資料:フランク王国領土変遷
■西暦843年メルセン条約
ルートヴィヒ敬虔王死亡により、
長男ロタール1世が中部(ロタリンギア、イタリアとプロヴァンス)
三男ルートヴィヒ2世(ドイツ王)が東部(フランケン、ザクセン、バイエルン、アレマニア)
四男シャルル2世(禿頭王)が西部(ネウストリア、アキテーヌ、ブルゴーニュ)
を分割相続する。
東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国の3国体制に。
■西暦855年プリュム条約
中フランク王ロタール1世死亡により
長男ロドヴィコ2世がイタリア
次男ロタール2世がロタリンギア
三男シャルルがプロヴァンス
を分割相続。
東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギア、イタリア、プロヴァンスの5国体制に。
■西暦863年
プロヴァンス王シャルル死亡により、ロドヴィコ2世とロタール2世が弟の遺領を分割相続
東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギア、イタリアの4国体制に。
■西暦870年メルセン条約
ロタリンギア王ロタール2世死亡。
叔父のシャルル2世とルートヴィヒ2世がロタリンギアを分割相続。
ロドヴィコ2世はプロヴァンスを全て相続。
東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国の3国体制に。
■西暦875年
イタリア王ロドヴィコ2世死亡により、シャルル2世が遺領を全て相続。
東フランク王国、西フランク王国の2国体制に。
■西暦876年
東フランク王ルートヴィヒ2世死亡により、
長男カールマンがバイエルン
次男ルートヴィヒ3世がフランケンとザクセン(東フランク王国)
三男カール3世がアレマニア
を分割相続。
西フランク王国、東フランク王国、バイエルン、アレマニアの4国体制に。
アンデルナハの戦い勃発
■西暦878年
西フランク王シャルル2世死亡により、イタリアの地をカールマンが相続、イタリア王となる。
プロヴァンスでボソが自立。
東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国、アレマニア、プロヴァンスの5国体制に。
■西暦880年
イタリア王カールマン死亡でバイエルンをルートヴィヒ3世が、イタリアをカール3世が相続。
カール3世、イタリア王になる。
東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国、プロヴァンスの5国体制に。
■西暦882年
ル東フランク王ルートヴィヒ3世死亡で、東フランク王国はカール3世の元で統一。
プロヴァンス王ボソの領土がヴィエンヌ周辺のみに追い込まれる。
東フランク王国、西フランク王国の2国体制に。
■西暦884年
西フランク王カルロマン2世死亡で、西フランク王位もカール3世が兼任。
フランク王国統一。
875年から884年までの9年間が激動過ぎる。
勢力の変動が三国志初期以上。
なのに、フランク王国内で戦争になったのは、876年のアンデルナハの戦いのみ。
親父世代を見てると違うのだが、実はカロリング家って仲良いのでは?と思ってしまう。
……相続で済ましてしまうから、激動な割にダイナミックではないんだなぁ。
 




