32.それは素朴で特別なお菓子
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「わあ。今日のショートブレッドはオレンジピール入りなんですねぇ。バターとオレンジの香りって滅茶苦茶合いますね! 美味しい」
まるで芸術品のようなひと口サイズのケーキ達の中に、いつもひとつだけ異色を放つショートブレッド。
このお邸ではじめて出して貰ったオヤツでもあるショートブレッドは、見た目はの素朴さをいい意味で裏切るリッチな味わいで、ほろほろと口の中でとろける食感といい、大好物のひとつになっていた。
材料費の事は、気にしても仕方がないと諦めはじめた。
だって食事をおじいさんが持って来てくれなくなってからというもの、貴族の人達が食べているようなコース料理を出されているのだ。
鴨のコンフィ、子羊のグリル、手長エビのフリット、ローストポーク等々。
それ以外にも前菜やデザートまでひと通り出されてくる。
何度か「もっとお安い料理にならないか」とエラさんに相談してみたことがあるのだが、「皆さまがお召し上がりになっているものとは別の物を、オリー様の為に特別にお作りするということですか」と確認されて震えあがってしまった。
庶民的な料理なんて作ったことも食べたこともないような、お貴族相手のプロの料理人に、オリーの為だけに何かを作ってくれというのは、逆にお高くつくんじゃなかろうか。材料費以外の部分で。
実際の問題としては使用人用の賄いを融通してもらう交渉をするべきだったのだろうが、オリーにはそういった観点が抜けていたので思いつきもせず。
「マナーのおさらいにもなるので」というダメ押しもあり、提供される食事を受け入れることにしたのだ。
毎日届く豪華な食事。朝食に出されるベーコンとオムレツのひと皿だけだって、丸一日働きづめになったとしてもオリーの総菜屋の給金では食べる事は叶わないだろう。
「たぶん、このショートブレッドのひと口分だって無理ね」
思わずふふっと笑いが零れた。
「あら、オリー。何がそんなに面白いの?」
目の前に座っているマダムから、迫力ある笑顔で問い掛けられた。
「えっと。えっと。……このショートブレッドおいしいですよね! だいすきです」
「ウチのパティシエが腕によりをかけて作った美しいケーキより、オリーはその、素朴なショートブレッドがお気に入りなのね」
「素朴って。こんなにいっぱいバター使ってて、素朴はないですよ! 超リッチじゃないですか! 私、ここでおじいさんに初めて食べさせて貰った時、こんなに美味しいショートブレッドがあるんだって吃驚しましたよ!」
材料は、小麦粉とバターと塩と砂糖。それを根気よく混ぜ合わせて作るだけのこのお菓子は、だからこそ材料の良さや配分が重要になるのだろう。
街中で売っているショートブレッドはもっとバターが少なくて、硬い。ぼりぼりって感じの歯ごたえがある。
あと味がない。
よーく噛んで噛んで噛んでいくと、小麦の味わいがほんのりと口の中に広がっていく。気分は携帯できる保存食であって、決してお菓子ではない。いや、これまではオリーには充分贅沢なお菓子だったけれど、このお邸のショートブレッドを食べてしまったからには、もう二度とあれをお菓子だなんて思うことはできないだろう。
「フフフッ。そうなのね」
ここのショートブレッドがどれだけ美味しい特別な物なのか力説するオリーに、マダムがくすくすと笑った。
笑われた意味がわからな過ぎて返す言葉に困る。
けれど、マダムも後ろに控えているエマさんも、なぜか優しい笑顔をしているから、まぁいいか、とオリーも笑って、ショートブレッドを齧るのだった。
誰かと一緒に笑い合って食べる美味しい物は、もっと美味しくなるのだ。
これだけは、あの変なおじいさんに感謝して上げてもいいのかもしれないと、どこから目線なのかと自分でも思うようなことを考えて、またオリーの頬に笑みが浮かぶ。
「まったくもう。さぁマナーに則って食べるのよ、オリー」
呆れた様子のマダムに諭された。
それに笑顔で頷き返して、オリーは姿勢を正して大きな口でそれを齧った。
「オリー!」




