33.三週目の日暮れ(後編)
異世界にやってきてから22日目。
私は倒れた。
恐らく過労だろう。
まあ、なんだ。考えてもみてほしい。
私も、この世界に住まう諸種族も、変わらないのだ。
争うし、荒ぶるし、笑う。
異世界とはいえここは世界だ。実際のところ、異世界に私たちの抱くような夢などはないのである。私たちの世界よりも幸せだとか、異能が使えるから楽しくて仕方がないだとか、そういう希望的観測は後の落胆につながる。
異世界は救済ではないのだ、当たり前だが。
「……何の話をしているんだ、私は」
とにかく。変わらないってことだ、どこだって。
だからこそ抵抗してはいけない。
これまでの二の舞にはならないよう、しっかりと向き合わなければならない。
私は私に向き合うのだ、ちゃんと。
「……気持ち悪」
でも。
向き合うったって、これからどうするのか。
……それがわかっていたらきっと、私は今ベッドになどいないのだろう。
頭にふと浮かぶ「またわたしは」。
斜陽は私の部屋いっぱいに濃く深い影をつくっている。
「いいじゃないですか」
弾かれるように顔を上げる。
目の前には、メイド服姿の少女が佇んでいた。
この屋敷には彼女によく似た少女がいるが、きつい面持ちの彼女とは違い、こちらの表情には深い優しさが確かにある。
最早見慣れたその顔は、少し不安げに微笑む。
フリルがひらひらと揺れている。
私の心に反して、軽やかだと思った。
「別に、いいじゃないですか」
その少女は、強烈な西日に肌を染める。
その色が私にもあつく照りかかるものだから、思わず目を細める。
「できなくたって、いいじゃないですか」
私の耳が、確かに反応する。
瞬間背には電流が走り、殆ど同時に頭が汗をかく。
ああ、私は憤慨しているのか。
気づいた時にはもう遅かった。
「……なにがわかるんだよ」
言ってから気づく。
言ってしまったと気づく。
咄嗟に、アーリンの身体で感情をあらわにしてしまったことを申し訳なく思う。
でももう止まらない。
「なにもできなかった。あの火災の日の後から、私は失敗を重ねた。結局誰も幸せにできなかった。それどころか母を不幸にした。なのに、恩返しなんてひとつもできなかった」
心の中の、大きな膿。
その中心には、やっぱり、母の姿。
「エリーは、その罪滅ぼしもさせてはくれないというの」
この時ばかりは、自らの言葉遣いを恥じた。
こんな言い方をしては、エリーが悪者みたいではないかと私はわかっていた。
しかしエリーはというと、私の意図を知ってか知らずか、伏し目がちに続ける。
「あなたは、自分ができないことに目が行きがちだと思います。そして、その失敗に心のすべてを支配されてしまう。わかります」
「わかる……?」
ああ。
流石に、頭に血が上る。
顔が熱い。
「わかるって、私のことが?」
出来なかったこと。やりきれなかったこと。
それは深いヘドロとなり足を獲ってくる。
痛いほど会いたい人が、いないことを。逢えないことを。
君は本当に──。
「その心の形を、私は知っている」
「づッグ」
舌を噛み、やっとのことで次の言葉を封じる。
鉄の味が口に滲む。
まて、待て。落ち着け。
怒るな、能無しになるな。やめろ。
違うだろう。そうではないだろう。
理由だ。
わかるはずないという前提で考えるな。
本当にそうなのか疑え。
二の舞はもうたくさんなんだろう。
「……ぅ、どこまで察したの」
噛んだ舌が上手く回らない。
顔を顰めつつ、訊く。
「……詳しくはわかりませんが、大筋はトモリ様よりお聞きしました。そしてあなたの心も、見えてしまいました。申し訳ありません」
エリーはばつの悪そうな表情で頭を下げる。
そして顔を上げたかと思うと、彼女は話を続ける。
「その上で、一つ差し出がましいことを言わせていただきたいのです」
「……ああ、うん、わかった」
わかっていない。
だめだ。私はまだ怒っている。声も怒っている。
それが自分でわかってしまうのだから、相当に怒っている。
私が怒っているのはエリーではなく、私自身であるはずなのに。
心の深淵は、ひとたび表層まで沸き上がればなかなか収まろうとはしない。
エリーはなおも言葉を続ける。
「考え方を変えてみるって、大事なことだと思います。人は喜怒哀楽を目まぐるしく繰り返していますから、それら一つ一つに流されては、己が感情に振り回されてしまう」
陽が完全に沈む。
空は緋色と藍色のグラデーションをつくりだし、エリーの背を塗っていた橙色は夜の色に置き換わりつつある。
「空は日々色を変えます。でも、過ぎゆく空の色を名残惜しく思う人はどれだけいるでしょうか」
「いつも、みているからね」
夜の風が吹いてきた。冬の残り香が辺りに充満する。
鼻の先を擽る冷たいそれが、ゆっくり、ゆっくりと私を冷ましていく。
覚ましていく。
「それに、空は常に新しい色を私たちに見せてくれますからね」
エリーはほろりと笑みを浮かべる。
この明かりのない部屋の中でもはっきりとわかる。
声色がそれを証明しているから。
「人も同じだと私は思います。時によって変わるものがある。いつか消えるものも、すでに消えているものだって、得ている分だけ確かにある。でも、それら一つ一つを悲しんでいるのでは、ほんの短い人生の無駄遣いだと思うんです」
「無駄遣い……」
言い回しが独特である。
でも、こんなに耳心地がよいのは何故だろう。
声色があたたかいからだろうか。あるいは、私のために言葉を贈ってくれているからか。
「だからこそ、自分の感じる苦しさも愛してあげてほしい。できないこと、不甲斐ないこと。それは夜で、次の朝への準備なんだと」
「不安は、夜」
思えば、私の心はいつも夜だった。
それでいて、心の奥ではいつもあの家が燃えていた。
つまり、不安だった。
おこがましくはないだろうか。
冷ややかに見られるのではないだろうか。
自信をなくした私は、今からでも変われるのだろうか。
……いや、そうではなかっただろう。
嫌なこと全部笑い飛ばして前へ突き進む。
そのはずだっただろう。
「私は、アーリンの偽物なんだよ」
「そうですね。でも、あなたが諦めればそこで彼女は死にます」
「私はなにも成し遂げられなかった。だから不安で」
「なにも成し遂げられなかったなんて誰が決めたんですか?」
ああ。私である。
「死ぬときはもう、否応なく死にます。では残りの人生、あなたはどう生きたいですか」
「わたしは……」
中学時代。面白くもない処女作を、目を輝かせて読んでくれたユリちゃん。
高校時代。行き過ぎた私と夢を、それでも応援してくれた母。
火災現場。救えなかった少年。
実らなかった理想。
つまり、私は孤独だったんだ。
極めて簡単な答えを、今さら理解する。
ひとりが怖かったんだ。
大切な母が。友達が。
なにより私の存在意義が、私の視界から消えて失くなることが。
実際、それはただ思い込みで、本当は孤独なんかではなかったのに。
この世界の皆の顔を思い返す。
トモリ。えるちゃん。リリー。
ガド。アスク。アレラ。
朧げなどではない。確かに。
遠い昔、確かに感じた感情が、この身に蘇る。
「私は、皆に笑っていてほしい。不幸じゃないんだって。皆自分色に輝いているんだって。知ってほしい。だから私は、本を書きたいと思ったんだ」
エリーは言った。
「なら、やりましょう。遅くなんてない。あなたならできる。あなたならきっと、大丈夫です」
大丈夫、だって。
大丈夫だってさ。
心に温かい血が流れる。
私は、ずっと、ずっと。ずうっと。
こういうことを言ってほしかったんだって、今思った。
─*─*─*─
「言霊は些細なところに宿ると言われていてね。君はこの世界に来たばっかりだから心身が疲弊してるのかもね。とにかく今日は安静にしよう」
灯るは蝋燭。語るはトモリ。
あれから暫くした後、トモリが私の部屋にやってきた。
どうやら私が倒れたことを聞きつけたはいいものの、積もる業務をなかなか消化できず駆け付けるのが遅れたそうだ。
……にしてもこの領主、過保護である。
ああ、でも倒れたら見舞いに来るのが礼儀なのだろうか。この世界の常識観はよくわからないけれど。
それにしても。
「トモリ様って医者だったんですね」
「え、そうなんですか?」
私の問いになぜかエリーも反応し、2人してトモリの顔を覗き込む。
トモリは私たちの顔を交互に見ると、困り顔で答える。
「ねえねえエリー、君とももう長いでしょ?私医師らしいことしてたときあった?これはただの推察だよ。それとちょっと、年の功ね」
右手の親指と人差し指で「ちょっと」の形をつくり、パチとウインク。
なんかいかにもなことを言っていたので医者かと思ったのだが。
「やぶですか」
「ああやぶなんですね」
声が重なる。
それにトモリは、さも意外そうに目を丸くする。
「そんな言い方しなくたっていいじゃん、ここは博識って褒めてくれるところじゃないの!私泣いちゃうよ!?」
トモリの張り上げた声は、夜も深まる空の遠くへ轟く。
「トモリ様、静かにしてください。夜ですよ」
「う、ぐっ……」
エリーに諭され、トモリは言い足りないような表情を浮かべる。
しかし、やがてあきらめたように大きくため息をつく。
「でも、エリーさんとトモリ様って思ったよりも仲がいいんですね」
エリーはアーリン付の使用人だったはずだ。
以前はよく会っていたのだろうか。
「え?まあ、ちょっとね。いずれまた話すことになるんじゃないかな。ともあれ、何事もなくてよかった。スズナはもう寝な。連日夜遅くまで起きてたんでしょ」
そう言うとトモリは席を立ち、私の肩にポンと手を当てベッドへ誘導する。
そうすると。
「また困ったことがあれば、何でも話してくれていいからね」
耳元で囁かれる。
ああ、なんか、小さな頃こんな感情になったなぁ、なんて思い出す。
「じゃ、おやすみ」
「お休みなさいませ」
トモリは手を振り、エリーは一礼。
私は二人の眼差しを交互に見ると、言う。
「おやすみなさい」
こころなしか、今日はゆっくり寝られそうな気がした。