2.アーリン・フーシレア(後編)
明るい光が私を包み込む。
明るい光。あまりの眩しさに、思わず眉をひそめる。
起きかけでうまく開かない眼の上に腕を乗せる。
夢を見た。
ただ、良い記憶ではなかったことは確か。
気持ちのわるい冷や汗と、いやに高鳴る鼓動がそれを物語っている。
体がだるい。脱力感。
「アーリン様。お目覚めのようですね」
腕をゆっくりとどけ、目を開ける。
布団をどけ、体を起こし、声のした方向に焦点を合わせる。
少しぼやける。ぐっと目を凝らすと、だんだんと視点が定まっていく。
ああ。
理解する。すべて。
「……」
ここは、フーシレア一族が代々住処としてきた邸宅──フーシレア邸の一室。
普段は使われていないいわゆる客室のようなもので、物はテーブルやタンスやベッドと最低限のため少々殺風景である。
空部屋特有の埃臭さを感じないことから、使用人の日頃の仕事ぶりがうかがえる。
窓からはそよと優しげな風が吹き抜け、彼の髪を擽る。
彼──アスク・フーシレアは、私の従弟である。歳は一つ下の一六歳。
未だ子供らしいところもうかがえるが、彼は秀才である。人格者であるし、読み書き算術も人一倍得意としている。
しかし、彼の真髄はそこではない。
私にはない。
得難く、得ていねばならなかった、その才を持つ。
目をそらしたくなる。だから目を細める。
風は私の頬にそっと触れ、呼応するように涙が一筋こぼれる。
アスクは、ただ困ったような悲しいような顔を浮かべて私を見つめる。
その柑橘色の、宝石ような瞳孔を見ると、吸い込まれそうになる。
魔性である。
しばらく見つめあう。
ふいに、アスクが口を開きかける。しかし直ぐにその口を閉ざし、目線を逸らす。
宝石が一瞬揺れる。
そうしてゆっくりと俯くと、眉を強く顰める。
しばらく静寂の時が流れる。
時が経つごとに、私の心臓は痛いくらいに波打ち、息はつまり。
ついに、私の方から強張る口を無理に開く。
「アスク」
アスクの耳が少し動く。
「……はい」
声が震えている。私の声も。
「……その、ありがとう。もう大丈夫だから。一人にさせてほしい」
なけなしの作り笑いを添える。
でも、必死に一声を発したところで、このやるせなさ、もやもや、どろどろ、くやしさ、ぐちゃぐちゃがどうにかなるはずなどなかった。
むしろ、私の中の何かが。大事な、大きな何かがまろび出そうになる。
慌てて胸に手を当て、締め付ける。
「そう、ですか。そうですよね。……では。少し席を外させていただきますね」
そう言うと、アスクは席を立つ。
「うん、ありがとう」
私は、最後にやっと一言を出す。
アスクが背を向けたと同時に、体を丸め俯く。
冷や汗が布団に数滴落ちる。
―*―*―*―
アスクが部屋を出る音がする。
かちゃと扉が閉じる音が、部屋中にこだまする。目を強く閉ざす。
風の音が、聞こえる。
と、少し強い風が吹きつけ、私の汗に濡れる衣服に触れる。
ひやりと肌を冷やす。
先ほどから、冷や汗が止まらない。
首筋に雫が伝っては、肌を伝い、服を濡らすという一連の動作を繰り返している。
私は、怖い。
今のすべてが。恐い。
なにを思ったのか、私はベッドから体を起こし、扉に向かって歩き始める。
おぼつかぬ足取りで、一歩進むごとに頭がギンと鋭く痛む。
部屋をでる。
左に向かい、歩みを進める。
汗が一滴、頬から落ちる。
廊下を歩く。体を左右に揺らしながら。
あそこも、あそこも。すべての場所に、兄との思い出が張り付いている。
追憶しているのではない。追憶する間もなく、溢れ出てくるのだ。
それでいて、離れない。
隅まで見回しながら、ゆっくりと歩く。
気づいたら、庭に出ていた。
思い出すのは、別れの場面。
あれが、今生の別れになろうとは。私は、再び目を閉ざす。
俯く。
再開を約束した兄は、嘘つきなのか。嘘つきなのだろうか。
……私を、だましたのか。
いや、ちがう。私が…………。
そう思ったあたりから、私のリミッターにはハッキリとひびが走った。
「もう……やだ」
悪い想像しかできなくなっている。
瞬く間に地面が見えなくなる。と思えば、大粒の涙がぼろぼろと零れる。
顔を思いっきりゆがめる。ゆがめたら、戻らなくなる。
天を仰ぐように空に目を向ける。
今の私は、さぞかし酷い顔をしているのだろう。
「う……う゛、ぅ…………」
地面に膝をつく。手をつく。下を向く。
涙があふれだす。ぼたぼたと音が鳴る。
兄の笑顔。兄の笑い声。兄の。アル兄さんの、顔が、声が、ありありと浮かぶ。
私にはアル兄さんしかいなかった。なのに、彼はもういない。
私が殺したのだ。
瞬間、はっきりと聞こえた。
「あ」
私が壊れる音が。
父も、母も、アル兄さんもいた。みんながいたあの時の思い出が蘇る。
もういないのに。私が壊したのに。
都合が良いことこの上ないというのに。
今ではもう昔の、ふつうの日々。
その砕け散ったかけらを、今になって、取り戻したいと、強く願った。
「…………おいてかないで」
でも、私は弱虫だから。
あろうことか、一人であることを嘆いた。
空はいつのまにか雲一つなくなっており。
今日は、春にしてはまだ少し寒さの残る、肌寒い日だった。
私は、気づいた時には、自らに呪いの言葉を吐いていた。