド様は渋い顔をした。
「……私がやる」
『はあ? お前、剣の腕はいいけど、ブラッシングは下手くそじゃん』
「なっ……」
最強の騎士団長、愛竜にディスられて撃沈。
グレイド様がショックを受けている隙に、私は孫の手を伸ばした。
カリカリ、ゴリゴリ。
『あ〜、それそれ……そこだよ……』
ヴェルドアがうっとりと目を細め、喉を鳴らす。
この巨大な甘えん坊将軍を満足させられるのは、やっぱり私しかいないようだ。
「……はぁ。勝てないな」
グレイド様が諦めたように息を吐き、私の隣に並んだ。
そして、作業する私の汗をハンカチで拭ってくれる。
「無理はしないと約束してくれ。君が倒れたら、私は生きていけない」
「大袈裟ですよ。でも、ありがとうございます」
くすぐったいような幸福感。
かつて「つまらない女」「地味な女」と蔑まれていた私が、こんなに大切にされる日が来るなんて。
そういえば、その「かつての相手」について、最近奇妙な噂を耳にした。
「ねえ、あなた。街で聞いたんですけど、元婚約者のお家……大変なことになっているそうですね」
私が尋ねると、グレイド様は冷ややかな笑みを浮かべた。
「ああ。自業自得だがな」
「なんでも、領地の馬や牛が一切言うことを聞かなくなって、農業も物流もストップしたとか」
不思議な話だ。
ある日突然、領内の家畜たちが一斉にストライキを起こしたらしい。
馬車を引こうとせず、畑を耕そうとせず、ただ人間に背を向ける。
さらには野生の鳥たちが屋敷にフンを落とし続けるという、地味に嫌な被害も出ているそうだ。
おかげで経済活動は破綻し、借金まみれになって没落したという。
「動物に呪われた家」なんて不名誉な二つ名までついているらしい。
「一体、何が原因なんでしょうね?」
私が首を傾げると、横で寝転がっていたヴェルドアが『んふふ』と得意げに鼻を鳴らした。
『俺が言ってやったんだよ』
「え?」
『あそこの家の人間はヤベェぞって。鳥たちに伝えて、そこから近隣の動物ネットワークで拡散してもらった。今じゃあの家、動物界のブラックリスト入りだぜ』
……まさかの黒幕。
最強の生物兵器が、そんな草の根運動みたいな嫌がらせをしていたとは。
「ヴェ、ヴェルドア……あんたって子は……」
『へへん。俺のエルマをいじめた罰だ!』
ヴェルドアが尻尾をパタパタと振る。
呆れると同時に、胸が熱くなった。
この子もまた、私を守ろうとしてくれていたのだ。
「……だ、そうです」
私がグレイド様に通訳すると、彼は目を見開き、それから堪えきれないように吹き出した。
「くっ、ははは! そうか、ヴェルドアが。それは傑作だ」
氷の騎士と呼ばれた彼が、こんなに無防備に笑うようになった。
その笑顔を見られるのは、私だけの特権だ。
「よし。褒美だ、ヴェルドア。今日の夕食は特上カルビを追加しよう」
『マジか! やったぜ! グレイド大好き!』
現金なドラゴンだ。
夕暮れ時。
作業を終えた私たちは、並んで騎士団の宿舎――ではなく、隣接する公爵家の別邸へと帰路についた。
私の左手には、シンプルな銀の指輪が光っている。
グレイド様が贈ってくれた、竜の鱗をモチーフにした特注品だ。
「エルマ」
「はい」
「明日の非番だが、街へ出かけないか? 新しいドレスを注文したい」
「またですか? クローゼットに入りきらないですよ」
「いいや、足りない。君には世界で一番綺麗なものを身につけていてほしい」
彼は私の手を引き寄せ、甲に口づけを落とした。
通りすがる騎士たちが「ヒューヒュー!」と冷やかすけれど、もう慣れてしまった。
「……ふふっ」
「何がおかしい?」
「いえ。私、今とっても幸せだなって」
私が微笑むと、グレイド様も優しく目を細めた。
「私もだ。君と出会えて、本当によかった」
背後では、ヴェルドアが『俺も! 俺も幸せ!』と叫びながら、夕焼け空へ飛び立っていくのが見えた。
大きな翼が、黄金色に輝いている。
魔獣の言葉がわかるスキル。
ずっと隠してきたその力が、私をここまで連れてきてくれた。
最強の通訳として、そして愛される妻として。
私の新しい人生は、まだ始まったばかりだ。
きっと明日も、明後日も、賑やかで温かい一日になるだろう。
私は繋いだ手をぎゅっと握り返し、愛しい夫と共に家路を急いだ。
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