3分割された東フランク王国とシャルル禿頭王
「そうか、兄が死んだか……」
西暦876年、東フランク王ルートヴィヒ2世がフランクフルトにて死亡した。
享年73歳である。
西フランク王国首都アーヘンにて、シャルル2世(禿頭王)がその報告を受けていた。
この人物、決して有能ではない。
フランク王国を最初に分割したヴェルダン条約の時、彼は僅か二十歳であった。
そんな若輩の王が、広大なフランク王国の西側を継承したのだが、数ヶ月後に早速失敗する。
ブルターニュに遠征し、敗北した挙句、王の権利を制限し諸侯と教会の権利を保証するクーレーヌ条約を押し付けられた。
ヴェルダン条約は、敬虔王の長男・三男・四男の間で結ばれた分割条約だが、この他に次男ピピンが存在していた。
ピピンは早世していた為、その子であるピピン2世が本来父が得られる筈の領土を要求し、シャルル2世と戦いを始める。
この戦いはシャルルが優勢であった。
するとピピン2世は、ヴァイキング(ノルマン人)を味方につけようとする。
だがヴァイキングはピピン2世を相手にせず、ただ彼がもたらした肥沃な土地の情報を元に、西フランク王国への侵略を開始した。
このヴァイキングにシャルル2世は負け続け、パリを奪われた際は莫大な貢納金を払って帰って貰ったりもしている。
こんな弱い王に諸侯は反乱する。
ブルターニュには、バロンの戦い、シャングランの戦いと敗北しまくり、ついに独立を承認した。
そこに東フランク王国ルートヴィヒの侵攻が重なる。
この時、シャルルの元に駆け付ける諸侯は無く、ブルゴーニュに逃亡を余儀なくされた。
結局母方の親族ヴェルフ家や、西フランク各地の司教が味方した事で、彼は西フランク王位を維持出来た。
彼は、甥(長男ロタールの末子)プロヴァンス王シャルルの領土を奪おうとするも、あっさり敗退するという失敗もしている。
ここまで負けっぱなし、勝ったのはピピン2世に対してだけという弱さだが、それが彼をしたたかな人物に成長させたのかもしれない。
そして彼が強運、言い方を変えれば健康であった。
兄ロタールの子たちが相次いで死に、相続人不在の状態が発生した際、シャルルは上手い事介入して自領に組み込んでいった。
こういう場合に腕力に物を言わせて介入して来る兄・東フランク王ルートヴィヒは全身麻痺を伴う病気で動けず、唯一生き残ったロタールの子であるロドヴィコ2世はサラセン人との戦争で手一杯。
上手い事、戦わずに勢力を拡大させていく。
兄ルートヴィヒの侵攻以降、シャルルはローマ教会との関係を強めていた。
それが相続関連では物を言う。
そして、ロドヴィコ2世死後にイタリア王国を相続し、やがて西ローマ皇帝に就く事にも繋がった。
司教の任命権を巡ってローマ教会と争ったルートヴィヒと比べ、教会からの友好度合いはシャルルの方に圧倒的に分があったのだ。
戦わずしての領土拡大、ローマ皇帝の位は国内統治にも役立つ。
不平不満の多い諸侯に対し、権威でもってシャルルは君臨していた。
それ故に、彼は兄ルートヴィヒ亡き後、東フランク王国をも相続して併合しようとしていたのだ。
「長男の脳筋がバイエルン、次男の恐妻家がザクセンとフランケン、三男の肥満がアレマニア(後のシュヴァーベン)か。
全く意外性の無い継承だな。
バイエルン副王、ザクセン副王がそのまま相続、余った部分を出来損ないの三男に分割。
脳筋は私のイタリア王国とローマ皇帝位を狙っている。
恐妻家はフランク族の本領に近い部分、つまり私の王国に隣接する地。
肥満が治める地は……昔、あそこは私が相続する筈だったが、中々難しい土地なんだよなあ」
シャルルが結果を聞いて独り言を呟く。
簡単に言えばドイツ中部から北がルートヴィヒ3世に、ドイツ南東部ミュンヘン近郊からオーストリア・スロベニア・クロアチア辺りがカールマンに、ドイツ南西部がカールに相続された。
主要部を次男が持っていき、東フランク王の座の次男のものになっているが、長男の狙いはイタリア王・ローマ皇帝であり、亡きルートヴィヒ2世は
「弟たちは全力を挙げて、兄のローマ皇帝即位に協力せよ」
と遺言していた。
兄を格上の地位に就けないと、脳筋は収まりがつかない。
長男を東フランク王にしてしまうと、戦線をどんどん東方に拡げまくりかねない。
だからここは次男を王にし、長男は皇帝、これが最適な形だろう。
皇帝となったカールマンは、きっとサラセン人との戦争に専念してくれるだろう。
そして一番は、きっと仕掛けて来るであろう西フランク王シャルル2世に対し、兄弟が利害を巡って対立していては、勝てるものにも勝てなくなる。
王は3兄弟に「決してお互い争うな」とも言い遺す。
分かるように、三男のカールは大して期待されていない。
ただキリスト教に対し敬虔なだけで、軍事や外交には関心がなく、能力も無かったようだ。
先のカールマン父子によるイタリア遠征にも付き合っていたが、特に何の発言もしていない。
次兄ルートヴィヒ3世が父に対し反乱を起こした際も、兄に従っていたが何もしていない。
非常に流されやすいせいか、父もカールに対しては特に懲罰を与えていない。
こんな怠惰・無能・流されやすい人物であり、周囲からは数合わせのように見られていた。
それでも血縁上の被相続人であり、また教会が非常に推していた事もあって王国の3分の1を継承する。
その領地アレマニアは、現在の地名ではアルザス地方やドイツ語圏スイスを含む地域である。
元々はアレマン人が居住していた地域だが、フランク族に併合され、「カンシュタットの血の法廷」よ呼ばれる事件で数千人のアレマン族貴族を逮捕し、大逆罪で全員を即決処刑して治めた過去があった。
その後も独立闘争や、近隣の民族でこの地を狙うラエティア人(現在のスイスに居住)との抗争、アレマニア教会の支配権を巡るフランク王国とローマ教会、フランク王国内での対立で度々荒れている。
同様にフランク王国に併合された異教徒の国、ザクセン、フランケン、バイエルンがそれぞれ単独のザクセン公、フランケン公、バイエルン公によって統治されていたのに、アレマニアだけは公が置かれなかったくらい分裂気味であった。
難治の地ではあるのだが、それ故にヴェルダン条約前に一度この地を領有する機会があったシャルル2世も
「いや、面倒臭いから要らない」
と言ってくる地の為、無能なカールの安全を守るには丁度良かったのかもしれない。
「さて、まずは甥っ子に手紙でも送ってみるか、一度会いましょう、と」
シャルル2世が様子見を考えていると、腹心のフランク伯ラガナールが慌ててやって来る。
「陛下、一大事でございます」
「いかがした?」
「先程、プロヴァンス公ボソ殿より急使が参りまして」
「義兄殿からか。
して?」
「教皇ヨハネス8世猊下、ポルト・サンタ・ルフィーナ大司教アンセギス様を破門なされたとか?」
「へ?
ふえ~?
何だそれ?
オホン、取り乱してしまった。
アンセギス大司教は私を即位させた方。
それを破門にするという事は……東フランクの……恐らくは脳筋の仕業か?」
「恐らく!」
相続によってアルプス山脈の東側、アドリア海側からの侵攻ルートを手に入れたバイエルン王カールマンは、早速あの手この手でローマ教会や旧イタリアに嫌がらせや、揺さぶりを掛け始めた。
特に、シャルル2世の寄進で手に入れた南部の領土を、ヨハネス8世はまともに統治出来ない。
そういう部分をチクチクつつきながら
「必要ならサラセン人との戦争に協力しますよ」
とか申し出た事もあり、ヨハネス8世はアンセギス大司教ら複数名を破門し、ローマから追放したそうだ。
「フランク伯よ」
「はっ」
「私に戴冠した大司教を追放したという事は、私の皇帝位も怪しくなって来る」
「はい。
そうなれば、また領内の諸侯が理由をつけて反抗し始めるかもしれません」
「それは防がねばならぬ。
東フランクのドラ息子どもより領土を奪い、力を見せつけた上で、教皇にも私が皇帝として相応しいと思わせねばならないな」
「しかし、陛下は戦争は弱いじゃないですか」
「大丈夫だ。
私に考えがある。
東フランク王ルートヴィヒに書状を送れ。
お前の相続した領土は、私にも相続権があるから、一部割譲しろ、と」
シャルル2世による東フランク王国侵攻が始まる。
そのきっかけを作ったカールマンは、息子のアルヌルフに向かって胸を張っていた。
「どうだ、俺にも外交ってものが出来るって分かっただろう?」
「うん、分かったが。
だけど、直接殴って言う事聞かせた方が良くないか?」
「俺もそう思うが、愚弟から勝手に戦争したら、ローマ皇帝になる為の協力しないぞ、と言われていてなあ」
「なら仕方ない」
そう言って笑う父子を見ながら、亡きルートヴィヒ2世の友人で、カールマンの相談役として附けられたバルドルは
『あれを外交と呼べるのか??』
と頭を痛めていた。
そして、ルートヴィヒ3世は兄の所業を聞き
「勝手に戦争するなとは言ったけど、勝手に強引な外交もすんじゃねえよ!」
と、他人が居ない時に壁に向かって吠えていた。
※フランク王国に関して、史料がガチで少ないです。
かなり勝手な解釈を入れていますが、起こった事件は史実通りですので。
今日はここまで。
明日17時から2話投稿します。