第1話 狂暴な黒竜が暴れる理由は「背中がかゆい」だけでした
「君のような気味の悪い女とは結婚できない」
学園の卒業パーティ翌日。
呼び出された王都の邸宅で、婚約者である子爵家の嫡男はそう言い放った。
彼の隣には、華やかなドレスを着た可愛らしいご令嬢が寄り添っている。
私に向けられる視線は、まるで汚いものを見るようだった。
「虚空に向かってブツブツと話しかけるなど、正気とは思えない。精神鑑定の結果も出ている」
彼は一枚の紙をテーブルに叩きつけた。
そこには『精神異常』『虚言癖あり』といった文字が並んでいる。
身に覚えのない診断書だ。
けれど、彼が言いたいことの心当たりはあった。
私は、動物の声が聞こえる。
屋敷の庭で野良猫や小鳥と話していたのを、彼は「虚空への独り言」だと判断したのだ。
「君の実家の男爵家からも絶縁状が届いている。手切れ金はこれだ。二度と私の前に現れるな」
革袋が投げ渡される。
中に入っているのは、平民が数年は暮らせる程度の金貨。
私はゆっくりとそれを拾い上げ、顔を上げた。
涙など一滴も出なかった。
「……承知いたしました。今までお世話になりました」
深く頭を下げ、私は部屋を出た。
屋敷の門をくぐり、大通りに出た瞬間。
「やったあああああああ!」
私は拳を空に突き上げて叫んだ。
通行人が驚いて振り返るが、そんなことはどうでもいい。
自由だ!
あの堅苦しい婚約者との生活も、気味悪がられるのを恐れて猫を被り続ける日々も、今日で終わりだ。
実家からも絶縁された?
最高じゃないか。
あの家の人たちは、私が動物と話していると知ると「魔女だ」「呪われている」と騒いで地下牢に入れようとしたのだから。
私は懐の革袋をぎゅっと握りしめた。
これだけの資金があれば、どこへだって行ける。
目指すは、王都から遠く離れた辺境の地。
城塞都市バルディア。
あそこなら魔獣や動物が多く、荒っぽい気風だと聞く。
地味で「気味が悪い」と言われた私でも、生きていける場所があるはずだ。
私はその足で乗合馬車の手配所へと走った。
新しい人生が、今ここから始まるのだ。
***
意気揚々と辺境へ移住して、一週間。
私は現実に打ちのめされていた。
「仕事が、ない……」
城塞都市バルディアは、軍事都市だった。
街を行き交うのは屈強な兵士や傭兵ばかり。
求人は「魔獣討伐の荷運び」や「武具のメンテナンス」など、体力や専門技術を要するものばかりだ。
元男爵令嬢で、特技は「動物と話せること(ただし隠している)」だけの私にできる仕事など、どこにもなかった。
宿代も馬鹿にならない。
手切れ金はまだあるけれど、このまま無職でいればジリ貧だ。
広場にある求人掲示板の前で、私はため息をついた。
「食堂の皿洗いも募集終了かぁ……」
諦めて帰ろうとした時、掲示板の隅に貼られた一枚の紙が風でめくれた。
古ぼけた羊皮紙に、赤いインクで殴り書きがされている。
『急募! 命知らず求む!
竜舎の清掃員
日給:金貨一枚
※怪我・死亡の補償なし』
金貨一枚!?
それは王都の高級官僚の日給に匹敵する額だ。
けれど、条件が不穏すぎる。
竜舎。
この国最強の戦力である「竜騎士団」が管理する、飛竜たちの住処だ。
飛竜は、おとぎ話に出てくるような神聖な生き物ではない。
巨大で、凶暴で、人を食らうこともある生物兵器。
近づくだけで常人は恐怖で気絶すると言われている。
「……でも、背に腹は代えられない」
私は覚悟を決めて、掲示板の紙を剥がした。
動物と話せる私なら、猛獣の扱いには少しだけ自信がある。
少なくとも、言葉が通じない相手よりはマシなはずだ。
***
竜騎士団の駐屯地は、街の北側にあった。
巨大な石壁に囲まれた敷地内からは、時折「ギャオオオオ!」という凄まじい咆哮が聞こえてくる。
門番の騎士に求人票を見せると、彼は同情するような目で私を見た。
「……嬢ちゃん、本気か? 前の清掃員は三日で逃げ出したぞ」
「お金が必要なんです。覚悟はできています」
「そうか。なら案内するが……遺書は書いたか?」
縁起でもないことを言われながら、私は分厚い鉄の扉をくぐった。
案内されたのは、敷地の最奥にある巨大な石造りのドームだった。
近づくにつれて、空気がピリピリと震えるような威圧感が増していく。
「ここが第一竜舎だ。最強の黒竜ヴェルドア様がいる」
「黒竜……!」
それは、この国の守護神とも呼ばれる伝説の個体だ。
まさか最初からそんな大物の担当になるとは。
ドームの入り口には、数名の騎士たちが倒れていた。
皆、鎧が焼け焦げたり、吹き飛ばされたりして呻いている。
「ど、どうしたんだ!?」
「団長……ヴェルドア様が、また……!」
倒れた騎士の一人が、奥を指差した。
そこには、闇を固めたような巨大な影が暴れまわっていた。
全長二十メートルはあるだろうか。
漆黒の鱗に覆われた巨体が、鎖を引きちぎらんばかりにのたうち回っている。
口からは炎の混じった煙を吐き出し、太い尻尾が石壁を打ち砕く。
「グルルルル! ガアアアアアッ!」
耳をつんざくような咆哮。
案内してくれた門番の騎士が腰を抜かした。
周囲にいる屈強な騎士たちも、剣を構えながらジリジリと後退している。
「くそっ、今日は特に機嫌が悪いぞ!」
「鎮静剤を持ってこい! 魔法部隊は何をしている!」
怒号が飛び交う中、私は呆然とその光景を見ていた。
恐怖で足がすくんだのではない。
あまりにも、その声が「はっきり」聞こえたからだ。
『あーもう! そこじゃねえ! 下手くそか人間ども!』
『右だよ右! 翼の付け根だって言ってんだろ!』
『かゆいんだよおおおおお! クソがああああ!』
……え?
私は瞬きをした。
黒竜ヴェルドアは、人を殺そうとしているのではない。
ただ、背中がかゆいと訴えているだけ?
騎士たちが必死に槍や魔法で牽制している場所は、竜の顔や足元ばかり。
竜が一番気にして背中を擦り付けている岩壁には、誰も注目していない。
『なんでわかんねえんだよ! ここがかゆいって言ってんだろ!』
『燃やすぞ! 全員ウェルダンにするぞコラァ!』
竜の苛立ちは限界に達しているようだった。
このままでは本当に、ブレスで全員が消し炭になってしまう。
私は周囲を見渡した。
壁際に、清掃用具と思われる長い柄のついたデッキブラシが立てかけられている。
――やるしかない。
私は門番の制止を振り切り、駆け出した。
「おい! 待て嬢ちゃん! 死ぬぞ!」
「止まれ! 一般人が入るな!」
騎士たちの叫び声が背中に刺さる。
でも、私は止まらなかった。
デッキブラシをひっつかみ、暴れる黒竜の懐へと飛び込む。
熱気が肌を焼くようだ。
見上げれば、ビルのような高さに竜の頭がある。
金色の瞳が、ギロリと私を見下ろした。
『あ? なんだチビ。踏み潰すぞ』
低い声が脳内に直接響く。
普通の人間なら失神するほどの殺気だ。
けれど、私はブラシを構えて叫び返した。
「右の翼の下なんでしょ! じっとしてて!」
竜の動きがピタリと止まった。
『……あ?』
その隙に、私は竜の側面へと回り込む。
巨大な翼の付け根。
鱗が少し逆立ち、古くなった皮がめくれかかっている場所があった。
あそこだ。
私はデッキブラシを高く掲げ、その箇所に押し当てた。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
力を込めて、硬いブラシで鱗の隙間を掻く。
『……ッ!?』
竜の体がビクリと震えた。
私は手を休めず、さらに強く掻きむしる。
少し上、次は右へ。
「ここですか! それともこっち!?」
『そ、そこ……そこだ……!』
竜の声色が、ドスの効いた低音から、蕩けるような甘い声に変わっていく。
『あ〜……いい……すげぇいい……』
『もっと……もっと強く……!』
私は無我夢中でブラシを動かした。
十分ほどそうしていただろうか。
あれほど暴れまわっていた黒竜が、地面にぺたりと腹をつけて寝転がってしまった。
喉の奥から、ゴロゴロという巨大な猫のような音が響く。
半分閉じたまぶたは、うっとりと細められている。
『ふぅ……極楽……』
どうやら満足してもらえたらしい。
私は汗だくになりながら、ふうと息を吐いてブラシを下ろした。
静寂が戻った竜舎に、私の荒い息遣いだけが響く。
……やってしまった。
勢いで飛び出したけれど、これ、ものすごく怒られるのでは?
恐る恐る振り返ると、入り口付近にいた騎士たちが全員、口をあんぐりと開けて固まっていた。
まるで時が止まったかのようだ。
その中で一人だけ、ゆっくりとこちらへ歩いてくる人物がいた。
白銀の甲冑を纏った、長身の男性。
氷のような銀髪と、鋭い青い瞳。
整いすぎた顔立ちは美貌と呼べるほどだが、その表情は能面のように硬い。
竜騎士団長、グレイド公爵。
「氷の騎士」と恐れられる、この国の英雄だ。
彼は私の目の前まで来ると、無言で立ち止まった。
見下ろされる威圧感に、私はごくりと喉を鳴らす。
処刑だろうか。それとも不敬罪?
彼は視線を私から外し、大人しくなったヴェルドアへと向けた。
そしてまた、私を見る。
その青い瞳が、信じられないものを見るように揺れていた。
「……貴様」
低く、冷たい声が響く。
「何をした?」
私はデッキブラシを握りしめ、正直に答えるしかなかった。
「ええと……背中がかゆいと言っていたので、掻いただけです」
沈黙。
周囲の騎士たちが「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。
しかし、団長だけは違った。
彼はわずかに目を見開き、私の顔と、私の手にある安物のデッキブラシを交互に見た。
そして、信じられない言葉を口にした。
「……本当か?」
怒声ではない。
そこに含まれていたのは、縋るような響きだった。
私はまだ知らなかった。
この冷徹な団長様が、実は誰よりもこの黒竜を愛し、けれど言葉が通じないことに長年悩み続けていた「隠れ竜バカ」だということを。
私の新しい人生は、どうやら予想もしない方向へと転がり始めたようだ。




