最果ての異界追放世界
時空間技術の発達とゲート粒子の発見、及び素粒子操作技術の開発により、異世界への移動が可能となって千年が経過したというが、はじめ”異界転移”は流罪の役割を期待されていたらしい。
だが時空間技術の進展によって永劫の生を実現してしまった人類にとって、退屈な現世から離脱し未知の異界で冒険に勤しむのはかなり魅力的なことにも見えていた。
時を操ることで老いを克服し、食糧問題は解決され、したがって労働生産の必要がなくなり、旧時代のように嫌々働く必要もなくなったこの時代においては、何もやることのない退屈な一生をどうするのかが目下の問題となっており、やりたい趣味をぜんぶやって自ら死を選ぶ者も少なくない。
旧時代の人間たちからすれば贅沢な話にも見えそうだが、やはり嫌々働いたり学校に行ったりすることが総合的には人生のスパイスになったり、少なくとも暇つぶしになっていたりすることはある。この時代の人間はそうした人生を歩むことができない。
そして、全人類がすべてを意のままにできるからといって、では全人類の個々人すべてが望みどおりの人生を生きられるかといえば、それはまた別の話だった。人間同士、どの時代も競争はするし、したがって社会的地位の高い人間もまた限られ、脱落者は当然のように生まれていく。社会的地位の高みに上ることができたものは称賛され、脱落者は一様に無能とさげすまれるのも、旧時代と変わらない。
このような背景から政府は自死を違法とはみなさず、むしろ無能者には推奨するくらいだったが、ならばわざわざ自死をするくらいだったら流罪であっても異界転移してみたい、と望む物好きな連中が発生した。これに呆れた全時空中央政府の首領が乱暴にも大衆娯楽として市場を解き放ったのが、現在一応は流行中の異界転移という趣味である。
「俺の人生もそろっと、潮時かな」
ぼそりと呟く彼は、オミという。その名は、千年前に発見されたゲート粒子のひとつ、O粒子の偉大さにあやかって付けられたらしいが、当の彼は時空間技術に興味はなかった。女性のなかには自身の身体的時間を17歳に固定して真実永遠の17歳になる者も少なくないが、彼は男だし美容に興味もない。よって旧時代の人間のように毎日1年ずつ年をとっていく。
それで今年20歳になるが、20年生きてもまだ一生の趣味を見つけることができないでいた。この世界では、それは辛いこととされていた。なにせ無能者には自死が推奨されているのだ。いつ誰かに殺されてもおかしくはないし、それが“推奨されている自死を、俺がしてやった”として、殺人罪が軽くなったりするのだから、文字通り無能者は生きにくい社会だった。
同い年の友人だったカールはといえば、何もすることのない毎日から抜け出すべく一念発起し、流行の異界転移に手を出し、一度この世を去った。しかし1年足らずで”生還者”として時を超えて現世に舞い戻り、『世界を救ってきたんだ!』と輝かしい笑顔を見せびらかしてきた。
結局、カールはそれで満足して『思い残すことは何もない』と呟きながら安楽死してまた世を去っていったが、そんな友人の充実した人生の完結を目の当たりにして、オミは取り残された寂しさと悔しさとを噛み締めた。
異世界を救って生還してきたカールとは、ついこの間までは一生の趣味を見つけられない残念な人間たちの仲間だった。
そのはずだったのだ。
永劫の人生をとにかく無駄に過ごさないことがこの時代の人類における最高善であり、一生の趣味を見出して永劫を楽しく生きるか、あるいは一生の目標を設定してそれを見事に解決し、自ら永劫の生を綺麗さっぱり断ち切るか。この2つのモデルが理想の人生と言われている。
逆に、一生の趣味と出会えず、かといって何の目標も設定できない人間は蔑まれ、ただ生きているだけの無能者と馬鹿にされる。
オミはそんな社会の理想に常日頃から疑問をもっているが、何もしたいことがなく、それゆえに何事も果たせない身の上ではだれにも話を聞いてもらえない。
「カール、どうして俺を取り残していったんだよ。この、裏切り者」
別れの式では口にできなかった言葉が、今になって溢れてきた。
そんなオミが、理想を叶えた友人の背中を追うように異界転移に手を出そうと考えるようになるまで、そうそう時間はかからなかった。
友人が成功したものを真似る。いつの時代でも自然と行われることだ。
地球の時間のうちマントルの一部の時間、そして大気の一部の時間を停止しているから、地震も津波も大嵐もこの時代には存在しない。天気予報が晴れなら、この世界では絶対にそれが守られる。
今や人類は自然を制圧している。それは、永遠の安寧を望む人類の悲願であり、それが実現されたこの時代は時々、“人類史最善世代”と言われる。
オミも歴史の授業で習ったことがある。かつて大災害が発生し、自然によって滅ぼさる寸前まで追い詰められた、その悲劇を乗り越えるために過去の人々は時空間技術の発展に命を捧げてきたのだと。
この日は午前は晴れ、午後5時から雨になる予報だから、オミは午前中から出かけなければならなかった。異界転移の儀式は通例として晴天の日に行われるのだ。
学生向け集合住宅に卒業後もそのまま住んでいるオミは、学生身分を示す白いローブを纏って部屋から出ると、階段を下って地面に降り立つ。そのまま歩いて時空ゲートポートまで行き、ポートの短距離転移装置を利用して世界最大のゲートポート、通称“天空回廊”に達する。
天空回廊はその名の通り高度100キロメートルの位置に定位している巨大な天空建築で、大掛かりなゲートポートといった風情の場所だ。飛行機でやってくるのは物好きだけで、普通は時空間転移装置を使って瞬時に到達する。
ちなみに天空に定位している仕掛けは時空間技術で、天空回廊の周辺の時間は止まっているらしい。だから柱もなく空間に固定されているのだが、おかげで飛行機は停止された時間を乗り越えるために結局は時空移動をしなければならず、天空回廊行きの飛行機のチケットは通常の3倍はするらしい。
文字通り空に浮いている天空回廊には常に人だかりができている。複数のゲートが同時運行されているここは、さながらこの時代の空港といったところだ。天空回廊からはあらゆる場所、あらゆる時間に飛ぶことができる。
「だから嫌なんだよなココ……」
ゲートに用事があるということは、人生に目的があるということでもある。何の目的も見つけられないオミとはまったく逆の人種が、ここには集まってくるというわけだ。
ため息を押し殺して天空回廊の中をすすめば、学生時代に見知った顔がちらほら見える。
「よう、オミ! 能無ししてるって聞いたけど、外にでてきたんだな」
「なんだよソレ。まあ、事実だけど」
同じ教授に師事した男子だった。かつては同じ白いローブを纏って談笑したこともあったが、今では会社員身分を示すダークブルーのローブを羽織っている。
「何か見つかったなら良かったぜ。カールに先越されてからのお前、見てらんなかったからな」
「俺は俺、あいつは、あいつだ。先越されるとか、置いてかれるとか、ないから今の時代」
「ま、人生楽しめよ。せっかくの人類史最善世代だ」
目的も趣味も見出せない人間は見下される。わかってはいたが、学業をともにしたかつての仲間からそういう態度をとられると、実際堪える。
「だからココは嫌なんだ」
しかし、一生見下されつづけるわけにはいかない。オミは回廊の一番奥に鎮座する転移ゲートに向かって歩いた。そここそはひときわ大きな人だかりを形成する、異界転移ゲートだ。
「はあっ。コレか」
カールが自慢げに話をしていた。天空回廊の奥、一番人がいるところ……思えば、カールが転移したときが流行の最盛期だったか。異界転移初の生還者が天空回廊に降り立ち、冒険譚を周囲の人間たちに話して聞かせ、それがたちまち小説・漫画・アニメ・舞台・音楽ーーあらゆる創作物になり、その生還者は一躍時の人になった。
異界転移の生還者は有名人になれる。あるいは、一角の人物に成長できるだけのものを異界転移でなら掴める。かくして異界転移ブームが幕を開け、若者たちはこぞって冒険者になり、喜んでこの世を去っていった。それは300年ほどつづいて、つい最近ようやくその生還者の少なさが指摘されるようになって、ブームはなりを潜めた。
当たり前のことが最近になってやっと指摘され始めたということは、十中八九、ブームには中央政府の思惑が絡んでいるということだが、オミは政治に興味はないので深くは調べていない。
ただひとついえることは、目的もなくただ生きるのが無能とされるこの時代においては、たとえ生還者になれずとも異界転移で世を去るのは悪い選択肢とは見なされないから、人口の管理を行う中央政府にとって異界転移は都合がいいということだけだ。
同じく若者であるオミには、世を去る選択肢が用意されていること自体が甚だ疑問
だったが。
「これで俺もこの世界とおさらば、なのか?」
呟いてみると、胸中の疑問がさらに膨れ上がる。
のうのうと生きるより、安楽死で自らすすんで世を去ることが尊重される、いま流行りのこの思想は狂っているんじゃないか……大きな声では言えないし、見下されている身分では笑われて終わりだろうが、オミはこの疑問が見当はずれのものではないと信じていた。
この世界、この時代に生を受けたことを、オミは悪く思っていない。むしろかなり良いことだと思っている。時間旅行者が自慢げに話す飢餓と天災の話や、異界転移生還者から聞く魔王がすべてを支配する暗黒の世界の話を知れば、飢えも災害も魔王もいない現世の繁栄と安寧がありがたいものだと思えてくる。
どうしてこんなありがたい世界で早死にすることが得とされているのかさっぱりわからないし、この時代に生まれたありがたみをかみしめながらただ生きることが推奨されず、必ず何事かを為さなければ一人前とはみなされない風潮があるのは、やはり疑問でしかなかった。
「でも、カールと俺は……」
疑問の世界からオミを立ち上がらせたのは、結局は友の姿だった。のうのうと何の目的もなく生きるだけの自分と、何事かを成し遂げて世を去った彼。その2つの生き様を比べれば、ただ生きるだけの奴は無能者と断定する思想も正しいと思えてしまう。何も果たせない人生なんて恥ずかしいと言われるのも当然だと思えてしまう。それほどまでにカールの死に様は晴れ晴れとしていた。
だからオミは、異界転移の儀式に参列する。今日ここでこの世界から離れて、異界で何かを果たすための旅に出る。
そうして、幾重にもわたる逡巡を乗り越えて参列したにも関わらず、何故か転移をさせてもらえなかった。
意味がわからない。
「なんだコイツ……」
「何よ!? 聞こえてるわよ! コイツじゃないわ! 巫女よ私は!」
「そうかよ。なら、仕事してくれ」
結論から言えばハズレを引いたのだった。
異界転移の儀式は約800年前からの風習として時の巫女が執り行うことになっている。時の神の名の下に現世の若人をどうか安全に送りたまえ、というやつだ。
もちろん異界転移は時空間技術の粋を極めたゲートで行われるから、時の神なんてものは存在しないのだが、昔から巫女が立ち会うことになっている。
その巫女が異界転移を妨害してくるなど想像もできないことだ。風習から形式的に立ち合っているだけの奴には何の権限もないはずだった。
オミは知らずに発していた呟きをなぜか怒声で返され呆然と立ち尽くしたが、ともに儀式に参列していた者たちは怒気もあらわに猛然と叫び出した。当たり前のことだ。
「何が巫女だ! 早くやれ!」
「やらないならさ、形だけの儀式なんてどうでもいい仕事、辞めちまえよ!」
「な! どうでも良くなんてない! 私はまっとうなことしか言ってないわ! 異界転移なんて狂ってるって言ってんの! そこんとこ、ちゃんと考えたことあんの!?」
「何言ってんだってだから! お前がいうことじゃねえだろそれ!」
参列者たちはしだいに怒るのも馬鹿馬鹿しいというように、呆れのため息を吐き出すと、巫女に冷たい目を向けて歩いていく。もちろん行き先は転移ゲートだ。
巫女は本当に添えものに過ぎない。もちろん彼女が転移ゲートを操作するわけでもない。ゲートはプログラムによって自動制御されており、1時間に1回、天候が安定しているタイミングで開放され、その間は自由に入れる。
儀式など形式に過ぎず、職務放棄する巫女など無視されて当然なのだ。
「ちょっと! まぁ、そんなに行きたいなら好きにしたらいいわ。『旅立つあなたたちに、どうか時の神のご加護を』」
参列していた4、50人の若者たちは全員巫女を無視した。残りの5、6人は無視できなかった人間たちで、困惑しながら立ち去る者もいれば、互いに顔を見合わせて何故かその場で友だちになって語らいながら帰る者たちもいた。
オミはひとり取り残された。巫女を無視する一団に入るべきだとは思っていたのだが、どうにも足が動かなかったのだ。
『異界転移なんて狂ってる』ーー巫女の言葉が頭から離れなかった。
しばらくその場に立ち尽くして、彼女の言葉の意図を尋ねたいと思った。他人に話しかけるなんてどうかしてると自分でも思っているが、オミはなぜか高揚していた。今なら何でもできる気がした。
『異界転移なんて狂ってる』――この世界の思想は狂っている――常日頃から自分が思っていることと同じことを、彼女は口にしている。そう思えて、無性に嬉しくなっていた。
「あの、巫女さん。さっきはごめん。ちょっと気になることがあって、それ聞いていいかな」
「あーまたやっちゃった私。もうクビねこれは」
しかし巫女はといえば、開放中のゲートを呆然と見つめながら、ボソボソ小声で呪詛を唱えていた。もちろんオミにはどうだっていいことだった。
「あの、すみませんって」
巫女の視界に回り込んでから声をかけると、瞬時に巫女の顔が変容した。驚愕に目が見開かれるや、錯乱したように声を荒げはじめる。
「ちょッ! あなたまだいたの?! 独り言を盗み聞き? 趣味最悪!」
「よく聞こえてないけど、聞いてたとして、それはそっちが勝手に垂れ流してんだろ。それを盗み聞きなんて言われてもな」
「そうだけど! そりゃそうだけど! 誰もいないと思ったの。私の、周りになんか、誰も……」
巫女はようやく落ち着いたのか、寂しげな表情でうつむいた。
それでようやく彼女の動きが止まったのをみて、オミは思った。
(これでやっと話せる)
かくしてオミは本題を切り出した。
「そんなことよりさ、さっきの言葉、アレ本気だったの? 異界転移なんて、狂ってるって言葉」
「そんなこと?! 私としてはけっこう本音だったんですけど! 初めて他人に悩み漏らした感じだったんですけど!?」
「なにそれ。そのノリにはついていけないけど。ま、いいか。あのさ、俺はさっきの言葉のことが聞きたいんだよ。異界転移は狂ってるって思ってるのに、それでも巫女を仕事にしてるってことでいい?」
「え、あ、そのことね。えぇ、そっちも本音よ。異界転移もそうだけどね、この世界全体がなんだか狂ってるのよ。時間巻き戻して永遠に生きられるって言いながら、実際には早死にが推奨されてるのも相当おかしいわ」
「ならおかしいと思ってるのに巫女やってんのは、よくないんじゃないか」
言いながら、オミは自分で自分を嫌いになっていた。詰問したいわけではないし、ましてや説教を垂れたいわけでもなかった。ただ、この世界の一般的な考えに反するような話題を、どう切り出せばいいのかわからなかった。それで遠回りになってしまう。一応相手は巫女であり、公職であり、つまりは政府の手の者だという懸念が変な回り道をさせる。彼女にはたぶんそんな心配はないと、根拠はないがそう感じられるのに。
どうして俺はうまく気を回せないんだろう……オミは自己嫌悪を抑え込んで会話をつづけた。
巫女も巫女で本当は真面目な性分なのか、ちゃんと答えてしまうおかげで話題を変えることもできず、余計に会話がオミの期待通りにならなかった。
「ええ、そうね。よくないわ。そんなんだから失敗つづきで、だから今日のことでクレームがつけば、私はもうクビ確定ね。ちょっと悔しいけどまぁクビになっても生きるだけなら全然困らない世の中なわけだし、別に良いかなって。一応ね、これでも私だって最初は憧れがあって。それで巫女になったんだけどね」
「憧れ?」
「うん。神様に会えるかもって、今じゃ馬鹿みたいな憧れ」
巫女は卑屈な笑みを浮かべ、またゲートをみやった。朱色の瞳が細められ、茶色の髪を結い上げる矢形の銀の髪留めが、ゲートから漏れ出る虹色の燐光を反射して輝いた。
「実際には神様なんていない。あのデッカい装置があっただけ。勤務初日に、私は自分が巫女になりたかった理由を打ち砕かれたわ。ま、働くってそういうことよね」
「俺は働いたことがないからわからないけど、そういうものなのか」
「あなたも経験あるんじゃない? ひとつの物事に深くハマると、その現実を知っちゃって前とは印象が変わるってこと」
「そういえば、あった気もするけど」
オミはチーム対戦型の量子コンピューターゲームにハマっていたとき、以前はそれが相手チームのプレイヤーたちと高度な腕前を競いあうゲームだと信じて楽しんでいたが、場数を踏んでテクニックを身につけていった結果、相手を先にミスらせてそこを突くだけのゲームだとわかって、現実の冷たさを噛み締めた記憶を思い出した。
「まぁまぁ、人生そればっかりじゃないけどね」
巫女は取り繕うように笑ってくれた。気を遣われたのだとオミはわかって、心を読まれたようで恥ずかしかった。
「神様がいないなんて、そんなことは些細なことだったのよ。私が毎日祈って送り出した人たちが、いっこうに戻ってこないこと……生還者がぜんぜん現れないことの方が、よっぽど堪えた」
まるで懺悔のような小声だった。それでもはっきり聞こえたのは、人だかりがおさまったからだ。次の儀式まではまだ数十分ある。ここにいる意味はなかった。
オミが立ち去る気になれないのは、やはりこの職務放棄の巫女とまだまだ話がしたいからだ。オミはその気持ちを自覚し、最初に話したかったことがあったのだと、その気持ちを取り戻した。
だからオミは自ら話題を継ぎ足した。もうどうやって最初の目的を果たせばいいのか、会話の流れがねじれてわからなくなっていたが、彼女自身のことを飾らずに話してくれた巫女になら、この話が届くかもしれないと思えた。親友だった、裏切り者の話だ。
「俺の友だち、カールって言う奴なんだけど、ちゃんと生還者になって戻ってきたぜ。知らないか?」
「カール・アイゼフ、第103番目の生還者。もちろん知ってるわよ。魔法世界で冒険して、人里を脅かす魔獣を一匹残らず狩り尽くして姫と婚約を交わしたけど、最後に討伐したという神なる魔獣の呪いを受けて世界にいられなくなった。悲しき生還者の典型ね」
「マジで知ってるのか」
「生還者はそれだけ少ないの。ここで働いてたら勝手に覚えるわ。私たち巫女は総出で祝福の祈りを生還者に捧げるの。その時に名前を聞いて、何度も褒め称えるのよ。ま、彼の心は向こうに置き去りにしてきた魔術姫にぞっこんだったから、見ず知らずの女たちに囲まれてもあんまり嬉しくなさそうだったけどね」
「俺には笑顔で世界を救ってきたって自慢しやがったのに……そうか、あいつ。最初はあんま嬉しくなさそうだったのか」
だから早々に安楽死を選んだのかも知れない。文字通り、生きる意味を失っていたのか。もちろん、カールはそんな痛みなんておくびにも出さなかった。出してくれなかった。あくまで生還者……成功者のように振る舞っていた。
(なんでそこまで話してくれなかったんだよ。友だちだろ)
オミはため息を吐き出すと、ゲートをみた。そこには誰もいないが、時を超えて存在するかもしれないカールの魂がひょっとしたら漂っているかも知れないと思えて、目を細めた。
もちろん誰も、何も見えなかった。
「彼の成功を知って、あなたも異界転移しにきたってわけ?」
「ん? ああそうだよ。何もすることないし、なら安楽死するか異界にいくかのどちらかになって……何故かあんたに邪魔されてた」
「言い方は気にかかるけど、邪魔して悪かったわね。でも、さっき話した通りよ。何百年かけて数千人が異界転移して、いま言ったようにあなたのお友だちでやっと103人目。これを聞けばどれくらいマズイかわかるでしょ。異界で苦しみながら死ぬより、この安全な世界で幸せに安楽死した方がマシだってことは、普通に考えればわかることよ。安楽死せずに、何もしないで生きるのが一番だわ。なぜか政府からは推奨されてない生き方だけど」
「何もせずこの世界にいても世間体っていうか、能無しって言われたり、そういう目で見られるのが辛いんだ。俺はあんたみたいに働いてるわけでもないから余計に、そう感じて」
一番話したいことを、オミはやっと解き放つことができた。普通なら嘲笑されて流される話題だが、この変わり者の巫女なら聞いてくれるかも知れない。いや、絶対に共感してくれるはずだ。
確信して言い放ったが、オミが期待したようなことにはならなかった。彼女はまるで時間が止まったかのように一切の動きを止め、ゲートに見入っていた。
「おい、聞いてんのか」
つい声を荒げたが、それさえ反応してくれない。巫女はただゲートの一点を見つめている。
オミもゲートを見てみたが、さっきと変わらない虚空が広がっているだけで何の変化も見分けられなかった。
無視されて腹が立って彼女の肩をつかもうと一歩を踏み出したオミは、そのとき彼女の怪訝な呟きを聞いた。
「長すぎる……それに、あれは……?」
「どうしたんだよ、急に俺を無視して」
「いつもならひとりでに閉じてるはずのゲートが、なんでまだ開きっぱなしになってるんだろうって、ふと思ってみてたら、アレ……」
「何だよ」
巫女は指をさして異変を知らせたが、オミにはやはり何の異常も認められなかった。毎日ここで働いている彼女にしか分からない変異がそこに潜んでいるらしい。
「どういうことなんだよ」
「わからないわ。ゲートはプログラムに従って自動制御されてて、毎日同じようにしか動かないはずなんだけど……ひとつだけ、例外があって」
「プログラムに例外って、バグってこと?」
「まぁそうとも言うわ。たとえば、生還者がこの世界に戻ってくる時、時空の流れに乱れが生じてゲートの自動閉鎖タイミングがズレちゃったりね」
「他には?」
「いえ、ほとんどそれだけよ。例外がいくつもあっては、安全な異界転移なんてできないわ」
「なら生還者がこれからやってくるってことなんじゃないか、普通に考えて。もしいまが普段通りじゃないとしたら」
「やっぱりそうよね。なら、あの染みはひょっとしたら」
話を聞いて、オミもゲートを見つめた。理由がわかれば、ただじっと見入ってしまうのも納得できる。
待ちに待った生還者の可能性と、その瞬間を見届けようとする焦がれるような思い。オミは、まっすぐゲートを見守る巫女の、願うような瞳をみてから、またゲートに視線を移した。
巫女が息をのむのにつられて、オミもまた息をのんだ。
虹色に輝く虚空に一点の黒い染みができていた。それは次第に人の形を成していく。今度はオミにもはっきりとわかった。
2人は同時に声をあげていた。
記念して祝福するべき104番目の生還者はおよそ想定外の人物だった。
もはや歴史上の人物と言って差し支えない。それは約1000年前の人間であり、この世界で初めて異界転移した人間だった。いや、異界転移させられたと言う方が正しい。
その名をイル・アラム。流罪としての異界転移……“異界追放”を科された、人類史上初の人間である。
「長き試練の果てに、ようやく回帰したか。我が故郷、この最果ての世界。して、貴様らが当代の時空管理官か?」
大魔賢者イル・アラムーー過去の文献には中央政府に所属する知識人“預言者”の地位にありながら政府を転覆し世界の破滅と文明の再形成を目論んだ大罪人と記されている。
だが、それは歴史家や知識人の間での情報であって、一般的には流罪を科された過去の謀反人としか知られていない。オミもその手の人間で、目の前の人間が政治の歴史の教科書にも載っているあのイル・アラムとは、すぐにはわからなかった。
幸い巫女がその知識を持っていたため、プライドの高いイル・アラムを激怒させずに済んでいた。
「その法衣……あなたは本当に、あの大魔賢者様、なのですか?」
「名乗らずともわかるか。なら、そなたが巫女だな。そちらは有象無象の馬鹿といったところだが」
「は? なんだテメ」
「黙って。この方はイル・アラムその人よ。政治の授業で聞いたことくらいあるでしょ」
「イル、アラム? あぁ、確か罪人賢者って習ったけど、そんなのがなんで?」
「異界転移は最初、流罪のひとつだったの。でも仕組みは今とずっと変わってないから、普通の異界転移みたいに生還してきてもおかしくはなくて。時間は経ちすぎてるけど」
「というわけだ小僧。罪人賢者か、よくもまあ汚名を吹聴してくれるものだ。この娘の殊勝な出迎えの態度がなければ、いますぐこの世界を再び転覆してやるところだったわ」
黒地に金の刺繍が施された威厳ある法衣は、確かにオミも普段ニュース映像でみる中央政府の要職に就く者たちが纏うものと同じに見えた。
同じであるが故に、それが1000年前に流罪に処された過去の人間とも思えなかった。顔に皺はなく、かといって若くもないが、それでも50代前後の男にしか見えない。相手が歴史的な人物だと俄には信じられなかったが、時空間技術の行き過ぎた発達を考慮に入れた瞬間、視覚的な印象など無意味だともわかる。
「まさか、本当だってのか」
「そう、我こそはイル・アラム。真実を告げ、世界を正しく修正するため、時の神から直々に預言をさずかった者」
「なら、やることは!」
オミは両足に力を込めて、素早く駆けた。天空回廊につめている警備員に助けを求めるのが普通だ。
だが、オミの足は一瞬で止まった。
見えない力に止められていた。
「許すと思うか? 凡俗が」
吐き捨てるように言うと、イル・アラムはその手に握った銀の懐中時計の、3本のピンのうち真ん中のものを引いた。直後、オミは倒れていた。
「痛ッ」
足を止めた記憶も、何かにつまづいた記憶もない。なのに何故か倒されていて痛みも感じる……オミは痛みと同時に寒気を感じた。恐怖と言っても良い。魔法をかけられたとしか言いようのない、理解不能の現実に突き落とされた恐怖だ。
「ちょうど良い、凡俗の貴様から現状を確認することとする。正直に答えろ。無論、我を謀る度胸など凡俗え馬鹿な貴様にはないだろうからな」
イル・アラムは床に伏したオミを蹴って仰向けにさせると、その足を軽く胸に乗せる。嘘を言えば踏む力を強くするつもりなのか、それはずっと乗せられたままだ。
「わかっ、わかり、ました」
悔しいが、オミは痛みに屈服させられているこの現実を認めるしかなかった。心臓の位置を踏まれている圧力が、すべてをあきらめさせるのだ。
そもそも片や流罪から生還した大罪人、片や、何もない時間を積み重ねただけのまさに凡俗、あるいはそれ以下の能無し。
立ち向かうという選択肢はなかった。
ただ巫女だけは、一度許された立場であることを活かし、オミを庇おうとしたのだが。
「お止めください、大魔賢者様。この者はたまたまここに迷い込んだだけで、何も知らないのです」
「だからちょうど良いのだ。我を流罪にして、はたして世界が良い方向に向かったかを確認したい。なら、凡俗並みの知識しかもたぬ奴が一番だ」
「なるほど……!」
とりつく島もない、これはもう決定事項だとでもいうようなイル・アラムの言葉に、巫女もついに口をつぐんだ。
大罪人の独壇場。その主であるイル・アラムが自由自在に口を開く。
「貴様の身分は?」
「何もしていない、能無しです」
「ほう、能無しというのは勝手にお前がそう言ってるのか? それとも、まさか政府がそう言っているのか?」
「……世間から、そういわれます。友達とか、先生とかから」
「では、能無しよ。どうせ働いてもいないと思うが、では日々の食事に困っているか?」
「い、いえ」
「じゃあどうやって食べている?」
「食事は無料です」
「そうか。ならこの星の時間は未だ、止められ、好き放題に操られたままなのだな」
ぼそりとイル・アラムは呟くように言った。そのとき胸を押されていた圧力が弱まり、オミの体からようやく怯えが消えた。
そうして観察した敵の顔は、何かを憂いているように見えた。その視線は、すでに閉ざされて柱だけになっているゲート装置に移されていた。生還者である彼がくぐり終えたことで、ゲートは自動制御によってようやく閉じたらしい。
骨のように白い柱だけになったゲートは、何もしない邪魔なオブジェのように見えた。
「自然の荒ぶりのために、過去、1000万人以上の人間が死んだ。世界同時地震……天災だった。貴様たちは知らないだろうがな。我もまだ、子供だったころの話だ」
歴史の授業で聞いたことがある。オミもまた子供のころの思い出――スクールで教師たちから習わされたことを思い出した。
だがそれだけだった。教科書の凄惨な崩壊都市の写真も思い出されたが、その写真が本当は何を意味していたのか、結局わからなかった。およそすごい規模の地震が起こって多くの人が犠牲になったらしい……そんな情報でしかない言葉を頭の中に記憶しただけだった。
それに対して目の前の大罪人はすべてを理解しているようだ。情報ではない、体験としてすべてを理解し、把握している。オミは、だからイル・アラムに口をはさむことができなかった。そんな資格など自分にはないと思えた。
「もう二度とこの荒れ狂う自然に命を奪わせはしない。そう決意した我ら人類は、自然科学の研究にすべてをなげうち、ただいな犠牲の果てにひとつの革新技術に到達した。それこそが時空間技術の粋を極めた禁忌、時間停止技術だった。かくして地殻の時間と南海上の時間が停止されることで、地震と嵐が起こらなくなり……その成功をみて、我らは次々と時間停止の対象を増やしていった」
教科書で読んだことのある一文と、ほぼ同じことを実体験として話すイル・アラム。オミは仰向けに屈服されたその体勢のまま、両手に汗を感じた。1000年前から生きている大罪人、この壮絶な人生を歩んできた男の元から脱け出すには、いったいどうすればいい?
考えれば考えようとするだけオミは絶望していった。自分の人生に何もないことが、これ以上憎らしかったこともなかった。せめて異界転移で冒険した経験があれば、まだ戦えたかもしれない。
対して、巫女はしたたかだった。イル・アラムの視線がオミとゲートに向けられていることを確認した彼女は、少しずつだが着実に、すり足で距離をとっていた。
気づいたオミは、やめたほうがいい……そう叫びたかったが、心身ともに臆したオミには何の声も出せなかった。殺されるかもしれない。そのひとつの不安が、オミの体のすべてを縛り付けている。
「だが我はある日、見た。見てしまった。地殻の時間停止をめぐる一面の真実をな。なんだと思う?」
イル・アラムはオミに問いかけるように話しているが、その視線ははるかかなたの地平線に向けられている。それは問いかけなどではない。現世によみがえったこの大罪人は世界のすべてを天空回廊から見渡し、世界のすべてに対して語りかけている。オミなど眼中にない。
オミは恐怖の中でも指先が動くのを確かめると、怒りによってそのこぶしを握ってみた。自分でも驚くほど固く拳を握っていた。
(自分の世界に入って、しゃべくって、俺を、とことんなめやがって)
言葉をはさむ資格はないかもしれない。立ち向かうなんてほど遠い経験の差も、あるのかもしれない。だが、いまコケにされてそれでいいのかと自分に問えば、オミの答えはもうすでに決まっていた。巫女が何かしようとしているなら放ってはおけない。
(俺は、男なんだ)
「地殻のみを停止させられるほど、高い精度で新技術を扱えるなどということはない。地殻の時間とともに、山々の時間までもが止められた。そしてそれはおそらく、今でもそのままだろう。知っているか? 教わったか? 山の時間、そこに住まう生き物すべての時間が氷漬けにされ、その膨大な犠牲の上にこの人類世界の安定は成り立っていると。傲慢だとは思わないか? 身勝手すぎると思わないか。だから我は預言者の立場に昇り、時間停止の権限をもつ身分となり、自然をあるべき姿に戻そうとした。山々の時間だけでもよみがえらせてやるべきだと主張して。結果、我は大罪人と扱われ、捕らえられただけでなく世界から追放されるに至った。おかしいと思わないか? 我は正しいことを為した。誤った方法で安寧を実現する当時の世界を正そうとした。なのに、この世界の支配者はそれを罪と裁いた。どちらが正しいか、1000年が経過したらしいいま、再び論議しようではないか、なあ、全時空中央政府首領殿よ。まだ、貴様はそこにいるのだろう」
最後にそう口にしたイル・アラムは地平線の果てに建つ巨大な建造物に視線を固定した。それこそは全時空中央政府の官邸だった。高さ10000メートル、幅2000キロメートルという馬鹿げた大きさを誇る、人類史上最大の建造物。世界の頂点に立つ者、“首領”がそこにいるとされているが、真偽のほどは定かではない。それほどまでに首領の現在位置は秘匿されている。暗殺の危険を回避するためだといわれているが、メディアに露出することさえ滅多にないのだから、首領もまた何事か悪事に手を染めてその地位にたどりついたのではないかという噂がまことしやかにささやかれている。
オミが生まれた時から首領は一度も変わっていないが、ひょっとしたら時間停止技術を使って首領もまた延命しており、1000年前からずっとそのままの立場に居座り続けているのではないか? オミはイル・アラムの悔しさをかみしめるような表情を盗み見て、そんなことを感じ取った。
「正しいかどうかはわかりません。でも、私は……」
距離をとっていた巫女がついに口をはさんだ。はじめるなら――加勢するべく、オミは立ち上がるために全身に力を入れた。
だがその瞬間、巫女のすべてが止まってしまった。
イル・アラムが首にさげる懐中時計のピンを操作していたのだ。3本のうち真ん中のものを一段階押し沈めることで、巫女の周囲の時間が停止する。
時間停止技術が確立されたとはいえ、オミはこれほどまでに小型で、かつ瞬時に起動する装置など見たことも聞いたこともなかった。人に対して時間停止を付与するならば普通はゲートのような大掛かりな扉状の装置をくぐらせる場合が大半で、それも毎日くぐらせつづけることで時間停止を維持する。ふつうはマンションや自宅に備え付けられる装置だ。自然に対して行う場合、より巨大な装置で行われ、大気の時間を操作する天候制御装置などは電波塔に匹敵する高さを誇る。
それに比べればまるで魔法のような瞬時の時間停止。大魔賢者といわれるだけのことはある。問題なのは、それがオミにとって人生を脅かす脅威であるということだ。
「巫女さん……! そんな」
「女には手を出さないとでも思ったのか。思い上がった、いっそ哀れな小娘だったな。だが安心しろ、周囲の時間をとめただけで肉体の時間はそのままだ。思考はしているし臓器の機能も保持されている。おかげで、呼吸不全で苦しみながら死に至るだろうがな」
「お前!」
恐怖など忘れてオミは起き上がった。瞬発的な動作だった。
巫女にはまだ聞いてもらいたいことがたくさんある。話の途中でこの大罪人が生還してしまっただけなのだ。こんなトラブルとっとと終わらせて、巫女と話を再開したくてたまらなかった。その時間が奪われるだけでも邪魔なのに、彼女の命まで奪われるなんてことはあっちゃいけない。
もっとも、まともな対抗手段は何ひとつなかった。オミはすぐに時間停止の餌食にされる。
「たやすいことだ」
オミが立ち上がったその瞬間、怒気を感じ取ったイル・アラムが懐中時計の右のピンを一段階押し沈める。すると、オミの周囲の時間も固定されてしまった。
(こんな、簡単に、終わるのか)
イル・アラムの言っていることに嘘はなかった。肉体の時間はそのままに周囲の時間だけが停止させられているから、血流は流れているし、思考もできる。思考ができるおかげで呼吸ができなくなった苦しさもまた感知できてしまい、息ができないまま死ぬ恐怖の時間の中にオミは放り込まれた。
これならいっそ肉体の時間も停止してもらいたかったが、イル・アラムは大罪人だ。こうして恐怖のなかで死に至らしめることこそが狙いなのだろう。
(何もできないまま、俺は……)
オミの意識は、最期まで苦しいままだった。
いつ意識が途切れたのか、オミにはわからなかった。痛くて苦しい膨大な時間のなかで、生かされた視界によってイル・アラムが自然にかけられた時間停止術を解除したのを見届け、地殻が再び動き出す壮絶な大地の音も聞き続けながら、オミはいつの間にか死に至っていた。
生命活動の停止――それは肉体に与えられた最大級の虚無。
その虚無を契機として、オミの脳内の神経細胞を流れ、意識を運んでいた電子のうちのひとつが、量子トンネル効果によって相転移を起こすと、それは時空をワープで超えた。
結果、オミは肉体を現世に残したまま意識の一部を異界に飛ばすことに成功した。
そこは物理法則も元素の性質も何もかもが異なる、もうひとつの世界。
目をあけたとき、オミの目の前には神がいた。そこは神が実在する世界だった。
「異界転移なんて狂ってる……あなたは、この私の言葉を否定しなかった。私を馬鹿にしたり、私の近くから去ることもしなかった。ただ私の話を聞き続けてくれた。何か、現世に対して思うところがあったんでしょう? この私のように」
先に時間停止をかけられて固まった、あの巫女とうり二つの女性の声。それはこの世界の物理法則のひとつである「時」を支配する神のものだ。
この世界に飛んだその瞬間から、“この世界の住人として生まれ育った”というバックボーンを脳内に設定されたオミは、実に慣れ親しんだ口調のままその御声に応じた。
この世界では、オミは神官という役職についている。もっとも時の神はいまや廃された神であり、信者もいないからまったくお金が入らない、いわば貧乏くじを引いた“無能”の神官だが。
「ええ、時の神よ。私は、いえ――俺は――飢餓や災害のなかで、いつも死が隣り合わせにあるにもかかわらず、生きていること、まだ生きていられるということ、それそのものを称賛しない、この社会の民草の考えに、いっこうになじめる気がしなかった。だから、時の神、あなたがそんな民草なんて狂っているとおっしゃられて、生まれて初めて、俺と同じ考えをもつ存在と出会えたと、心から嬉しいって、そう思えたんだ」
時の神は未来を見通す力をもつ。その彼女がいうには、今後数十年の間に大災害が発生し世界人口は減少、以降も星の脈動によって天災が断続的に起こり、人類の生存は難しいということだった。
まさに破滅の未来。それを民に告げた瞬間、時の神と、その託宣を伝えたオミは無能者の烙印を押されてしまった。
破滅の未来に価値はない。その破滅をいかにして回避すればいいのか、それを見通せない神など要らない。民衆や政府はそう告げ、時の神を廃することに決めた。
都合のいい情報にだけ耳を傾けて、具合が悪くなると途端に放り出す。勝手な奴らだと思うが、この世界において神は人と寄り添い導くべき存在とされており、破滅を伝達するだけの神など確かに無能と言われても仕方がなかった。この世界には、あらゆる技術を成立させる「鍛冶」の神や、あらゆる困難を排除してしまう「勝利」の神といった驚異的な存在がいる。彼らに比べれば、ただ未来を予言するだけで現世に何ももたらさない時の神の権能など弱小であり、求めているものではなかった。
「現世の世間じゃ能無しと言われて辛い。だから異界に逃げたい……あなたは私にそう言ったわね?」
「ああ。でもそれは、俺が本当に言いたいことじゃなかった。あの時、あなたに話したかったことは、反対のことだったんだ。俺も狂ってるって思ってた。ずっと食べるのに困らない、生きるのにも困らない。遊びだってたくさんある。そんな豊かで最高の社会をつくっておきながら、能無しだの、異界転移だの、成功だの、安楽死だの……まるで長生きしてほしくないような、ただ生きていることが忌み嫌われているような、そんな社会の考えが、心底ばかばかしいって思ってた。あなたになら、この話をしても笑われることも馬鹿にされることもなく、ただ通じるって思えたんだ。だから、あの時俺はあなた話しかけた」
「そう。じゃあいまやっと、あなたはあなたの考えを、私に伝えてくれたのね。口下手なりに」
「ああ。時間がかかったし、今じゃもう、どうしようもない状態になったけど。今さら伝えたって、俺たちは、何にもできないけど」
オミと時の神はもうどうにもならない事態に陥っていた。時の神は完全に信者から見放され、信仰を注がれなくなったことで神格を維持できなくなった。あとは消えるか、あるいは単なる霊のひとつとなって意味もなく現世にとどまる存在になるか、どちらかだった。オミもまた何も食べられず、川の水だけを飲んできたが、そんな生活が始まってもう一週間が経とうとしており、いっこうに打開策がみえず、そろそろ身も心も限界だった。
まさにいま、オミは時の神に最後の信仰を告白し、看取ってもらっている最中であった。最期に、信じた神によって看取られること……それは神官の特権だ。
時の神もまた、神から霊に格を落としてまで現世を見守ろうとは思っていないのか、消えゆく定めを受け入れると言っている。
オミは笑顔のまま、今まさに時の神とともに消えようとしていた。死ぬために水を絶って、いったい何時間経ったか、もう数えてすらいない。その気力ももうもてない。
「多くの民が私のもとを去りました。あなたも神官とはいえ、いつ私を捨てて別の職についてもよかったのです」
「違うよ。どの職にもつけなくて、でも神官にだけはなれて……こんなトラブルに巻き込まれるなんて予想もしてなかったけど。でも、そんな俺が神官辞めても、どの職にもつけない、無能者に戻るだけだった」
「そう、かもしれませんけど」
時の神は笑った。そのときはプッと吹き出すような笑いだった。おそらくオミの過去を最後の権能で覗き見て、彼自身が思っていることと何ら違わぬ未来になっていることに、笑ったのだろう。ほかのやつにそんなことをされたらオミは死ぬほど憎んだだろうが、相手が神となれば話は別だった。
廃される神に、最期に笑顔になれる要素を供えることができた。神官としてこれほどうれしいことはなかった。神官とは神に仕えるもの。主人に笑顔を届けられたことが、オミには何よりうれしかった。もっとも、神が廃されないよう立ち回り、民衆の信仰を回復できるほどの政治手腕があれば、なんの後悔もない人生だったのだが。
やはり俺は無能だ。世の役に立たず、誰の役にも立てない。それゆえに死ぬのだ。それは確かに、当然のことなのかもしれない。当たり前の報いなのかもしれない。オミはそう確信した。
時の神はそんなオミに笑顔を向けながら、最期の権能を託した。それは神の権能と呼ぶにはあまりに小さい、しかしそれ故に人の器に注いでも何ら問題のない、人がもつことを許された神からの賜り物――「神器」。
「この世界が食うのにも困らぬ世だったなら、あなたはきっと生きられる。私の言葉を無視せず、むしろ聞いてくれたお礼です。あちらの世界の私の話を、これからも聞いてあげて。この神器をもって、異界に……いえ、もとの世界にいきなさい。時の神の威厳を最後の最期まで保とうとしたあなたに、二度も無念の死を遂げさせはしません」
時の神はオミのまぶたをなでるように閉ざした。
オミは力尽き、死んだ。
生命活動の終了という虚無。魂を運搬する電子に起こる、量子トンネル効果と相転移。本来ならありえない、二連続の霊魂転移という奇跡によって、オミはいま時空間を超え、最果ての世界へと舞い戻る。
オミは目をあけた。イル・アラムがその首にさげた懐中時計を操作し、今まさにオミの周囲の時だけを固めようとする、その寸前だった。
オミは自身の首にもさげられた同じ形の懐中時計を握りしめ、イル・アラムとまったく同じ動作でその“神器”を操作する。
イル・アラムがもつ銀の時計と、オミがもつ金の時計――時の神の権能が2つ同時に起動し、結果、現世には何の干渉ももたらされない。
「イル・アラム。あんたもまた時の神を救って、この世界に戻ってきたんだな」
「そういう貴様もか。異なる時空の、異なる時の神から、同じ神器を持ち帰る……大した奇跡か、あるいは、これも時の神の気まぐれか」
大罪人が驚愕に目を見開きながらも口走ってくるなか、オミは神器を操作して巫女の時間停止を解除する。
「はあっ! 死んだかと、思った」
巫女は涙を流して、奇跡の復活を遂げたことを全身で喜んでいた。その声も顔もやはり時の神のそれと瓜二つだった。彼女はこの世界に神などいない、勤務初日にそれを思い知ったと口にしていたが、確かに、自身が神であることに気が付いていないのであれば、人だらけの社会のなかで神をみつけることなどできはしないだろうと思う。
そんな巫女を、神器で救い出した。向こうの世界では救えなかった時の神、それと同一の存在である彼女を救い出したのがオミであったというこの事実をもって、この世界における権能の真の所有者が決定される。
結果、オミは神器を握りしめたままだが、イル・アラムが握っていたそれはしだいに透明になって消えていく。
「見放されたか……だが、我にはアクセス権がある。なにせ大魔賢者だったのだからな」
ぼそりとつぶやき、イル・アラムはその体を地平線の果てに鎮座する山のような建造物――全時空中央政府官邸へと向け、その手を伸ばす。
他方、神器を握りしめたオミは時計の3本のピンのすべてを押し込むことで、時の未来を覗き見た。イル・アラムが官邸に眠る地殻時間制御装置に遠隔アクセスし、地殻の時間を復活させ大地震を引き起こす未来が確かに見えた。
「アクセス権……そういうことなら!」
以前は未来がみえるだけで何もできなかった。だが、いまは違う。オミは神器を操作し、イル・アラムの時を止めた。肉体の時間を止め、全身の動きを一時的に封じ込める。
「なに、その力」
突如動かなくなったイル・アラムをみて、巫女が驚愕の声を漏らした。まるで幽霊でも見たかのような、恐怖の混じった小声だった。
小声であってもオミはちゃんとその言葉を聞いていた。こっちの世界でもちゃんと話を聞くこと……この神器は、その見返りに下賜されたものなのだから。
「よくわからないけど、神様、いたよ。あんたの夢はぜんぜん打ち砕かれちゃいないってこと」
オミは神器――懐中時計を見せてやった。巫女は目をぱちくりさせて、次には首をかしげていた。
「だから何ソレ。意味わからない」
オミはただ笑った。かつて最期の時に、彼女にずっと笑顔を向けられたお返しと思って。
警備隊に連絡し、なぜかわからないが勝手に時間停止しているイル・アラムその人がいると伝えて、オミは天空回廊から立ち去った。
天空回廊にはしだいに人だかりができていた。次の異界転移の儀式が始まろうとしているのもそうだが、そうでなくとも世界中をつなぐ複数の時空間ゲートがここにはある。何事かを成し遂げるために動いている人間たちが、ここにはたくさんやってくる。
オミは、カールのように異界転移して華々しく生還者となって、何かを成し遂げた顔をして、この最果ての時空世界で誰にもさげすまれることなく暮らせる資格を手に入れたかったが、結局それは、かなわなかった。巫女のせいだ。だから、天空回廊からは去らなければならなかった。これ以上、さげすまれるのはごめんだ。
こういうことになったのは、時の神の意志なのだろうか。だとしたら、他人は他人、自分は自分と思えということか? しかし、なら俺はどうやって何かを成し遂げればいい? 成し遂げるべきものが何かさえ、いまだにわからないというのに。
オミはため息を吐き出すと、後ろを振り返った。巫女がそこに立っていた。
「仕事、クビっていわれて。ならいますぐ辞めますって言って、帰ることにしたんだ」
「へえ」
「ね、せっかくだし一緒に帰ろうよ。話、いろいろ聞いていい? イル・アラムに時間を止められたことまでは覚えているんだけど、あなたがその懐中時計……時の神の物語に出てくるのとそっくりなソレ、見覚えなかったの。突然どこから持ち出してきたのか、納得するまで話してよ」
早口でいろいろ言われたが、どうやら一緒に帰ってくれるらしいことは理解できた。
オミは、巫女が憧れの時の神がこの世界に与えた干渉の痕跡を懸命に知ろうとしているようで、どこか希望に輝いてみえるその瞳をみて、笑った。
「俺を笑ったり、馬鹿にしたりしない? 約束できるなら、いちからぜんぶ話すけど」
「巫女さえクビになった女よ、私は。誰も笑ったり、馬鹿にしたり、そんな下卑たことできるほどお偉い身分じゃないわ。約束以前の問題よ」
「なら俺と同じだ。あんたになら、話をきいてもらえそうだな」
「じゃ聞かせて。その懐中時計について」
「あんたがいないといった、時の神のことも?」
「ええ!?」
「実在したよ。でも、この世界じゃなかったんだ」
「詳しく! 聞かせて!!」
それを聞いたところで、職を失ったという彼女はこれから何ができるようになるというのだろう。オミは素直に疑問に思ったが、巫女の職務を放棄してまで自分の信念を貫きとした彼女のことだ。今後の暮らしのことなんて考えてないだろう。
何の目的もないが、純粋に知りたいから聞いている。ただそれだけのために彼女は今を生きている。
そんな彼女に出会えたことが、一番の幸運だったのかもしれない。
オミは、彼女を真似ることにした。これから何ができるのか、そんなことはわからない。どうやって成功をつかみ取ればいいのかも、やはりわからない。だが、いまは彼女と話したいと思うから話す。ただそれだけのために、今という時間を生きる。
それでいいのだと、彼女から言われているような気がした。
時間は、止まらず動きつづける。それはどの世界でも変わらぬ法則だった。