12.ゲロっちまうくらい鮮烈な飛沫(後編)
「……おい。この子攫うんなら私持ってけよ」
ああ、胃が痛い。
息が苦しい。
でもそれ以上に、私は私に怒っていた。
怒りはエゴであると私は知っていた。エゴと本心が、自分でもわからないくらい複雑に絡み合っているのだ。
大体、私はいつもそうだった。本心すら、本当に本心なのか怪しいくらいだった。
でも、もういいと思えた。
二生目はボーナスステージ。そう思うことにした。
そう決めた途端、急に胸がすっきりする。
私は、そういう切り替えだけは随分と早かった。
「異能力とか、私にも使えるのかな」
髭面の腕を無理やり振り払う。
抵抗するジジイは私の腕を引っ搔いたようで、傷口からは血がつぶつぶと出てくる。
あの時の少年の血液がフラッシュバックする。
鼓動が早くなる。
思考がフリーズしていく。
しかし、私はそれすらも利用する。
「アエアタノセクセラ」
髭面はナイフを振りかざす。
「カラセホセノエザ」
ナイフは陽の光を反射する。そうして髭面の手は私の足下へ振り下ろされる。
あのとき。
アスクは、動かなかったのではなく動けなくなっていたのではないか。
だから私は逃げることができた。そう仮説を立ててみる。つまり。
──あの時、既に私は何らかの力を行使していたのではないか。
……我ながら馬鹿なことを考える。でも馬鹿なのだから仕方がない。
どうせこのナイフが足に刺さればまた終わるのだ。
だったら、可能性に賭けるしかないだろう。
「──あ」
なんだか、妙に合点がいく。
合点というのもおかしいか。「ビジョンが見える」と言うべきか。
私は、知ってほしかったのだ、ずっと。
私の気持ちを、誰かに。
「ねえ、髭面」
思ったよりも低い声が出た。
するとナイフはピタと止まる。
「ア……?」
髭面がこちらを見る。かと思えば、急に目を見開く。
汗を垂らす。口の端だけニヤと笑う。充血した目は、小刻みに揺れる。
ああ、こういうとき、感情は顔に出てしまうものだな。
髭面の感情が手に取るようにわかる。
欲望と、執着と、下心。それと、私への一つまみの恐怖心。それぞれが色濃く混ざり合っていてアメリカのスムージーみたいだと思った。
この期に及んで自分の事ばかり。つまり、視野が狭いのだ。
だから、私は賭けに出ることにする。
喉にありったけの力を籠める。
「……私じゃなくて。あなたはもっと心をみて」
──あれ。
耳が。意識が。あ、れ。
刹那。
キン
「っ」
一瞬耳鳴りがし、あわてて耳を押さえる。すると。
ドクンと、心臓が一拍ハッキリと鳴る。
「グッッ……」
なんだ。
なんだこれ。
髭面を見ると、顔を歪めている。
かと思えば。
「ブヴヴヴヴウウウウゥゥゥエエエ」
口から噴水が打ちあがる。
宙に舞うキラキラ。
白目を剥き倒れ込むじじい。
……賭けが当たった?
自分の感情を対象に共有する。そうして今の吐気をそのまま移す。
思い返せばもっとやりようがあった気はするが、なぜか「これしかない」と思った。
実際、アスクにも同じ手が通用していた。だからアスクは、突然脳に入ってきた「謎の感情」に戸惑って動きを止めたのだろう。
……で。
いや、だからなんだ。次はどうする。
えるちゃんを担いで逃げるか。……いや、無理がある。どうせ追いつかれる。私の体はとうに限界を超えている。
それに、意識も朦朧としている。
謎の力に至っては、無理だ。二度は無理だと身体が訴えかけている。
……打つ手なし。
頭に浮かぶ、この一言。
「う゛…………ゥア゛モェ、ノネヲセトォ゛?!!」
髭面は唾を吐き捨てなにかを叫びながら、ヨロヨロと立ち上がり始める。
興奮している。それでいて意外と復帰が早い。
これは……。
拳でやるしかないか。
21歳。拳で。
「えるちゃん、私が時間を稼ぐうちに逃げて!」
後ろを見る。
えるちゃんは、静かに目を閉じていた。
ゆっくりと目を開ける。
「おねえちゃん、どうしてえるがここにいたか、きになる?」
「あ、えっ……?!どうしてって」
言われてみれば。
って、そんなこと考えている場合ではない。今は悠長に会話をしている暇はないのだ。
……あれ。
子供って、こんな悠長に会話できたっけ。
「こいつを、みつけ出すためだよ」
……。
「なんて?」
「あ゛あ゛ぁカナソエカエツドキヂマァ゛ァ……」
突如として髭面の雄たけびがこだまする。
ハッとして振り向く。
振り向いた時には、既にしりもちをついていた。
秒差で気づく。ジジイに押されたのか。
髭面は私の横を四つん這いで通り過ぎる。後ろにはえるちゃんが。
これは。
ヤバイ。
「えるちゃんッッ」
髭面はその大きな手を伸ばし、えるちゃんの細い腕をがっしりと掴む。
ニヤリと笑う。
「カエッッ!!」
吐瀉物の混じった唾を飛ばしながら、声を荒げる。
掴んだ腕を強引に引くと、えるちゃんはたまらず倒れる。無理やりずられては、服や腕に傷がついていく。
「えるちゃん離せよッ!!ジジイ!!!」
私は叫び、追いかけようとする。が、膝から崩れ落ちる。
膝が動かない。
ならば腕を使うまで。這いつくばってでも助けるんだ。助けなきゃ。たすけ
「おじさん」
「あれ」
弾かれるように彼女に目を向けると、私は飲まれる。
空気が歪んでいる。雰囲気が一瞬にしてえるちゃんに傾く。
なんか、似ている。
……まさか。
「きらい」
―*―*―*―
無垢。
無垢は時に人を驚かせる。
当たり前である。常識を知らないんだから。
かくいう私も、小さい頃は親を驚かせるようなことをよくしていた。友達に泥団子を投げて怪我させてしまった時なんか、ドン叱られた。
子供というのは、そういう無垢と驚きの積み重ねから常識を知って大人になっていくのだと思う。
しかしそういった意味では、無垢は非常識とも言えるかもしれない。
そんなことを思った。
―*―*―*―
髭面は上半身と下半身に分かれていた。
断面からは、勢いよく血しぶきが上がる。
吐瀉物の噴水の後は血の噴水か。
なんてばかみたいなことを考える。
私の服や頬に、文字通り血の雨が降りかかる。
「……なにこれ」
茫然自失。
鉄っぽい匂い。
死んだなって。
えるちゃんを見る。
彼女はしばらく髭面の亡骸を見つめていたが、やがてその顔をこちらに向ける。
顔中、返り血だらけだった。
その血をごしごしとぬぐうと、幼女はにっこりと笑う。
「でも、すずなはすき」