10.レア領緑耳地域守護室にて(後編)
アスクはギロとこちらに目を向けると、睨みかけてくる。
かと思えば、ズシズシと靴音を立て私に詰め寄る。
「…………え、なに」
戸惑うと同時に、思う。
殺されるんじゃないだろうか。
比喩ではない、本当に感じたんだ。だって、アスクの表情が──
──いや彼は、無表情だった。
思わず後ずさる。が、守護室は狭いためすぐに背中が壁にぶつかる。
逃げ場がなくなると、目はアスクから離れなくなる。
彼の眼差しは私を貫く。
刹那。
私の隣には彼の腕が。
と思えば。
「…………うそでしょ」
壁には大きなヒビが入っていた。
全身から血の気が引くのを感じる。
「アモイホ、ドリド」
何度も言われたその言葉。再度問われる。
今の私はきっと、文字通りの顔面蒼白である。
「ノジアーリンヲウボット。ノネゴマクチケドレアレャウナトミコカトイラ」
「あ゛……ァ…………ア」
あ、まずい。
声が出なくなった。足もすくんで動かない。
弁明も、命乞いもできない。
ますます鼓動が早くなる。
「カトイラァァッッ!!」
ますます大きな声で怒鳴られる。
目が充血していて怖い。
そんなに罵倒されたって、私にどうしろと。一向に声が出ないのだからまず答えようがない。
餌を乞う魚の如く口を開閉させても、まるで赤子のような有様である。
……だって私。知らないんだ。
他人に殺される痛みなんて、私は知らない。
だから怖い。恐怖の感情が、渦を巻きじわりじわりと私を襲う。
沈黙の中、心臓の荒波は最高潮を迎える。
鼓動の度に胸が圧迫されて苦しい。
しかしそれらが彼に伝わることはなくて。
彼は私の耳元に口を寄せると、囁く。
「…………カラスザ」
「──あ」
その時、何かが吹っ切れる。
全身が脱力し、その場に倒れ込む。
数秒差で涙が溢れる。
頭が真っ白になる。何も考えられなくなる。
その後に、ふと一つの感情が浮かぶ。
私はその感情に対して、相対する深紅の感情を覚える。
「わたしは……」
──ああ。なんで今さら。
否定したはずだ。諦めたはずだ。
悔しくて、憎らしくてたまらない。
「……わたしは全うしたはずだ」
私は、他ならぬ私に声を荒げる。
眉にしわ寄せ努力を装い、周りにしわ寄せを任せ続けた。なのに。
なぜ私は。
「生きたいって、思っているんだ」
「──コジヤ」
アスクが右腕を目の前にかざした、その瞬間。
「………やば」
アスクの髪は波打ち逆立つ。
部屋中の紙という紙が激しく舞いあがる。
髪の隙間から覗く彼の目は、獲物を捉える肉食動物のそれである。
これは。
流石に、理解する。
「ッッソモアスクヨレスゲヂス!」
「アスクアモイ」
「コナゼャナレャウウヂヲケレスチ」
「来るなぁああぁぁああぁあッッッ!!!」
気付けば叫んでいた。
心の中に蠢く、ネチョネチョした感情を吐き出すように。
そして数秒の後、めいいっぱいに瞑っていた目を恐る恐る開くと。
風は、消えていた。
アスクは、その場に立ちすくんだまま目だけをこちらを睨んでいる。
「ア、モイ、ノネ……ヲ」
襲っては来ない。
途端、エリーがアスクに飛びかかる。
「ソモアレラ!!!」
エリーが呼びかけると、アレラはハッと我に返ったようにアスクを地面に押さえつける。
アスクは狂ったように叫びながら抵抗する。
「ヘタモズホアスクゴソケコ」
「アーリン様、ひとまずは逃げてください。命に関わります」
私は、エリーの言葉を聞くと同時に。
……いや聞く前から、震える足を無理矢理立てる。
身体に力が入らず、転びそうになるのをなんとか耐えながら。
「いああぁああぁぁあぁああぁぁあああ」
私は、逃げた。
―*―*―*―
「はぁっはぁっはぁっ」
死んだとき以来の、死ぬという感覚。
身体を使い慣れていないからか、あるいは単に足がすくんでいるのか、脚が重く、上手く走れない。
異世界。転生。魔法。
申し訳ないがそんなの知らない。私はそんなこと願ってなどいない。
「ああああぁぁあぁあぁぁあああぁあもう帰りたいよおおおお」
みっともなく涙を振り落としながら、ただ私は走り続ける。
叫べば叫ぶほどに自らの平静が崩れるのを肌に感じながら。
とにかく逃げなきゃ。逃げるってどこへ。
……わからない。わからないが、走らなきゃ。とにかく走れ!
走れ!!
そこで、ふと気づく。
結局私はそうなのだ。
生きたいのだ。本音では生きていたいのだ。
……でも、わかっている。
この身体の持ち主はアーリンで、彼女だって生きたいはずだということを。
知っている。
だから、いつか返す義務がある。この身体を。
必ず。
「わかってるんだってばぁぁあぁぁあぁあぁ」
雲一つ無い青空の下。
私はひたすらに空を睨みながら、知らない砂利道を走り続けた。
※2025/8/07…表現の修正・描写の一部変更(展開の変更なし)