フランク王国とキリスト教
「で……修道院長、猊下は如何だった?」
ルートヴィヒはフルダ修道院長のジギハルトに尋ねる。
「相変わらずですよ。
野心に満ち、その一方で掴みどころがない。
今は西フランク王が近くに居るから、こちらの要望に耳を傾ける様子を見せませんが、夜間密かに会いに来て陛下のご機嫌を伺っていました」
「やはりなあ」
ジギハルトの答えに肯いたのはマインツ大司教のリュートベルト。
彼は東フランク王国の宰相でもある。
「教皇猊下はあのような方ですから、状況次第で我々に靡くでしょう」
「であろうな」
この場にはフルダ修道院長、マインツ大司教と聖職者が2人いる。
しかし、話している内容は神聖なものではなく、極めて世俗的な事であった。
それもそうだろう。
フランク王国における司教とは、フランク族の有力者が貰う称号だったりするからだ。
フランク王国とローマ・カトリックは互いを利用し合う関係である。
元々ローマ教会は、五大教会の中で最弱の存在であった。
コンスタンティノープル・アレクサンドリア・イェルサレム・アンティオキアと並ぶ五本山の一つがローマであるが、ローマ以外は東方に在り、コンスタンティノープルに首都を移したローマ帝国からしたら古都扱いで、キリスト教における正統と異端を決めたニケーア公会議にローマ教会は呼ばれていない。
呼ぶ必要が無いと思われていた。
それから時が流れ、今現在アレクサンドリア・イェルサレム・アンティオキアの3ヶ所はイスラム教の勢力下にある。
残った2つの本山の内、コンスタンティノープルは「地上のキリスト者の保護者」たる東ローマ皇帝のお膝元であり、ローマ教会は下部組織のような扱いであった。
一方のフランク族であるが、東西のゴート族やヴァンダル族に比べて勢力の伸張が遅かったこの部族は、前者の失敗を見ていたと言える。
フランク族を含む「ゲルマン人」と呼ばれる諸族は、ニケーア公会議で異端とされたアリウス派の信者であった。
教義や伝播の経緯的な話は置いといて、「異教よりも異端を憎む」キリスト教において、少数の支配者であるアリウス派と、多数の正統派である「元西ローマ」の民衆では折り合いが悪い。
故にフランク王国の創始者クローヴィスは、正統派に改宗した。
そして、各地で「異端や異民族」の脅威から民衆を守っていた司教たちに支持され、フランク王国を勢力を拡大していく。
クローヴィスの系統から王位を奪ったのはカロリング家と呼ばれる者たちだが、この祖とされるのもメスの司教アルヌルフとされる。
現在、脳筋っぷりで祖父を悩ませている者は、この祖の名前をつけられたのだ。
カロリング朝になると、フランク王国とローマ教会は接近していく。
東のコンスタンティノープル教会に対し、対等になりたいローマ教会に対し、フランク王国は統治を強化する為に協力を依頼した。
フランク王国において、司教は「王国に対し政治的・軍事的に責任を負う」諸侯という立場になる。
信仰的にはローマ法王に従属するものだが、世俗的にはフランク王の家臣である。
当初は「従士たちを周囲に置いておけば良く、司教は軍事に関わらなくて良い」とされたが、やがて司教もまた従軍する義務を負うものと変えられた。
そして王国では、フランク族の有力者が司教に任じられ、「戦う司祭」が増えていくのだ。
一方でフランク王国は、聖職者に諸侯の教育や政治顧問を依頼していた為、どんどんと信仰にのめり込んでいくようにもなる。
ローマ教会の方も変化していく。
宗教上の長でしかなかったものが、カロリング朝のピピン3世の寄進により国家の長ともなり、法王ではなく教皇(皇帝のようなもの)となり、一方では天上の神の第一使徒、一方では世俗において民を支配する存在となった。
そしてイスラム勢力から
「お前ら、偶像崇拝禁止とか言っていながら、聖像に祈りを捧げているよな」
と馬鹿にされた事から起きた、東ローマ帝国による聖像破壊令。
これに異を唱えたローマ教会は、東ローマ皇帝に代わる新しい自分たちの庇護者を探す。
こうしてフランク王に西ローマ皇帝の冠を授け、東ローマ帝国やコンスタンティノープル教会に対抗していった。
こういう経緯で、ローマ教会は世俗の事にどっぷりと関わっていくようになる。
ルートヴィヒと彼の配下の司教との会話で出て来た教皇とは、ヨハネス8世の事である。
彼は非常に世俗的な人物であった。
そうならざるを得なかった。
シチリア島に拠点を構えたイスラム勢力、以降はサラセン人と呼ぶが、この侵攻からローマを守らなければならない。
しかし教皇領にこれを防ぐ軍事力は無い。
故に西ローマ皇帝ことフランク王国の力を借りねばならないのだが、このフランク王国は分裂していた。
ゲルマン人の祖法に従い、フランク王国は血縁者により分割相続を行う。
敬虔王の3人の子たちは、王国を3分割した。
その中の長男・西ローマ皇帝ロタール1世は兄弟の中で最も早く855年に没す。
領土分割のヴェルダン条約から12年後の事だ。
その領土は子であるロタール2世、ロドヴィコ2世、シャルルという3兄弟に分割相続される。
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しかし8年後の863年、プロヴァンス王シャルルが後継者がいないまま18歳で死に、その領土がロタリンギア王ロタール2世とイタリア王ロドヴィコ2世によって分割。
そして7年後にはロタール2世も死んだ。
彼には庶子がいたが、相続は認められず後継者無しでロタリンギアは空位状態。
その遺領を、西フランク王シャルルと東フランク王ルートヴィヒが分割相続、露骨に言えば甥の領土を奪い取った。
これがメルセン条約と呼ばれるもので、ヨハネス8世はこれを教皇就任前に見ている。
本来、弟たちの遺領を吸収する最有力者であった西ローマ皇帝ロドヴィコ2世であるが、彼はサラセン人との戦争をローマ教会から依頼されていて、争奪戦には参加出来なかった。
とりあえず、かつてのプロヴァンス王シャルルの遺領で、ロタール2世が相続したリヨン、ヴィエンヌ辺りは回収に成功したが。
サラセン人問題を抱えて、狡猾な叔父たちに対して出来たのはこの程度である。
このサラセン人との戦争は、今も続いていてローマ教会と元フランク王国諸国を悩ませていた。
ロドヴィコ2世は、サラセン人との戦争において東ローマ帝国と手を組んでいる。
イタリア半島には東ローマ帝国領も点在していて、協力せざるを得ない。
だがこれがヨハネス8世には面白くない。
そのロドヴィコ2世が死ぬ際、意中の次期西ローマ皇帝は、現東フランク王ルートヴィヒであり、ルートヴィヒが長男のカールマンを推していた為、ほぼそれに決まっていた。
ロドヴィコ2世に不満を持っていた教皇は、これを覆す。
ルートヴィヒが病気で動けなかった機を見逃さなかった西フランク王シャルルは、即座にロドヴィコ2世のイタリア王国を相続という名の併合をした。
ヨハネス8世は、このシャルル2世に西ローマ皇帝位を授けたのだった。
だが、勢力の均衡の中で生きている教皇はしたたかである。
この戴冠を、政敵でもあるポルト・サンタ・ルフィーナ大司教のアンセギスを通じて行わせたのだ。
本人は「これは不本意な事である」という態度を示している、少なくとも東フランク王国に対しては。
話はコブレンツに在るルートヴィヒの宮廷に戻る。
「よし、マインツ大司教、かねてよりの計画通り王国の政治を任せる。
わしは軍を率いて、西フランクを攻める。
西フランクは不安定であるから、愚弟は即座に国に戻って防戦せざるを得まい。
その隙にカールマンをイタリアに送り、王国領を奪い、ローマに圧をかけさせよう。
そうすれば、皇帝の位もカールマンに挿げ替えるであろうよ、あの教皇は」
ルートヴィヒの言に、マインツ大司教リュートベルトは頷く。
「あと、アルヌルフも父親に随伴させよう。
孫もフランクの戦士。
軍営の中に入れ、兵士を指揮させても良いだろう」
「……大丈夫でしょうか?
かなり短絡的なお人柄と聞いておりますが……」
リュートベルトが不安を口にするが
「まあ、その時の為に卿がいるのだ。
な! フルダ修道院長」
いきなり猛獣の制御を依頼されたフルダ修道院長ジギハルト。
確かにイタリア侵攻に当たり、一度教皇と交渉を行った彼が随伴するのは理にかなっている。
『王はとんでも事を命じられる。
猛獣は一頭じゃないでしょうに。
孫殿はともかく、カールマン殿下まで暴走されたら、私では手に負えませんぞ』
内心の文句を飲み込み、ジギハルトも承知のポーズを取る。
斯くして東フランク王国は動き始めた。
2話にして主人公アルヌルフの影が薄くなっていますが、この辺しっかり説明回作っておかないと話が分からなくなるので、しばらくご容赦下さい。
日本の戦国時代や三国志の時代と比べ、簡単な説明で済ますのが難しいです。
本格的な主人公の活躍は、禿げが死んだ後からになります。




