72.発注
(あ、帰ってきた……)
道場にじいじが一人で帰ってきた。
道場から出ていってしまったリーゼを追いかけていったじいじであったが、しゅんとした様子で戻ってくる。
「鏡美先生が、しばらくリーゼちゃんを落ち着かせてあげてください……と……」
(そりゃそうよ。実際、鏡美先生に任せておいた方が安心だ)
「まぁまぁ、白神のおじい様、リーゼのあれはいつものことですので、そんなにお気になさらず」
ヨハンは逆にじいじに気遣いする。
「それじゃあ、今日のところは、僕と界くんの二人で訓練をしましょうかね」
「うむ、そうするとしよう……」
そうして、界とヨハンは訓練をすることにする。
ヨハンは、界のドイツ式封魔術の練習に付き合ってくれた。
しかし、界の〝ドイツ語、無理〟状態は相変わらずで、習得は難航した。
夕食時。
界はひょっとしたら出てこないかもと思っていたが、リーゼは食卓にちゃんと来た。
(まぁ、食卓には、じいじがいないというのもあるのかな……)
などと考えつつ、チラチラとリーゼの方を見ていると、
(あ……)
ふと、そのリーゼと視線が合う。
が……、
(え……?)
リーゼは少々、不機嫌な様子で、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
(……相変わらず、俺になんか冷たいような……。まぁ、裸を見てしまったというギルティはそう簡単には癒えないか……)
などと界は考える。
実際にはリーゼが界に対して素直になれないのには別の理由があるのだが、界は気づいていない。
夜――。
「ズィーエ……でん、カイル……でス、ウィッレンズ……ゲ、ゲウェアレ、でぃあ、ゼルブストボスシュタニウン……」
(ん……?)
「ズィーエ……でん、カイル……デス、ヴィッレ……ン? ゲヴェー……レ、ディア……ゼルプス……トベ……ボス……シュ……シュタンディウム……かな?」
(……くぅ……やっぱ言いづらい……)
界は常夜灯だけの居間で一人、ドイツ語の練習をしていた。
【ふぁあ、そろそろ諦めたらどうだ? 別に田介は日本の封魔術は使えるのだから必要ないんじゃないか? しかも規格外のやつをな】
少し眠そうなドウマがそんなことを言う。
「……ありがとう」
【はっ? 別に礼を言われるようなことは何一つ、言っていないと思うのだが……】
「そうかな? 俺は嬉しかったけど」
【……全く……ポジティブな奴だ】
ドウマは少しあせあせとしている。
「はは、ありがと……」
と、
「ひゃっ!」
(……ん?)
突然、物音が聞こえる。
「…………リーゼさん?」
それはパジャマ姿のリーゼであった。
「…………あ、うん」
流石に二人きり状態で無視するわけにもいかなかったのかリーゼは「うん」と返事をする。
(…………お手洗いかな?)
「あ、あの……界……さん……」
(呼び方、さん付けなんだね)
界はリーゼに初めて名前を呼ばれ気づく。
「今……誰と話していたの?」
「え……?」
(しまった……。一人だと思って油断してたな……)
「あー、えーと……そのー、イマジナリーフレンドとーー」
【なんだ? イマジナリーフレンドとは……】
「…………そう」
リーゼは納得していなさそうであったが、深追いはしてこなかった。
それどころではなかったのだ。
「あ、あの…………それで、界……さん……」
「はい……?」
「差し当たって一つ、発注したいことが……あるのだけど……」
(ん……? 発注とは……?)
「へ……?」
すると、リーゼはすっと10ユーロ札を差し出す。
(ふぁ……?)
「界さん……! 聞かないで! お願いだから!」
「が、がんばって耳塞いでるよ!」
「聞こえてるじゃん!」
「あ……」
(そ、そりゃ、人間の耳は全力で耳を塞いでも少し聞こえてしまうものだ)
「せ、せめて見ないでね!」
「そ、それはもう絶対に……! で、でも……それなら、やっぱり外で……」
「それはだめ……! 中……! 中がいいの……!」
現在、リーゼの発注により、界はリーゼと共に、トイレの中にいた。
リーゼの依頼とは、〝恐怖緩和のためのトイレへの同行〟であった。




