91.問題
ヨハンは革のアタッシュケースに手を伸ばす。
「あと二体……」
ヨハンの奮闘により、担当分のガイストは残り二体のところまで来ていた。
ヨハンはアタッシュケースから瓶を取り出すと速やかに解呪を行う。
呪印が解かれ、瓶が甲高い音を立てて砕け散る。
中から現れたのは、甘く香ばしい匂い。
そして、光と共に実体化したのは、なんとも奇妙な姿をしたガイストだった。
つぶらなレーズンの瞳に、飴で作られた飾りが口元に添えられている。
それは人の形をしたパン菓子である。
7体目のガイスト、〝ヴェックマン〟だ。
「……パン?」
リーゼが思わず呟く。
その見た目からは、これまでのガイストのような凶暴さは感じられない。
しかし、ヨハンは油断なく拳銃を構える。
と、
「フフフフフ……」
ヴェックマンは奇妙な笑い声をあげながら、その体をぐにゃりと歪ませた。
パン生地のような体が、ありえない角度に曲がり、そして伸びる。
次の瞬間、ヴェックマンの腕が鞭のようにしなり、ヨハンに襲いかかった。
「くっ!」
ヨハンはサイドステップでそれを回避する。
腕が叩きつけられた地面には、甘い匂いと共に亀裂が走っていた。
「やぁやぁ、甘い香りに誘われて、愛の蝶がやってきたよ」
愛の詩の騎士がヴェックマンの前に立ちはだかる。
「君のその姿……まるで恋する乙女の頬のように、柔らかく、そして甘い……」
「フフフフフ……」
ヴェックマンは応えることなく、今度は両腕を伸ばして愛の詩の騎士を絡めとろうとする。
「無駄だよ! 愛は、何ものにも縛られない!」
愛の詩の騎士は長剣でその腕を切り払う。
しかし、切り落とされた腕は、地面に落ちるとすぐに小さなヴェックマンとなって再生する。
そして、ぴょこぴょこと跳ねながらヨハンたちに襲いかかってきた。
「なんてトリッキーな……!」
ヨハンは小型のヴェックマンを霊晶砲で撃ち抜く。
だが、その隙に本体のヴェックマンが背後に回り込んでいた。
「ヨハン、後ろ!」
リーゼの叫びと同時に、愛の詩の騎士がヨハンを突き飛ばす。
直後、ヴェックマンの硬化した拳が、先ほどまでヨハンがいた場所を粉砕した。
その拳は、まるでラスクのように硬く変質していた。
「柔らかいかと思えば硬くなり、分裂までするとは……。君は実に気まぐれな美女のようだねぇ……」
愛の詩の騎士は体勢を立て直し、剣を構える。
ヨハンもまた、息を整えながらヴェックマンを睨みつける。
「愛の詩の騎士! ヴェックマンはあの飴の口が弱点と聞いたことがある! そこを狙うぞ!」
「了解したよ、愛しのヨハン! 君との共同作業……まるで初めてのダンスのようだね!」
ヨハンは連続で霊晶砲を放ち、ヴェックマンの注意を引きつける。
ヴェックマンはその体を巧みに変形させて弾丸を回避し、時には吸収してしまう。
その隙に、愛の詩の騎士が懐に潜り込んだ。
「愛は音よりも速い。概念だからねー。薔薇色の口づけ!」
愛の詩の騎士の剣閃が、ヴェックマンの飴の飾りを正確に捉える。
「ギィイイイ!!」
甲高い悲鳴をあげ、ヴェックマンが大きくのけぞった。
その体には大きな亀裂が走り、全身が崩れ始める。
「今だ!」
ヨハンは最大出力の霊晶砲を構える。
青白い光が銃口に収束する。
その時だった。
フッ、と銃口から光が失われる。
「っっ……!」
そして膝から力が抜ける。
「ヨハン……!?」
「くっ……、ここまで来て……」
ヨハンを突如襲った現象。
それは〝魔力切れ〟であった。
7回もの連続した戦闘、愛の詩の騎士の使用によりヨハンの魔力は限界を迎えていた。
破魔師や霊の審判者であれば誰しもが抱えている大きな問題であった。
魔力の供給が途絶え、ヨハンの隣で輝いていた愛の詩の騎士の体が、足元から光の粒子となって薄れ始めていた。
「おっと……残念、愛の詩はまだクライマックスじゃなかったのに……」
愛の詩の騎士は、消えゆく体で悲しげに微笑む。
「ヨハン、君の物語は、まだ……終わらせちゃ、だめだ……よ……」
その言葉を最後に、守護霊体は完全に消滅した。
「フ……フフフ……」
時を同じくして、崩れかけていたヴェックマンの体が、不気味な音を立てて再生を始める。
飴は砕かれかけたままだが、そのレーズンの瞳は、憎悪に満ちた赤黒い光を宿していた。
「くっ……!」
ヨハンは拳銃を構え直すが、もはや霊素を弾丸に変えるだけの魔力は残っていない。
再生したヴェックマンが、怒りのままに硬化した拳を振り上げる。
「ヨハン!!」
リーゼの悲鳴が響く中、ヴェックマンの拳がヨハンへと迫る。




