25.レッスンというより授業よね?
■
翌日、貴族年鑑のまとめを提出した後のレッスンは、マダムの宣言通りにはならなかった。
「つけペンの使い方から、やり直しましょう」
庶民の筆記用具といえば、木炭にボロ布を巻いたものだ。
昨日のテストでもこれを使わせて貰っていた。ちなみにここでは間違った文字を消す為にパンを渡されたけれど、庶民は絶対にそんなことしない。二本線で訂正を入れたり黒く塗りつぶしておしまいだ。手軽だし、安価だ。最高。
だから、平民となってからというもの、つけペンとインク壺を用いたことなんてなかった。
久しぶりに使うつけペンは、記憶にあるより軸が細く感じられて頼りない。たぶん、子爵家で使っていたペン軸は、ちいさかったオリーの手に合わせて調整されたものであったのだろう。
借金だらけの癖に、そんなことにお金を掛けたりしないで欲しかったと苦く思う。
そんなことを考えていたからだろう。
昨日、ひとり貴族年鑑を書き写したノートには、インクを吸い上げさせすぎたペン先から零れた跡が、そこら中へと丸いシミを作っていたし、書き慣れないせいで、カーブさせる度にペン先が撥ねて、インクの飛沫だらけであった。
ついでに、何度もそれを繰り返したこともあり、最後の方はペン先が曲がって開いてしまったせいでインクの吸い上げが上手くいかなくなっていたので、文字が掠れていた。
訂正用のインク吸い取り器も渡されていたけれど、扱うタイミングが難しすぎた。
一回チャレンジしてみたけれど、廻りまで吸い取っちゃうし、押し付けるのが早すぎたらベチョッて周囲全体が真っ黒に滲んじゃったから、以降は使わなかった。無理。
それから先は、訂正線だけにしておいたんだけど。間違えて書き直したところの修正って難しいわね。訂正の訂正の訂正をしまくっていたら、ノートはあっという間に、ぐっちゃぐちゃになってしまった。
つまり、昨日頑張って調べてまとめたノートはマダムからは判読不可能というレベルの仕上がりだった。
内容があっているかどうか以前の問題である。
正直なところ、自分でも汚すぎて読めないかもって思ってはいた。
「ちゃんと見ててね」
手入れの行き届いたマダムの綺麗な指が、ペン軸を持つ。
なぜだかその仕草自体が、妙に色っぽい。
私が持つ手と何が違うのか。真似するどころか、どこがどう違うのかも理解できない。でも動きひとつひとつが全然違って色気がすごい。そして敗北感もすごい。
ゆっくりと動くマダムの持つペンがインク壺に浸された。
その角度と吸い上げるラインを私は必死で見つめた。
ペン先はインクだまりの溝ちょうどまでインクを貯め込み、するすると滑らかにその軌跡を紙の上へと残していく。
「おぉ、うつくしい」
「馬鹿ね。なに感動してるのよ。さぁ。簡単だったでしょう? 頑張って練習しておいてね」
マダムの、綺麗に紅がひかれた唇が弧を描く。
やっぱり本物の美人さんってズルいなぁ。
こんなにちいさな笑顔ひとつで、心が持っていかれそうになるもの。
「はい」
忙しそうに去っていくマダムを引き留める気にはならなかった。
後ろ姿を見送って、気合を入れ直す。
「よし。がんばりますか」
まずは、ペンを握る。よし。
マダムの動きを思い出しながらペン先をインク壺に浸し、インクを吸い上げすぎない内に紙の上まで移動した。
いいぞ。ここまでは順調だ。ちょっと手が震えていて、ペン先からインクが垂れてきそうだけれど。垂れてくる前に、ペン先を紙の上においた。
インクが滲んでくる前に、えいや、と線を引く。
「あら。結構いい感じ……でもないか」
まず線が真っ直ぐじゃない。
太さがまちまちだし、インクが滲んでる部分があったり掠れたりしている。
「できるまでやるしかないわね」
マダムはいとも簡単に引いていたのに、なぜ自分でやると掠れるのか。
「あぁっ」
まっすぐな線を引こうとしているだけなのに、ペン先がパチンと音を立てて爪先が弾け、インクが飛び散った。
曲線はさらに酷い。まったく描けない。掠れるし、線が震える。丸にならない。挙句、紙にペン先を引っ掛けて割ってしまうミスを繰り返した。
ペンの持ち方から教わり直し、手首の角度や腕の動かし方を思い出し、その動きを真似する。
白い紙に何度も何度もただただ線を引くだけで、今日という日が終わりそうだった。




