時代は変わる
フランク族……というかゲルマン民族は分割相続が基本である。
これはモンゴル帝国等遊牧民もそうだし、日本でも武士が行っていた。
この相続は、無限に土地が拡がっていて、相続した地を元手に更に拡大が出来るなら、子や孫の代でも同じ相続が出来る。
しかし、拡大が出来ないとなると、代を重ねる毎に零細化していく、所謂「田分け=戯け」となってしまうのだ。
フランク王国でもこの危険性は理解していた。
フランク王国は、分割相続による国家分裂と、統一戦争の繰り返しの歴史だったからである。
ゲルマン民族の分割相続が大きな問題にならなかったのは、彼等が一夫一妻の社会だったからである。
一人の女性が産める子の人数は、そう多くはない。
これにキリスト教の普及が拍車をかける。
元々質実剛健で、「男子が二十歳を過ぎる前に童貞を失うのは軟弱」とされた社会に、禁欲的な宗教が入って来ると、子の数は更に少なくなる。
また、当時の乳幼児死亡率を考えると、多産しても成長した男子は一人なんて事もあり得る。
それでも三兄弟、四兄弟が生き残った場合、その子たちに分割相続をさせた後、従兄弟姉妹同士で結婚をさせて結局領土を集約させる等の策を取っていた。
ゲルマン民族の多くの国家は、東ローマ帝国やイスラム帝国に滅ぼされ、大きな問題を残す前に消え去る。
フランク王国だけが、この分割相続による悲惨な戦乱を経験する事になった。
現在のカロリング家の前、メロヴィング家によりフランク王国では、王国は四分割された。
そして、一人の王が亡くなると、残った兄弟が手を組み、亡くなった王の子たちを暗殺しまくって相続人無しとし、自分たちがその地を相続した。
一旦この状態になると、兄弟ですら競争相手と変わる。
戦争を起こす、暗殺する、相手を亡き者にして自分がその地を奪おうとした。
兄弟や、代替りして伯父叔父・甥の間でやがて勝利者が生まれる。
だが統一したその王も、また自分の子たちに対して分割相続をして、同じ事を繰り返した。
やがて生後四ヶ月という例もあるように、幼い子が王になる。
最初はその母親や祖母が実権を握るが、次第に宮宰たちが力を持つようになる。
カロリング家はそうして力を持った宮宰から王になった家である。
カロリング家においても、分割相続は維持された。
彼等はゲルマン民族の伝統を頑なに守り続けたのだ。
だが、やはり分割相続は国を弱体化させる。
「敬虔王」と呼ばれたルートヴィヒ1世は、「帝国整序令」という方針を打ち出した。
「分割相続はさせるけど、一代限りで、死後は王家に領土を返還する」
というもので、当然嫡男以外の男子や、この法で相続対象外とされた者は不満を持つ。
そこに、敬虔王の後妻が子を産んだ。
敬虔王はこの法が出た後に、新たに生まれた子・シャルルも相続対象に加えた為に、子たちが揃って反旗を翻してしまう。
結果、帝国整序令は無効となり、フランク王国は数度の分割及び相続し直しの結果、現在の形になっていた。
この時、揉め事のきっかけとなった赤子シャルルが、現在の西フランク王にして西ローマ皇帝のシャルル2世である。
彼はこれまでの歴史通り、フランク王国の再統一を目指していた。
口にはしないし、父の遺言もあって表面上大人しくしているが、東フランクのカールマン、ルートヴィヒ3世にもその感情はある。
末弟のカールは知らん。
そして、現在相続人無しで浮いているイタリア王国を相続しようと、シャルル2世とカールマンが争い始めたのだ。
シャルル2世は悩んでいた。
救援に来た時は喜んで抱擁してくれたローマ教皇は、カールマンがやって来ると知ると音沙汰無くなってしまう。
西フランク軍は、昨年のアンデルナハの戦いで壊滅したばかりだ。
どうにか貴族に特権を認める事で立て直しは出来たが、それでもかつてに比べて少ない。
そこに、勝って勢いに乗るバイエルン王カールマンが大軍を率いて乗り込んで来る。
……もっとも、実際にはカールマンも資金不足な為、迂回もせずに最短距離でアルプス山脈を突っ切ってるのだが。
だが、この脳筋丸出しな行為も二回目であるから、シャルルにはカールマンの事情は分からない。
現在のように情報収集能力が高い訳でもないし、兵法という面で孫子の国どころか、古代ローマからは大きく退化して及ばない中世ヨーロッパでは、情報もあやふやにしか伝わらないし、時差も相当にある。
実際、カールマンがアルプスを突破していると報告があった時、既にバイエルン軍は北イタリアに侵入していたのだ。
……敵味方問わず関係者が国の中枢に入り込んでいて、詳細な情報を貰えるし、情報を伝える使者を捕らえる事も出来ないローマ教会の情報力だけが異常なのである。
シャルルは悩み、義兄のイタリア総督ボソに相談する。
既にボソの動向に何かおかしな事があると感じていたシャルルは、ボソの妹で先日子を産んだばかりの妻・リチルドもこの戦場に連れて来ていた。
ではあるが、この場で最も北イタリアの事に詳しいのはこの義兄であり、同格の立場で話せる者も他にいない。
ボソは
「ここは私に任せて、陛下は国に戻るべきでしょう。
恐らく、バイエルン王の狙いは陛下自身。
陛下を倒せば、イタリア王位もローマ皇帝位も手に入りますゆえ。
陛下がお退きになれば、カールマンも追撃は出来ますまい」
そう答える。
「何故、追撃しないと断言出来る?」
と疑問を呈するシャルルに、ボソは
「教皇猊下がお許しにならないからです」
と返す。
カールマンの大義名分は「先代ロドヴィコ2世は、自分を相続人に望んでいた」であり、決して「西フランク王国を狙う」という名分は有していない。
それでも西フランク王国を狙った場合、教皇による破門が行われる。
一応、大義名分の無い戦争は忌むべきものであり、それ故にフランク王国の内紛は全て「相続」を理由としていた。
シャルルは頷くも、もう一つ疑問がある。
「ローマ皇帝位はどうなる?
私が帰国したら、教皇は呆れてバイエルン王の方をローマ皇帝に据えるのではないか?」
シャルル2世の王位の拠り所は、今や権威しかない。
貴族の特権を拡大させながら、どうにか騙し騙しイタリア遠征をしたのは、権威の源「ローマ皇帝」であり続ける為だ。
それすら失ったら、彼は貴族の中で何も出来ない形ばかりの存在になりかねない。
ボソは答える。
「負けてしまえば、それこそ皇帝位は失われます。
兵を失う前に帰国してしまえば、それ以上手出し出来ません。
第一、陛下がこの地まで遠征されたのは、サラセン人を撃退する為です。
彼等が帰った以上、目的はもう果たされました。
財貨なり権威なりを得る為に待っているようですが、待った挙句に脳筋に攻められて全て失ったら何の意味もありません」
シャルルは決断した。
戦争目的は果たしたとして、収入は捨てて急ぎ帰国する。
こうしてカールマンとの戦いは避けられたのだが……。
訃報がヨハネス8世やカールマンの元に届く。
西フランク王シャルル2世が帰国途中、モン・スニの山塊の麓、ブリオス村で死亡したというのだ。
西暦877年10月6日の事であった。
現代の医学では、彼の死因は胸膜炎と考えられる。
だが、当時の知識ではよく分からない。
そして噂が飛んだ。
曰く「ユダヤ人の侍医ゼデキヤが、王妃リチルドとの共謀で王を毒殺した」という。
リチルドには、シャルルの前妻・エルメントルーデの死にも関わっているのではないか、という噂もあったからだ。
「父上、どう思われます?」
父についてアルプスを越えて北イタリアでも軍を率いているアルヌルフは、この事についてカールマンに問う。
脳筋なアルヌルフでも、フランク王国の歴史は知っていた。
それが暗殺、毒殺、不審死、事故死に彩られている事も。
カールマンは首を横に振る。
「分からん。
暗殺だとしても、あの状態で西フランク王を殺す事に何の意味があるのか分からん。
生かしておいて、ローマ皇帝位を手放さない方が、俺に対しても国に対しても意味のある事だからな。
だから、分からんものは分からんとして、我々は次の行動に移ろう!」
「ですな……」
「まずはイタリア王を相続する事だ。
俺にとって幸いな事に、現在のイタリア王たる禿げ叔父が死んだ。
元々の遺言を持ち出せば、俺がイタリア王だ!」
脳筋アルヌルフだが、何か嫌な予感がしてならない。
脳筋は直感だけは鋭い。
彼はこのイタリア王というものが、何かのフラグのように感じているが、それを言語化出来ずにいた。
「しかし、噂というのは真実の一端を掠めるものじゃのお」
ローマ教皇ヨハネス8世は、帰り支度をしているボソと話している。
「西フランク王が一々遠征するのは無駄がある。
それ故、貴卿をプロヴァンス王とし、余の僕として独立させる。
その陰謀に、貴卿の妹、王妃を加担させていたのだが、それが動き出す前に西フランク王が神に召されるとはな……。
まさか、噂は真実ではあるまいな?」
「いいえ、猊下。
本当に何もしていません。
ですが、非常に私にとって都合よくなった事は事実でございます」
「ふむ……。
まあ、噂が事実であろうが、嘘であろうがどちらでも良い。
これからは余の為に働け」
ヨハネス8世は、先々代イタリア王にして西ローマ皇帝ロドヴィコ2世の娘・エルメンガルドをボソに会わせていた。
2人は結婚し、同時にボソもまたイタリア王の継承権を得るに至る。
しかも、女系であるがシャルル2世の子やルートヴィヒ2世の子たちよりも正統性のある「ロタール1世の系譜」に連なった。
アルヌルフが直感したように、この北イタリアからローマに掛けては、戦争上手では対応が難しい陰謀や政争の地なのであった。
明日からは1日1話とします。




