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脳筋王子と肥満王~仏独伊が出来た頃の物語〜  作者: ほうこうおんち
番外編:フランク王国について
21/42

資料:フランク王国領土変遷

■西暦843年メルセン条約

ルートヴィヒ敬虔王死亡により、

長男ロタール1世が中部(ロタリンギア、イタリアとプロヴァンス)

三男ルートヴィヒ2世(ドイツ王)が東部(フランケン、ザクセン、バイエルン、アレマニア)

四男シャルル2世(禿頭王)が西部(ネウストリア、アキテーヌ、ブルゴーニュ)

を分割相続する。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国の3国体制に。




■西暦855年プリュム条約

中フランク王ロタール1世死亡により

長男ロドヴィコ2世がイタリア

次男ロタール2世がロタリンギア

三男シャルルがプロヴァンス

を分割相続。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギア、イタリア、プロヴァンスの5国体制に。




■西暦863年

プロヴァンス王シャルル死亡により、ロドヴィコ2世とロタール2世が弟の遺領を分割相続

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、ロタリンギア、イタリアの4国体制に。




■西暦870年メルセン条約

ロタリンギア王ロタール2世死亡。

叔父のシャルル2世とルートヴィヒ2世がロタリンギアを分割相続。

ロドヴィコ2世はプロヴァンスを全て相続。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国の3国体制に。




■西暦875年

イタリア王ロドヴィコ2世死亡により、シャルル2世が遺領を全て相続。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国の2国体制に。




■西暦876年

東フランク王ルートヴィヒ2世死亡により、

長男カールマンがバイエルン

次男ルートヴィヒ3世がフランケンとザクセン(東フランク王国)

三男カール3世がアレマニア

を分割相続。

挿絵(By みてみん)

西フランク王国、東フランク王国、バイエルン、アレマニアの4国体制に。


アンデルナハの戦い勃発




■西暦878年

西フランク王シャルル2世死亡により、イタリアの地をカールマンが相続、イタリア王となる。

プロヴァンスでボソが自立。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国、アレマニア、プロヴァンスの5国体制に。




■西暦880年

イタリア王カールマン死亡でバイエルンをルートヴィヒ3世が、イタリアをカール3世が相続。

カール3世、イタリア王になる。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国、プロヴァンスの5国体制に。




■西暦882年

ル東フランク王ルートヴィヒ3世死亡で、東フランク王国はカール3世の元で統一。

プロヴァンス王ボソの領土がヴィエンヌ周辺のみに追い込まれる。

挿絵(By みてみん)

東フランク王国、西フランク王国の2国体制に。




■西暦884年

西フランク王カルロマン2世死亡で、西フランク王位もカール3世が兼任。

挿絵(By みてみん)

フランク王国統一。

875年から884年までの9年間が激動過ぎる。

勢力の変動が三国志初期以上。

なのに、フランク王国内で戦争になったのは、876年のアンデルナハの戦いのみ。

親父世代を見てると違うのだが、実はカロリング家って仲良いのでは?と思ってしまう。

……相続で済ましてしまうから、激動な割にダイナミックではないんだなぁ。

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