アンデルナハ戦後のあれこれ
「なんと、それ程までの大敗か……」
ローマ教皇ヨハネス8世は驚愕し、頭を抱えた。
西暦876年10月8日に起きたアンデルナハの戦いの結果は、司教たちのネットワークを使ってローマにいち早く届けられた。
フランク族の有力者を地方の軍事・行政・司法の統括をさせた世俗権力の伯。
宗教的な権威ではあるが、事実上伯と同じような権限を持ったフランク王国内の司教。
これらが壊滅的な被害を出す敗戦は、教皇にとっても予想外だった。
「聖人」ケルン大司教ヴィリベルトの仲介で戦争が収まる、それがローマ教会にとって最良の形。
次善で西ローマ皇帝である西フランク王シャルル2世の勝利であった。
平和主義で言っているのではない。
ローマ教皇にとって、一番の敵とはシチリアから侵攻して来るサラセン人である。
独力で防衛出来ないからこそ、手駒となって戦ってくれる「ローマ皇帝」が必要なのだ。
そのローマ皇帝が弱体化してしまってはたまらない。
「諸卿、皇帝が斯く敗れた上は、我等としてどのように処したら良いと思うか?」
教皇は助祭たちに問う。
「シャルル陛下の廃位は得策ではありますまい。
猊下が直接戴冠なされたわけではないですが、それでも教会の威信が損なわれます」
「しかし、バイエルンのカールマンは、己こそが先帝の意中の後継者だと宣伝しております。
あの者が帝位を要求しながら、イタリアの地に軍を進めて来たら如何しましょうや?」
「此度は三兄弟が手を組んだから、皇帝も敗れたのだ。
一人、バイエルン王だけなら皇帝は勝てるでしょう」
「いや、聞くところによると、実際に戦ったのは東フランク王(ルートヴィヒ3世)だけだそうな。
皇帝は三兄弟の一人にすら勝てなかったわけだ」
「実際に戦わせてみて、強い方を皇帝にしてもよろしいかと」
「その場合、皇帝の死が条件だ。
生きている皇帝を、そのまま廃位させるのは教会の威信を傷つけると、既に言われている」
「成る程、皇帝が神の御許に召されたなら、バイエルン王を皇帝にしても良いか」
意見がある程度収束したのを見計らい、ヨハネス8世が口を開く。
「概ね卿たちの意見は理解した。
バイエルン王の動向次第という事であるが、余には譲れない条件が二つある。
一つは、我等の求めに応じてサラセン人どもと戦ってくれるかどうか。
二つは、ギリシャの皇帝と教会に、必要以上に接近せぬ事だ。
これが守られぬとあらば、如何に勝利を収めようと、余はバイエルン王を皇帝には就けん」
教皇の遺志に、助祭たちは
「御意」
と礼を取る。
一同を下がらせた後、ヨハネス8世は側近のマリヌス助祭に語りかけた。
「果たして、バイエルン王カールマンは皇帝にするに値するか?
汝はその事を調べ上げよ」
助祭退出後、教会は独り言を呟く。
「まあ、シャルルもカールマンも不適合だったとしても、余にはまだ手駒がある。
今イタリアに居るボソという手駒がな。
余の恩に感謝しながら、ローマに尽くすが良いぞ」
そう言ってクククと不敵に笑っていた。
その話題のカールマンが、メスのルートヴィヒ3世の事務室にやって来た。
「やぁ、兄上、こないだぶりなんだな」
「カール……、帰ったと思ったら兄上に首根っこ掴まれてまた来るとは……。
カールを連れて来たという事は、ただの勝利への祝賀ではないようですな、兄上」
三兄弟が揃った。
宰相もいるのだから、これは政治的な話になるのは必定だ。
「おう、簡単な話だ。
アンデルナハの戦い、真に見事。
そこで分捕った戦利品を三分割しろ、そう言いに来た」
「はあ……戦利品の分割ですか……」
ルートヴィヒ3世は即答しない。
あの戦いに際し、確かにバイエルン王カールマンも、アレマニア王カールも協力をしてくれた。
しかし、実際に槍を持って戦ったのは、ほとんどがルートヴィヒ3世の配下である。
彼等に戦利品を褒賞として渡せねば、王としての沽券に関わる。
三分割したら、彼等の取り分が減ってしまう。
いくら兄弟の主張でも、これは呑めない。
「いや、お前の配下の戦った者たちに褒賞を渡した後の事だ。
戦った者が褒賞を得るのは当然の事だ。
その分を寄越せなんて言わない」
カールマンは好戦的な人物だが、一方で公正で理を弁えた人物でもある。
身内に対しては無遠慮だが、外面はかなり良く
「礼儀正しい、温和な人物」
という評もあるのだ。
まあ、ゲルマン民族基準であるが……。
ゲルマン民族から見て野蛮というのが、ヴァイキングのレベルであるから、まあ礼儀正しいの基準は押して知るべしというか。
「それなら理解出来ます。
しかし、実際に戦ったのは私だけです。
それで戦利品を分けろと言われても……」
「金が要り用だ」
「あの、私の話を聞いていましたか?」
「聞いているよ。
俺の方だが、禿げ叔父を追い落とす為にイタリアに行かねばならない。
以前、イタリアに行った時は、親父殿(ルートヴィヒ2世)が倒れたと聞き、中途半端で戻って来た。
イタリアの富で支払うべき褒賞が、十分に手に入れられなかった。
だから俺の私財で支払ったのだが、そうすると今度は遠征が出来ない。
手持ちの金が無いんだ。
だから無心に来た」
「はあ、成る程……」
理解は出来る。
しかし納得はし難い。
「だから、お前が手に入れる分の財産を、三分割して欲しいんだ。
これなら先祖からの法、サリカ法に準じた話だし、納得もいくんじゃないか?」
「サリカ法にそんな項目ねえよ……」
「あ? なんか言ったか?」
「いえ、別に……」
「え?
今の話からしたら、自分も分け前を貰えるんで?」
「当たり前だろ、カールよ。
本当は全部欲しいところだが、それでは愚弟にも先祖からの法にも悖る。
三等分がもっとも良い」
『こういう所、脳筋な癖に小賢しいんだよなあ、兄上は……』
ルートヴィヒ3世は納得は出来ないが、これで兄に臍を曲げられたり、イタリアから手を引かれたりしても困る。
とりあえず、財産だけは三等分した。
これには援軍として参戦したアルヌルフへの褒美という面もあった。
そして西フランク王国リエージュ。
王都アーヘンはおろか、ロタリンギア全てを失ったシャルル2世は、現在のベルギーにあたるこの地まで逃げていた。
彼の戦後処理は苦痛に満ちたものとなる。
ただでさえ、多くの部下を失ってしまった。
そして戦場に持ち込んだ財貨も全て奪われた。
それでも、東フランク王国の捕虜となった貴族たちを解放すべく、彼等に身代金を払わねばならない。
これを怠れば、彼は王という地位を放逐されるであろう。
戦争が弱いシャルルにとって、今や権威だけが拠り所である。
泰然として虜囚となった者たちを救わねばなるまい。
後は戦死者の相続の解決や、死者の弔いを行って、国の立て直しをしなければならないのに、彼にその時間は与えられなかった。
またもヴァイキングがセーヌ川を遡上し、サンドニ修道院を襲撃する。
ヴァイキングにはどうも勝てそうにない。
シャルルはヴァイキングと交渉し、銀5000ポンドで撤退して貰えた。
弱腰に国内からは非難の声が挙がるも、また負けるよりはマシだろう。
そんな所にローマ教皇から救援要請の使者が来たのである。
「またサラセン人がローマ南方に現れたという。
ローマの軍では勝てなかった。
またも救援に行かねばならぬ」
そう言うシャルルに対し、多くの貴族たちは猛反対をした。
アンデルナハの戦いの傷は全く癒えていない。
それなのに連年の遠征は如何なものか?
この遠征に対しては、現在イタリアを任せている義兄のボソすら反対して来た。
自分たちが何とかするから、王は国内の立て直しを行えという。
それらの反対意見を押し切って、シャルルはイタリア遠征を決めた。
彼にはもう権威しかない。
西ローマ皇帝・キリスト教の地上の保護者という権威で、貴族・諸侯の上に立つ他ない。
利用されているのは分かっていても、彼の地位を保証する者はローマ教会しかない。
シャルル2世は、ここである布告を出す。
877 年6月14日に出された「キイジーの宣言」は、遠征中に死亡した諸侯に対し、これまでの「
一旦王に封地を返還し、改めて伯に任じる」という手続きを経ずに、そのまま世襲を認めたものである。
これにより諸侯は、王の許可無しでも子に領地を相続させる事が可能となり、より一層貴族権力が増す事になる。
これを受けて諸侯は、王のイタリア遠征とその為の兵力を出す事を認めたのだった。
シャルルは軍勢を率いてイタリアの地に赴き、北イタリア・トルトーナの地でヨハネス8世と会って抱擁した。
そしてパヴィアの地まで教皇を護衛する。
軍勢がやって来た事で、サラセン人は一旦南イタリアから撤退したようである。
シャルルは遠征に掛かった費用の補填が為される事を待った。
だが、教皇からは何も言って来ない。
せめて何らかの権威の付与だけでも良かったが、なしのつぶてである。
そんなシャルルに凶報が届く。
カールマンがアルプスを越えて、北イタリア目指して突入して来るというものだ。
シャルルは決断を迫られていた。
調べてみたんですけど、なんかカールマンはやたらアルプスを突破したがる癖がありました。
アドリア海とかに回る迂回路を全然使わない。
この後も、何故かアルプスを通過してます。
ハンニバルに取り憑かれてるのかなあ……。