11.ゲロっちまうくらい鮮烈な飛沫(前編)
「すっ…はぁ……すう…………はぁ…」
この世界には、魔法がある。
この世界には長耳族もいる。
きっと他の種族もいるんだろうし、ギルドとか、ダンジョンだってあるんだろう。
誰もが羨む、夢の世界かもしれない。
「う゛」
そんな世界に転生できれば、どうして笑えると思ったのか。
―*―*―*―
「う゛っ、う゛う゛えぇえ゛」
顔を梅干しのように歪ませる。
唾液だけがボツボツと落ちる。
その唾液が更なる吐き気を催し、もう2.3度えずく。
が、今度はなんとか耐える。
良くも悪くも胃が空であったおかげか。……それがなぜなのかなんて、今は考える余裕がない。
もう、踏んだり蹴ったりだ。
なんで私がこんな目に遭わなければならないのか。
やり場のない怒りがこみ上げるが、吐き気が思考を強制停止させる。
ただでさえ気持ち悪いのに、そんな時に分泌される唾液ほど吐き気を増幅させるものはない。
四つん這いのまま浅く呼吸し、心臓の音に耳を澄ませる。
半自動的に涙が零れる。
脂汗が頬を濡らす。胃がキリキリする。
「う゛っ」
口元を右手で押さえ、胸元を左手で握りしめながら、頭を引きずるようにして丸くうずくまる。
……この姿勢だと少し楽だ。
暫くこのままでいよう。
―*―*―*―
段々と気分が楽になってくる。
と同時に、頭の方もゆっくりと正常運転に戻ってくる。
助かった、とひとまず安堵。
とりあえず、この煩わしい唾を何度も道の端に吐き捨てる。
「ふう………………」
最後に、息を大きく吐く。
…………よし、大丈夫そうだ。
そう思った私は眉間にしわ寄せながら顔を上げる。
そして、今度は苦笑い。
「……なんというか、ベタだな」
美男子が追いかけてきていないか背後を確かめつつ、地面に腰を下ろす。
石でつくられた重厚感のある路地。密集した三角屋根の家々。それよりも一回り高い教会……教会だよな、これ。
建物の外壁にへばりつくつる植物や砂っぽい空気も相まり、かなり「ぽい」雰囲気を醸し出している。
なんというか、あれだな。自己紹介のように異世界な街並みだ。
前に見た異世界アニメなんて、もうそっくりだったし。なんか、興奮するというか、期待外れというか。うーん。
それにしても。
「……これからどうしよ」
あまりにも集中的に事が起こりすぎている。
謎だって多い。依然私の命が脅かされていることも確か。
しかし、なんだか眠い。あまりにも瞼が重い。
さすがに頭や体が限界を迎えつつあると、眉間を指でほぐす。
と、ふいにひとつ疑問に思い、辺りを見回す。
あれ……。
人がいない。
よく見ると、家々にはヒビも目立つ。
なんか……
「こわくね」
「なにしてるの」
「うわァッッ!!」
思わず叫ぶ。
心臓が胸から突き抜けそうになるのをぐっと堪える。
冷や汗がにじむ。慌てて声の方向に目を向ける。
そこには。
「おねえさん、なんでこんなところにいるの?」
かわいらしい容貌の幼女がいた。
目をまん丸に見開きながら、私の目を見ている。
「……へ?」
小1くらいだろうか。……いやその表現はなんか違うな。
6歳くらいだろうか。
年齢にしては整った顔つき。くりくりとしたまん丸の目に、薄茶色の髪の毛。マロン色って言うのかな、これ。ツインテールで可愛らしくまとめられている。
服装に目を向けると、純白のマントが風になびく。
村民ではないのだろうか。身なりが小綺麗なのが少し気になる。
「おねえさん、あんまりここにいない方がいいとおもうんだけど」
「え、そうなの?……えっと、んと、まずはお名前聞いてもいいかな」
幼女と話したことなどろくにない私は、取り敢えず名前を聞く。
「えるはえるだよ」
至って不思議そうに聞き返してくる。
無垢な感じか。かわいいな。
「えるわえる?あ、える ね。えるちゃんって言うのかぁ、いい名前だねぇ」
思わずでへでへしてしまう。かわいいから。
……そう、可愛いのだ。
かわいいは正義なのだ。わかるか、美男子。
心の中でちょっと皮肉を吐く。
「えるのなまえはね、りょーしゅにつけてもらったの」
「そーリョ―シュさんがーセンスあるねリョ―シュさん」
「えへへ、そでしょー!」
「あっんと、私は……すずなといいます」
敢えて実名を名乗る。
フーシレア家は「この土地を統治している一族」とみてまず間違いないだろう。とすると、アーリンは領民に知られた名前である可能性が高い。
なんでこんなところにフーシレアが?なんて問われた時にはお先真っ暗。
そもそも、そんな会話をするほどの元気は私にはない。
「すずな……かわいいおなまえね!」
えるはにんまりと笑う。
「ぐふっ」
彼女の爛漫の笑顔に私の胸は射抜かれる。
子供がかわいいだなんて、いままで思ったことなかったんだけど。もしかして私もそういう年頃に……?
ああ歳だろうか。
とりあえず頭を撫でようとして、踏みとどまる。
あんまりべたべたすると引かれちゃうのかな。最近の子供はませてるし。
っと、そうではなく。
「える、ちゃん。ここにいない方がいいってどういうこと?」
「ああ、それはね」
「アエ、ウガクノ」
────。
ピタと動きを止める。
いや、動けなくなる。
次の瞬間、冷や汗がだらだらと溢れ出る。
ついさっき聞いたばかりの言語。
今一番聞きたくない、この言語。
……あれ。えるちゃん日本語喋ってなかったか。
いや、いい。これは後で考えよう。
「アモイロ、ツエチカエ」
声のする方へ目を向けると、そこには筋肉質な髭面男がいた。身なりが質素だから恐らく追手ではない。
ひとまず安心……とはいかない。
「カリゴンコルコ」
髭面はズボンのポケットからナイフをちらつかせる。
──それを見た瞬間、背筋に電流が走る。
「……またかよ」
あれ、でも。
なんだろう。美男子の時と違う。
…………ああ、そうか。殺意がないんだ。
どういうことだ。
「ツエチカエ」
髭面は、私とえるちゃんの腕を強引につかむと無理やり引き寄せる。
「カエ」
来い、とでも言っているのか。
彼の顔を見上げると、それはもう下品に笑っている。
ああ、ここでようやく理解できる。
この髭面。人攫いだ。
「っ……」
先程までの私ならば、ここで恐怖におののいたのかもしれない。
が、今は違う。
私は疲れていた。
そしてそれ以上に、私は腹を立てていた。外ならぬ自分に。
彼方すずな。一度だけでは飽き足らず、二度も何もできずに終わるのか。
ああ、そう。そうだ。
わたしは、そんなの嫌なのだ。