6.飛んで火にいる夏の虫(後編)
「…………」
少年は無反応のまま歩き続けている。
「おいっ少年待たんかい」
「うるさいなァ黙れよ死ね!!」
「エッ」
あまりに突然の暴言に脳がフリーズする。
少年は歩みを止めると、語調を荒げ叫び始める。
「みんな馬鹿ばっかだ。なんで心の底から思ってなんていない薄っぺらい正義感をぶつけられるんだ」
「馬鹿とはなんだお前こそ馬鹿だろう。お前は今死のうとしているんだぞ、?それは逃げだし第一他の人だって苦しんでいる」
急に重低音が元気を取り戻す。耳を澄ませてみればなんだかコンプラの欠片もないことを言っている気がする。
「その考え方が馬鹿なんだよ。家族や仲間を大切に思うのが当たり前と考えるのも、死ぬことは悪だと考えるのも。思い込みの域を超えないのにこれこそが真実だと声高に主張している。しかもそれを他人に押し付けるから余計タチが悪い」
「真実も糞もないッッ!これは常識であって人が長い歴史の中で紡いできた文化だ」
「だからッ!そうやって決めつけんなって言ってんだろッッ!!」
一際大きな声。
……いや、声なのだろうか。
どす黒い「おもい」の塊のようなものが「どろり」と耳を通る。
野次馬含め、この場にいる誰もが口を紡ぐ。
静寂。
その背後にはただ、燃え盛る家の音。
あ、消防車の音が遠くで聞こえる。
「…………愚かなんだ。どこまでも。人は」
少年は冷え切った眼差しで振り向く。
ここにきて初めて見た彼の顔は、生きていなかった。
死って、あるいはこういうことなのかと一瞬思った。
「人は、愚かだよ」
知らない声。突然聞こえる。
女の声。……いや、私はこの声を知っている。
「勝手に死ねちゃうし、怒るし。苦しむし、泣く」
ああ。
誰かと思ったら、私か。
愚かだね。
「幸せに生きちゃえばいいに決まっているのに、勝手に不幸になってんだ」
でも、このままなにも言えずに終わるくらいなら。
私は愚かにでもなろう。
「でもひとつ救いなのは、全人類が不幸を知っていることだね。それはとても残酷かもしれないけれど、ふたつの不幸の交わりは時に『不』を取り払う」
人は違うし、不幸だ。
だけどだからこそ「幸」への好奇心がある。
「つまりお前は何が言いたいの」
少年はいぶかしげな表情で問う。
「あなたの気持ちを教えてほしいんだ」
少年を真っ直ぐに見つめる。
少年はうつろな眼差しで見つめ返す。
「……」
私は何を言っているのだろう。
ただ、えもいえぬ浮遊感が私を支配している。
「僕は」
少年は、私の方をゆっくりと見つめると、顔を歪める。
くしゃっと。それはもう、悲しそうな笑顔だった。
「僕は……やりなおしたい。それで、笑いたい」
すると少年は天高く燃え盛る炎へ向き直り、走りだす。
向かうはただひとつ、足音。
「え……?」
悲鳴。
心拍はここにきてマックススピードに達する。
「おいっ…!!」
あれ。
やばいんじゃないか。これ。
やってしまったんじゃないか。
私の綺麗事で。
人が死ぬ。
「怖い!怖い!!こわい!!!」
少年は叫ぶ。
その叫びを合図に、私の足は動き始める。
ただこの夕暮れは、夢のような浮遊感。
「俺はぁ!おれはぁぁ!!」
「おい待てッッ!」
……熱っっ。
あ。
やっちゃった。
一気に脂汗が噴き出す。
「……もう、ぜんぶ。いらない」
少年は言う。
すると家屋は激しい音と共に崩れ落ちた。
―*―*―*―
「…………ふぅ」
刻一刻と時間は過ぎている。
炎はすぐ傍まで来ており、私たちを呑み込むのも時間の問題だろう。
空気が熱く、息もしづらくなってきた。
──私、なにしてんだろ。
少年を追いかけて自分まで火中に身を投じるなんて、夏の虫も驚きだろう、今は冬だけど。
堪らず腰を下ろす。
「なんで……おまえまでくるんだよ」
「ほんと、馬鹿は私だよね」
私と思っていることを少年が代弁してくれる。同感だ、少年。
暫く、炎の音だけが場を支配する。
「……ねえ、君は何を思ってきたの」
たまらず話しかける。
「…………」
「言ってくれなきゃわからないよ」
「………………言葉になんて、しちゃいけないんだ」
少年は青ざめた顔でやっと声を絞り出す。
「言葉にして、伝えるほどのことじゃないんだ、きっと。でも、どす黒い感情だけが少しずつ積もっていって、埋めていったんだ、俺を」
「わかるよ。つらかったんだね」
「……ほんとにわかってんのかよ」
少年は歪んだ顔で失笑。
少年の太腿には家屋の骨組みが深く突き刺さっており、血は今もどろどろと溢れ出ている。
上着を破り応急処置を施してみたが、素人知識なだけに意味をなしているとは思えない。
……少年はじきに死ぬのだろう。
「俺さ。死んだら転生して、異世界で人生をやり直すんだ」
「……ふうん」
本気なのかな。
本気なんだろうな。
「そしたら幸せに、幸福に暮らすんだ」
「叶うよ。きっと」
ふいに、口からでる。
無責任な言葉。
少年はわかりやすく声の調子を下げると、わざとらしく目線を逸らす。
「なんでだよ」
「なにが」
少年は声をかすめ、目元に手の甲を当てる。
「……こんな人今までいなかったんだ。どうして俺なんかのためにここまで」
「…………8割は私のためかな。あとの2割は共感」
少年の目が光る。
「苦しかったんだね。助けてくれる人もいなかったんだね」
「……どうして僕を責めないの」
目を逸らしたまま呟く。
呂律が回らなくなりつつあるらしい。腕まですっかり青ざめており、手は震えている。
私はその手を握る。
「責める権利なんて元からないんだ、私は君側の人間だから。だからせめて話を聞きたかった」
認めてくれる人、いなかったんだろう?
最後だけは、私が認めねば。
「ぼ……ぅ」
少年は最後の力を振り絞ると、私に向かって腕を伸ばす。
震える腕には、至る所に傷跡があった。
青、赤、黒。たくさんの痣。
自傷や転んだ擦り傷ばかりではないのだろう、そんな量ではない。
私はその手を握る。
「私、小説家になるのが夢なんだ。君みたいな人を救えるような小説家に絶対になってみせる」
少年は声をあげて不器用に泣いている。
嗚咽交じりに答える。
「…………や、うすぉふ、ぇ……もっお……はやぅあえ、あら……あ………………」
「……うん」
少年の目はゆっくりと光を失う。
数秒差で脳が追いつく。
死んだ。
人の死の立ち会いは、これが初めてだった。
黙って少年の目を閉ざす。
すると時を同じくして家屋の支柱が崩れ落ちる。
ギシ、ギシとこの世のものとは思えない奇妙な音が鳴り響いている。
「……生きたい」
思った。
少年はきっと、闇を見てきたのだ。
ならば彼のような人を言葉で救いたい。
これが私がしてあげられる唯一のことだから。
「ふ、う」
やっとのことで立ち上がり、少年の亡骸を抱える。
少年の顔は、心なしか穏やかに見えた。
「ん、ぐ」
脚に力を籠めると、玄関の方角へと駆ける。
あとの迷いは無かった。
でも、お生憎様。
現実はそう簡単にはいかないようで。
入る時に身体に火が燃え移らなかったのは奇跡だった。
本当に人って燃えるんだ。
なんて暢気なことを考える、まるで他人事のように。
燃える。盛る。盛る。溶ける。
痛い。痛い。痛い、いたい。
ゆらゆらと揺れる火を身に纏いながら私は家を飛び出す。
と同時に地面に吸い込まれる。
……ああ。
悲鳴とも歓声とも取れる奇声が聞こえる。
その不協和音を不快に思いながら、私は意識を沈めた。
―*―*―*―
結局私は生きた。
でもまあ、運が良かったという他ない。
全身大火傷に覆われ、最早乙女の欠片もないわけだが、それでも私は生きた。
もっとも、この大火傷が全くの無駄だったわけでもない。
私は夢を叶えて小説家になった。
入院当初は無理だと半ば諦めていた。
しかし、名誉の傷。それでもペンを握る姿。これは美しい物語へとなり得たのだ。
ひとたび有名番組で特集が組まれると知名度はうなぎのぼり。
火事のエピソードはやがて美談となり社会に轟き、本を出せば売れに売れた。
勿論アンチも出てきた。
売れ方が売れ方だったし元々表現力がある方ではなかったので、同業者を中心に随分と叩かれた。
でも、それでよかった。
少年のような人がこれをきっかけに知ってくれるのなら。救いになるのなら。
そのためならば自分などどうでもよいと本気で思っていた。
―*―*―*―
そして2024年の夏盛りのある日、私は22歳でこの生涯の幕を閉じた。
多分、全身火傷が原因だろう。最後の検診の時にもそんなこと言われたような気がする。
まあでも、それなりに生きれたさ。
運命に翻弄されたなりに、ちゃんと頑張れたんだ。
ああ。
これで、やっと解放される──
私はゆっくりと瞳を開ける。
※2025/8/13…本文一部変更