波乱の882年(後編)~ローマの凶日~
西暦882年12月16日、その日ローマ教皇ヨハネス8世は朝のミサを終えると、軽めの食事をして午睡に入っていた。
目が覚めると、自分の身体の異変を感じる。
手足が痺れる。
眩暈がして立っていられない。
体から力が抜ける。
ヨハネス8世は、それに心当たりがあった。
急ぎ彼は食事を吐き戻す。
毒は大分体に吸収されていたが、それでも吐かないよりはマシろう。
教皇の間に、胃酸の匂いが充満した。
「誰か、水を……水を持て」
教皇のその声に対し、現れたのは救い手ではなかった。
「これはこれは教皇猊下、如何なされました?」
「水を……。
どうやら一服盛られたようじゃ……」
「流石にお気づきになりましたか、教皇猊下。
何度も使ったお薬ですからね。
よくご存知なようで」
そこには知った顔の助祭と、居てはならない兵士たちが立っていた。
「どういう事だ?」
「簡単な事です。
貴方に恨みを持つ者は、両手で数えても足りません。
御自覚あるでしょう?」
ヨハネス8世は多くの人たちを破門して、人生を狂わせて来た。
宗教的権威を利用して、葬ったり、失脚させた王侯も多い。
失脚だけでなく、強制的に神の御許に送りつけた者すらいる。
特にこのローマでは、ヨハネス8世は政敵に囲まれていた。
記録に残さない犠牲者は多々。
証拠こそ無いが、彼の仕業と信じる者も多く、恐れられ、かつ恨まれていた。
それでも彼は、神の寵愛を受けた自分に危害が加えられると、夢にも思っていない。
彼は自分を神にも等しい、地上で至高の存在、崇められるべきと信じ切っていたのだ。
「こんな事をして、ただで済むと思っているのか?
神罰が当たろうぞ」
「全て覚悟の上ですよ、猊下。
もうそんな躊躇は過ぎ去ったのです」
「むう……この悪に惑わされた弱き者よ。
余は死なぬ、死なぬぞ……」
這って部屋の外に逃げようとするヨハネス8世に鈍器が振り下ろされた。
「公の仇!
お前によって目を潰されたセルジオ様の無念、思い知れ!」
それはかつて、自分の言う事を聞かなかったから、盲目にして晒したナポリ公の縁者であろうか。
『愚かな……。
余は囁いただけだ。
やったのは、ナポリ公の弟で、今はその椅子に座っておるのじゃぞ……』
遠くなる意識の中、ヨハネス8世はそんな事を思っていた。
他にも、誰某の仇、破門された苦しみを知れ、等と罵声が聞こえる。
罵声と共に叩きつけられる鈍器。
それらはかつて、フランク王国のカール・マルテルがイスラム教徒を打ち破った時に使用された武器に似ていた。
襲撃者の興奮が醒めた頃、そこには頭を潰され、二度と動く事のない教皇の亡骸が転がっていた。
教皇ヨハネス8世、暗殺される。
急ぎ教皇選出が開かれ、元助祭長だったマリヌスが教皇に選ばれた。
マリヌスは司教として教区に居たのだが、すぐに駆けつけて来て教皇に就任する。
そして、ヨハネス8世殺害の犯人捜しが行われる。
誰かが
「教皇の間の近くで、前のポルト大司教を見た」
という証言をした為、アンセギスも事情聴取を受ける。
しかし、新教皇マリヌス1世は
「アンセギス殿は無関係である」
と宣言し、その他にも嫌疑を掛けられたローマ貴族たちも全て無罪とされた。
「宮殿内にいた誰かが、ヨハネス8世を手にかけた。
それ以上は分からないし、もう知る必要もない」
こうしてヨハネス8世暗殺事件は闇に葬られたのである。
「このような仕儀になりましたよ、アンセギス様」
「手間を掛けさせて済まない、マリヌス殿」
2人は人が近づかぬ部屋で密談をしていた。
助祭だった時マリヌスは、ヨハネス8世によって度々西フランク王国への使者とされた。
かつて西フランク王シャルル2世に皇帝の冠を授けたのはアンセギスである。
西フランクという縁で、いつしかこの2人は手を組んでいた。
そしてアンセギスの人脈を使い、教区に居てローマにその時居なかったマリヌスが教皇になるよう多数派工作がされ、マリヌスも戸惑う事無く、即座に教皇となったのだ。
アンセギスから見て、ヨハネス8世は余りに権力を弄び過ぎた。
信仰の為にも、このような者は排除せねばならない。
自分を破門した苦しみよりも、信仰上の義憤が先に立った、彼自身がそう思っている。
一方、ヨハネス8世の側近だったマリヌスは、もう着いていけないと感じた。
神の裁きを受けるだろう、敵に対してそう言って笑う教皇を、次第に恐ろしく感じていた。
必要とあれば、味方の王ですらあっさり切り捨てる。
周囲の者は、全てこの人の駒であり、自分の思い通りに動かなかったら捨てられる。
そしてこの人には、破門という強力な武器があった。
こんな恐ろしい人にそんな武器を持たせていてはいけない。
立場が違う2人は、アンセギスからの呼び掛けで、外国という教皇の目の届きにくい場所で連絡を取り合っていた。
「ヨハネス8世の手は汚れ過ぎた。
誰かが止めてやる必要があったのよ」
「しかし、それは我々には出来ませんでした。
アンセギス様が手を下してくれたので、我々としては助かりましたよ」
「まあ、あのような事を企てた以上、私もろくな死に方はしないだろう。
私の手は汚れてしまった」
「汚れた手は見せねば良いのです。
さて、来年早々には貴方をポルト大司教の座に復帰させます。
どうか、私を支えて下さい」
「それこそ神の思し召しに従うまでです。
ですが、猊下、貴方の友誼を私は決して忘れないでしょう」
「ローマ教皇、暗殺される」
この報は、ローマ教会に帰依している東西フランク王国を駆け抜けた。
これまで権力者に弾圧され、殉教した教皇は存在したが、暗殺という形で世を去った教皇はヨハネス8世が最初である。
神の第一使徒がそのような死を迎えた事に、キリスト教社会は動揺する。
カール3世は
「そうか」
と興味なさげに聞いていたが、実は一番影響を受けるのはこの人である。
ヨハネス8世は
「我々で支えてやらねば」
と皇帝について語っていた。
つまりは、聖職者を側近として置き、その言によって皇帝を動かす傀儡政治を目論んでいた。
そして、この傀儡に権力を集中させる為、分裂した東フランク王国が統一されるよう、暗躍していたのだ。
そういう大方針を持って動かす者が消滅した。
皇帝は再び、何の意向も持たない、無気力でやる気のない人物に戻ってしまうだろう。
当の本人は、自分を皇帝という面倒臭い地位に祭り上げ、あれこれ言って来るうるさい人が居なくなった、程度の認識でいるのだが。
西フランク王国では、単独国王となったカルロマン2世が溜息を吐いている。
彼も口には出さないものの、弟ルイ3世の死には疑問を感じていた。
狩猟中の事故なんて、どうとでも口裏を合わせられる死因ではないか。
だが、聖職者がそう言う以上、おかしな事は口に出来なかった。
その黒幕とも言える教皇が死亡したのは、今後は彼に降りかかって来る陰謀も少なくなるだろうか。
シャルル2世の死から5年、父・ルイ2世の死から3年、西フランクの王は余りにも早く代わり過ぎている。
「今年始めには東フランクのルートヴィヒ3世が死んだ。
今年夏には弟が死んだ。
そして今年の末にローマ教皇が死んだ。
神の意思であるなら、余りにも急過ぎて着いていくのがやっとです」
そうカルロマンは天に向かって愚痴を零している。
そしてアルヌルフである。
彼はパンノニアの野営では寒いからカランタニアに戻って来ているのだが、周囲の人間からは苦情の嵐である。
それを聞き流して、彼は教皇の死について考える。
あの時、アンセギスという男は
「あれも神ならぬ、単なる人。
それを思い知らせてやりますよ。
この身が地獄に堕ちるとしても」
と言っていた。
それがこれだったのだ。
吐いた言葉通りに行動したのだ。
あの男は信用出来るだろう。
「良かったよ」
アルヌルフは独り言を吐く。
「何がですか? 王子」
ルイトポルドがそう聞くと、笑うながら
「俺はキリスト教を捨てずに済んだ。
父上を亡き者にするような宗教、捨ててイスラム教にでも改宗してやろうかと、密かに思っていてな。
だが、中には信用出来る者もいるようだ。
俺は神への信仰を捨てない事にする」
ルイトポルドは周囲を見渡し、
「そのような恐ろしい事は言ってはなりませぬ。
他人に聞かれては、それこそ貴方が暗殺されるかもしれませんぞ」
と諫める。
「戯言だ、怒るな祖父様」
「怒りますよ!
この世には言ってはならぬ言葉もあるのです。
人は聞いてなくとも、天は聞いておりましょう。
心から反省し、懺悔なさって下さい。
さもないと……」
ルイトポルドは色々言って来ているが、アルヌルフはその言葉も聞き流し、
「これで不自然なカロリング家の者の死が止まれば良い。
禿げは嫌いだったが、その孫には何の敵意も無い。
せめてそいつだけでも長生きすれば良いな。
それにしても、カロリング家の男も、随分と少なくなったものだ」
そう嘆息していたが、歴史の流れは止まらない。
アルヌルフはそれを思い知る事になるのだった。
教皇暗殺とか、あったんですねえ。
最近のヨハネ・パウロ2世暗殺未遂事件は知ってたんですが。
調べたら、9〜10世紀に教皇暗殺は集中してました。
つまり、本作の時代です。




