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脳筋王子と肥満王~仏独伊が出来た頃の物語〜  作者: ほうこうおんち
脳筋王の時代、そしてその次の時代へ(西暦889年~899年)
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モラヴィア侵攻~893年の役~

 モラヴィアの地で、東フランク軍とモラヴィア軍が戦っている。

 以前と違い、大軍を率いているアルヌルフは有利に戦況を進めていた。

 アルヌルフはマジャール人と同盟し、モラヴィアを背後から襲わせている。

 更にスラヴ人貴族のブラスラヴを通じ、周辺のスラヴ人たちにも協力させていた。

 こうして優位に戦いを進めるアルヌルフだが、問題が一つあった。

 それが補給である。


 この時代、兵站という概念は一回消えている。

 ローマ時代にはあったのだが、全てを自弁する騎士の時代に入り、国家が兵站を活用して全軍に継続的に補給を行うという事は無くなった。

 故に、継続的に全軍に補給物資を届けるというものではないが、とりあえず直属軍を食わすだけの食糧や、約束していたり、しなくても勝手にやって来て味方する所属への恩賞とかを用意しないとならない。


「祖父さん、貴方をカランタニア伯に任じる」

 側近であるルイトポルドは唐突にこんな事を言われた。

 まあ理由は分かる。

 後方を任せたパンノニア辺境伯アリボだけでは手が足りないのだ。

 そこで、信頼のおけるルイトポルドを、かつて自分が「副王・公」として治めていたカランタニアの伯として、バイエルン諸侯の取り纏め役に抜擢したのである。

 こうして後のバイエルン大公ルイトポルド家が誕生した。

 そこから更に、スウェーデン国王となるヴィッテルスバッハ家や、ハプスブルク家の前にオーストリア大公となるバーベンベルク家が分かれたという説もあるが、それはもう少し後の話である。


 そのルイトポルドからの進言を受け、秋が始まる頃にはアルヌルフは一旦兵を引いた。

 大モラヴィア王スヴァトプルクは戦闘も戦略も巧者。

 戦略という兵学上の概念はまだ無いが、強敵は東フランク軍よりもマジャール人と見定め、広域防御の為に大軍を後背に配置、統率が取れているアルヌルフの軍には少数ながら精鋭である直率の軍で当たると判断する辺り、やはり最盛期を作り出すだけある戦争巧者と言えよう。

 そのスヴァトプルクがあえて持久戦に出ている以上、長期の遠征は大軍ゆえに物資を食い尽くす危険性が高く、農繁期を前に撤退するのが良い。

 アルヌルフは有利な内に、追撃を受けぬよう撤退してこの年の戦役を終了させた。

 それは物資を自弁する騎士たちからも歓迎され、軍事指導者としてのアルヌルフの評価を更に高める。

 戦争は翌893年に持ち越された。


 その西暦893年、王妃オーダの妊娠が分かった為、彼女は夫の傍を離れてレーゲンスブルクに戻る。

 この年に彼女は出産し、その子はルートヴィヒと名付けられた。

 成長すれば曾祖父ルートヴィヒ1世(敬虔王)、祖父ルートヴィヒ2世(ドイツ王)、叔父ルートヴィヒ3世(若王)という名前を引き継ぐルートヴィヒ4世王となるだろう。

 そうなると、庶長子のツヴェンティボルトの立場が浮いてしまう。

 彼の処遇はこれから決まる。

 とりあえず嫡子となったルートヴィヒがちゃんと成長するのを待つ事になろう。


 オーダが嫡子を産んだ事で、彼女の実家は勢力を増した。

 この頃、ザクセンでは権力争いが発生していた。

 ルートヴィヒ3世(若王)の王妃リウトガルトの実家はザクセン公家である。

 このザクセン公と婚姻関係にあるバーベンベルク家と、オーダの実家のコンラディン家が勢力争いをしていたのだが、アルヌルフは妻の実家を支持する。

 これによって東フランク北部を支配するザクセン公と、アルヌルフの仲が微妙なものになった。

 このザクセン公リウドルフィング家は、後に皇帝を排出する事になる家で、今も極めて重要な貴族なのだから、関係改善はしておく必要が絶対にある。


 そんなゴタゴタを抱えつつも、アルヌルフは再度モラヴィアへの侵攻を下令。

 モラヴィア戦争が再開された。


 この戦役でも、モラヴィア王スヴァトプルクは背後のマジャール人に悩まされる。

 かつて、ローマ人から見て、ゲルマン人のフランク族とは蛮族であった。

 そのフランク族が教化され、定住生活をして都市等を作るようになると、後からやって来る北方のヴァイキングことノルマン人やモラヴィア人(スラヴ人)を蛮族と呼ぶようになる。

 そのモラヴィア人から見て、遅れて東欧の地に勢力を広めているマジャール人は蛮族なのだ。

 フン族を思い起こさせる遊牧民族であり、侵略と略奪で生計を立てているような彼等は、キリスト教を受け容れ、都市を築いたスヴァトプルクたちから見て迷惑な連中であった。

「アルヌルフの馬鹿王め。

 マジャール人に暴れる口実を与えた事は、歴史的にあいつの悪行と言われるぞ」

 スヴァトプルクは、背後を脅かされている事もあってアルヌルフに毒づく。

 この一手のせいで、モラヴィア全軍を東フランク軍に当てられない。

 以前のアルヌルフであれば、手持ちの軍だけでも勝てたが、アルヌルフの軍才もまた成長していてそれが出来ない。

 この日も、スヴァトプルクの騎兵部隊とアルヌルフの騎兵部隊が草原で激突していた。


 フランク王国ではあぶみが用いられ、騎兵戦においてイスラム騎兵とも互角となった。

 中央アジアで発明された鐙は、馬上での踏ん張りが効くようになる為、騎馬民族以外でも馬上戦闘の技術が向上する。

 鐙を持つイスラム騎兵に対し、以前のゲルマン人たちは馬上技術で劣っていたのだが、フランク族はこれを克服した。

 一方で弓矢は貧弱なものだ。

 フランク族は、彼等の名前の由来ともなった「フランキスカ」という投げ斧を使う部族であり、昔から弓矢の扱いは得意でなかったようだ。

 それ故に遠距離攻撃では劣っていた。

 新装備・鐙もまだまだ普及し切ってはいなく、踏ん張っても壊れない高価で立派な鐙は、重装騎兵には装備されていて密集突撃(チャージ)も行われている。

 しかし召集に応じて参陣する一般の騎兵だと高価な鐙を持っていない者もまだ多く、踏ん張りが効かない為に衝撃ではなく、投槍攻撃を行っていた。

 更に「弓矢は狩猟の際に使うもので、人と戦う時は槍や剣こそ礼儀」という騎士道精神のような意識にも変わっている。

 それで遠慮も情け容赦も無い攻撃を仕掛けるヴァイキングやスラヴ人に遅れを取ってしまう。

 ヴァイキングなんかは船上戦闘も多い為、弓矢の扱いも巧みだ。

 アルヌルフはこういう弓矢からの攻撃に対し、実に脳筋な回答を示した。


「矢なんて、死ななければ当たってもそのまま突っ込め」


 更に精神論的に言えば

「怯えて戦えば矢にも当たるが、前に突っ込んで戦えば、そうそう当たるものではない」

 というものもある。

 まあ、当時の矢は山なりに飛ばすから、躊躇するよりも距離を詰めた方が当たらないのも確かだ。

 威力と射程距離と生産性の良さを合わせ持つ弓はまだ開発されていない。

 その弓は、表皮側が固く髄側がしなやかというイチイ及びニレの木で作られ、複合弓と同じような性質を持っているのだが、それは後世の話である。


 フランク族の騎兵は、突撃用というよりも、戦略機動の為のものだ。

 サラセン人にしても、ヴァイキングにしても、スラヴ人にしても、不利だと思えばすぐに逃げる、防備の弱い地に攻撃を移すという性質がある為、歩兵部隊では対応不能であった。

 その戦略機動用の騎兵ゆえに、先日のヴァイキング戦では徒歩攻撃への切り替えを命じたが、アルヌルフの本領はそれを戦場機動に生かす事である。

 とにかく、死を恐れずに突っ込んで、多少弓矢で死のうとも接近戦に持ち込めという脳筋戦法だ。

 モラヴィアに対してもその攻撃を仕掛ける為、スヴァトプルクも中々辟易する。

 背後のマジャール人は騎射での遠距離戦だから、両極端であった。


 そんなある日、スヴァトプルクは退避のタイミングが遅れてしまった。

 この日、いつも以上に体調が悪く、ボーっとしてしまった。

 そこを東フランク騎兵に突撃され、いつもならかわすべき所だが、接近を許してしまった。

 流石に討ち取られこそしなかったものの、混乱の中で彼は落馬してしまう。

 スヴァトプルクの不運な負傷により、以降のモラヴィア軍は弱体化してしまった。


 そんなモラヴィアを見限ったのか、ここに亡命していた、かつてのオストマルク東方辺境伯エンゲルシャルク2世が投降して来る。

 もちろん誘拐していたアルヌルフの次女も連れてである。

 アルヌルフは即断で処刑しようとする。

 しかしエンゲルシャルクは、アルヌルフの次女のエルリンラートと既に結婚したと言い張った。


「このロリコンめ!」

 という言葉は当時は存在しない為、やむなくアルヌルフは娘婿を許す事にする。

 彼にとってはモラヴィアと戦う方が優先で、エンゲルシャルクの事等どうでも良かったのかもしれない。

 しかし、事はアルヌルフの知らない場所でまた動く。


「あのまま、エンゲルシャルクを許す事は出来ないな」

 カランタニア伯ルイトポルドが、バイエルンの諸侯に働きかけた。

 ルイトポルドは、アルヌルフに対しては気の良い祖父だし、穏やかな人物であるが、アルヌルフに敵対する者に対してはその限りではない。

 宰相のアスペルト、書記官のエンギルペロとも密かに連携し、エンゲルシャルクを裁判にかける。

「王に対する反乱の罪は許し難く、死刑相当である。

 しかし、王の娘婿である事を配慮し、盲目にして幽閉としよう」

 異議の申し立て等聞かず、即日刑は執行された。


 これを知ったエンゲルシャルクの従兄弟のヴィルヘルミナ2世は、再びモラヴィアに亡命する。

 そしてヴィルヘルミナ家は、東フランクで返り咲く事は無かった。

 その報を聞いたアルヌルフは、怒るでも喜ぶでもなく

「そうか」

 と言ったきりであった。

 前年、密かに殺された従兄弟ベルンハルトの死を聞いた時も同様である。

 彼の中で、知った者たちの死に対する達観のようなものが拡大しているのに、本人も気づいていない。

※アルヌルフの次女エルリンラートの生年について。

史料にはありません。

ただ、

長女グリスムート:866年誕生、893年時点で27歳

三男ルートヴィヒ:893年誕生

なので、この間になります。

長男ツヴェンティボルト:870年誕生、893年時点で23歳

次男ラトルト:889年誕生、893年時点で4歳

なので、ラトルトの前後と想像。

914年に娘を死産し、自身も死亡してます。

893年に結婚したと言われているのに、914年まで子が出来ないのも分からんところなので、少女が成長するまで待っていたと考えました。

生年が889~993の間であれば、死亡した時に21~25歳。

こんなものかなあ。

(逆に長女のすぐ下なら、死亡時は48歳。

 こっちも難産になる可能性は高いし、平均年齢的にもヤバいですが、とりあえず個人的な好みで却下します)

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