36.消えなかった(白目
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「さぁ。触ってごらん。もう痛くないだろう?」
お医者様の声に、ゆっくりとそこへ触れた。
ぶにぶにもしてないし、腫れあがってツルツルになっている感触もなかった。感動だ。
「痛く、ありません」
遠慮容赦なく自分でもその箇所を触って押しまくる私の姿に、お医者様が苦笑する。
「うん。完治ということでいいでしょう。予定より長く掛かりましたが、後遺症もないようですね。よかったよかった」
お医者様が太鼓判を押すその言葉に、周囲が詰めていた息を吐いた。
転がり込んで来ただけの平民の傷が治ったかどうかだけなのに、どんだけ緊張してたのかと表情が緩む。
気が付けば、この御屋敷に運び込まれてから、すでにひと月が経っていた。
イモフライを泣きながら食べてたら、すっころんで、怪我して、気が付けばお貴族様のお屋敷で、賭けすることになって、お勉強しながら養生して……本当にわけわかんない一か月だったなぁ。
感慨にふけっていると、エラさんが手鏡を持って近付いてきて、位置を合わせて鏡台へ傷跡を映してくれた。
手触りからまだそこへ禿げがあることを覚悟していたけれど、視界に入るとやっぱり胸にくるものがある。
「あぁ、やっぱり」
思わず声が漏れた。仕方がない。記憶にあるよりずっと小さくなっていたことだけは幸いだ。そうしてそこだけまわりの皮膚よりちょこっと赤い。
「時間の経過とともに赤味も取れて、更に小さくなって、見えなくなるよ。傷がもう少しでも広かったら、完全な禿げができていただろうけどね。今残っているそれなら、小さくなっていくと思うよ」
どうやら、たんこぶだけなら禿げても治るそうだが、私の場合は小さかったけれども切り傷になっていたのが問題だったらしい。
お医者様から赤味が薄っすらと残っている皮膚に塗るための保護クリームの使い方を説明して貰い、「お大事に」と言い残して帰っていく後ろ姿を送り出す。
こうして私は、最後の診察を終えたのだった。
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「ちいさくても、はげのこるんだ」
お医者様を見送った部屋で、呆然と呟く私をエラさんが肩を撫でてくれた。
「ここに傷があるって知っていて、髪の毛を掻き分けて探すことでもなければ、誰にも分かりませんよ」
慰められているのは分かっていた。けれど、私にはとてもではないけれど、それを受け入れる余裕はなかった。
「ただでさえ、こんなに不細工なのに……」
このお屋敷へとおじいさんに連れて来られて、マダムとおねえさま、そしてエラさんによってかなり磨いて貰って、ちょっとは見れるようになったつもりでいた。
でも今こうして鏡の中にいる自分は、やっぱり誰より不細工だ。
しかも、はげまで出来てしまった。最悪も最悪だ。
絶望に目の前が真っ暗になった。
「ご安心くださいな。髪はきちんと巻いて上げてしまうものですから。つけ毛も足して華やかにお作りししょうね」
気を引き立てようとするエラさんの声が、遠かった。
「あのね、エラさん。わたしね、不細工すぎて、婚約者に、捨てられたの」
誰にも聞かせるつもりのなかった過去が、口から零れ落ちた。
「え……」
「戦争の頃に、両親を亡くして。それで、当時婚約していた相手から、『不細工な上に借金まみれとか。冗談じゃない 』って言われて。それきり」
できるだけ冗談っぽく聞こえるように、軽く言ってみた。けれど、全然成功したとはいえなくて、エラさんからは、痛ましいものを見る目を向けられているのが分かった。
そう言う目を向けられることは好きじゃない。
けれど、どうしようもなく苦い思いが胸から溢れて苦しくて。言葉とするのを止められなかった。
「その後も、孤児院で養子として迎え入れて貰うような話を貰えることも、私には一度も無くて。仕事だってあぶれて。わたしは、ずうっと、だれからも、選ばれなかったの。……不細工だから」
ぽろりと涙が零れた。
不細工の泣き顔なんて、見られたものじゃないというのに。
愚痴を言ってるだけでも醜いのだ。早く泣き止やんで、『なぁんちゃって』と冗談にしてしまわなくてはいけないと思うのに。
唇が震えて、声にならない。
「そんなことは無い、と私がいくらお伝えしても届かないんでしょうねぇ。こんなにお美しくなったのに」
エラさんのやわらかなふくふくしい手が、丁寧に髪を櫛梳る。
その温かさに、気が弛んだ。
「それに、不細工かどうかをお決めになるのは気が早すぎますよ。それを決めるのは、今日、サロンへ出てからでございましょう? さぁさぁ、うんと華やかにお作りしましょう」
そうなのだ。
今夜ついに、私とおじいさんの賭けが、本当の意味で始まる。
「ありがとう。よろしくお願いします」




