表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

プロローグ2

 さて、ここで、しょうげきてきなじじつをはなそう。

ねこまたはまず、なない。ようかいになるけいやくをかみさまとしたところで、ぬことはほぼなくなるのだ。ぬというより、猫又生ねこまたせいをやめたいときに、おねがいするだけらしい。ねこまたをやめたいときは、自分じぶんできめるそうだ。なので、ねこまたたちは、寿命じゅみょうがない。

 しかし、『けいやくいはん』といって、ねこまたとしてわるいことをすると、ねこまたをやめさせられてしまうことはあるらしい。『けいさつかん』が、わるいことをしたら、おしごとをクビになってしまうようなものだ。

ねこまたは、かみさまのおてつだいもするようかいだ。なので、わるいことはしてはいけないのだ。ま、ねこまたにかぎらず、わたしたちにんげんも、わるいことはしていかずに、きていきたいものである。

 ようかいにもいろいろいる。

 ねこまたちはかみさまのおてつだいもするようかいだが、あくまのおてつだいをするようかいもいることをはなしておこう。

 そやつらは、『あくまようかい』という。

かれらは、きたないもの、よごれてくさいもの、そして、わるいにんげんがだいすきだ。きづいたら、おともだちにイジワルをしていた、ひとをたたいていた、モノをぬすんでいた、など、うっかりわるいことをしてしまうときがみんな、これまでになかっただろうか。

それは、あくまようかいがちかくにいることがあるので、きをつけてほしい。かれらは、わるさをするこどもも、だいすきだからだ。どんどんわるいことをするようになってしまうので、へんだなとおもったら、ゆうきをだして、おとうさんやおかあさん、がっこうのせんせいや、おともだちにそうだんしよう。

 さて、すこしはなしはかわり、ようかいのなかでも、かみさまでもあくまでもない、へんなようかいがいるというおはなしをしようか。

こやつらは、じぶんでもしらないまに、ようかいになっているやつらだ。『ちゅうせいようかい』という。『ちゅうせいようかい』は、ほとんどのやつらがはなさない。「かんがえるあたま」をもっていない、とでもいったほうがわかりやすいかもしれない。

 ながくひとがもっていたまくら、すてられたあずき、なんじゅうねんもいきているキノコや、どくキノコ、さんさい、どうぶつなどのシカバネからのこった『めだま』などだ。これらは、モノによっては、てんしやせいれいがやどるばあいもあるが、ほとんどがちゅうせいようかいになる。

 またぞうはよく、じぶんたちがたべるりょうりにも、こやつらをつかっている。とくに、どうぶつのシカバネからなるめだまのちゅうせいようかい『トンとチンとカン』は、いダシがでるらしい。カレーにいれるとぜっぴんだそうだ。もちろんわたしはえんりょしたい。

 さて、またぞうはねこまたになってからというもの、じぶんだけでできることがふえ、すごくたのしくせいかつしているという。

 もつかえるようになり、みずにもおぼれなくなり、おゆにもはいれ、ひとも、のりものも、天変地異てんぺんちいもこわくなくなったため、どこにでもでかけられ、りょこうしたり、おんせんにいくようにもなった。をりかいし、ほんがよめ、料理りょうりや、研究けんきゅうなどもするようになった。

 とくに、にんげんがたべるような、あじがついているごはんをたべられるようになったことで、りょうりして、ごはんをたべることが、だいすきになったらしい。

 またぞうは、もともとのせいかくもあるとおもうが、なにごともべんきょうねっしんでコルので、じょうたつがはやい。いまでは、ものすごくたくさんのしゅるいのりょうりがつくれるのだ。

 これには私もそんけいしている。というか、しょうじきにいってしまうと、ちょっとひいてしまくほどのこうレベルなのである。

 またぞうがつくるものはすべてがおいしく、また、もりつけもきれいなのだ。どこかのりょうていなどで、しゅぎょうでもつんだのか?とおもうほどだ。またぞうは、ようかいになってからはなにをたべてもしんでしまうしんぱいがなくなったことがなによりもうれしいとはなしていた。ただし、ネギだけはいまもにがてらしい。たまねぎはたべられるのに。なんでも、ねこでいるときにわがげのいたりで、ネギをこうきしんでかじってしまったことがあり、にかけたことがあったそうで、今でもトラウマだという。なんとも、わらってしまう。それでも、ネギの出汁だしならのめるようになったらしい。

 ねこだったときとくらべ、よのなかがものすごくかわり、べんりになったとまたぞうははなす。

 このあいだも、いまは、レシピもおおくあるから、いろんなくにのりょうりをためいているんだとか。和食わしょく洋食ようしょく中華ちゅうかにくわえ、フレンチ、イタリアン、トルコにネパール。こうなると、もう、料理研究家りょうりけんきゅうかだ。

 すこしだけはなしをもどそう。またぞうは、とあるまちのはずれにすんでいる。

『よろずや』をいとなんでいるのだ。よろずやというのは『なんでもや』みたいなものだ。そのとおり、またぞうのおみせはなんでもうっている。

 おみせ

『ねこまたてい』だ。

ネーミングもすてきだな。

 さて、ようかいとおなじく、このおみせもふつうの人にはみえないのだ。もちろん、またぞうも、しょうひんも、おみせでながしているおんがくや、たべもののニオイもかんじないであろう。

たまに、ニオイだけわかるにんげんもいるらしいけども、だ。

 まあ、それはおいといて。

 それでも、ごくいちぶのにんげんにはみえたり、きこえたり、するときがある。

 ちいさなどもはみえることがおおいらしい。またぞうをみつけると、ちいさなをふっていたりするのをよくみかける。それでも、10さいをすぎるとみえなくなってしまうこともおおいらしいが。

 そんな不思議ふしぎなようかいのまたぞうにも、またぞうほんにんが、不思議ふしぎにかんじていることがあるそうだ。

 人間に関してだけは、猫又亭ねこまたていがひつような人にだけみえたり、おみせにはいれたりするということだ。またぞうはいう。


「おもいろいね。ヒトがいう、エンてやつなのかな?」


と。こんなとき、またぞうはうれしそうにキラキラしたではなす。またぞうは、人がだいすきだ。

 わたしたたよりもはるかに、いろんなのうりょくがあるねこまたのまたぞうが、へいぼんなわれら「人間にんげん」のなにがそんなにひかれるのかわからないが、またぞうにとって人のそんざいは、すばらしくかんじ、うれしいものらしい。

 そんな、ひとがだいすきなまたぞうにも、人間にんげんがいってくるちょっとゆるせないことがあるそうだ。それは、


「それ、きぐるみをきてるのか?」


おもいだして、くちにすだけで、モヤモヤするそうだ。


「ぼくらはきぐるみじゃないよ。このままでお風呂ふろもはいるし、ていうか、えてるもんでしょうよ!あなた、そのあたまカツラですか?ってきくようなもんさ!しつれいな」


またぞうは、はないきをあらくして言っていた。

 1990ねんあたりから、たまにきかれることがあったそうで、ちょっとコンプレックスらしい。カツラのはなしにたとえるとわかりやすいが、ちょっとちがうきもするのだが、ほんにんがいやだといっているので、まあ、そういうことにしておこう。

 このながれのはなしになるのだが、ここまでナレーションをしてきたわたしにも、不思議ふしぎがもりだくさんなまたぞうたち『ねこまたたち』の、さらにふかかいにおもうことが少しだけあるのでおはなししよう。

 ねこまたたちは、いまのじぶんたちのすがたやかたちが、ねこだったときとすこしもわっていない。という。

 またぞうのえほんや、さしえ、どうがをみてくれたであろうみんなは、またぞうのいまのすがたがわかっているだろう。

 これはあくまで、ナレーションをしているわたしからみた個人的こじんてきないけんだが


「いやいやいや!こんなねこいないでしょ!いたらこわいわ!」


と、おもってしまうほど。いや、こえをだいにしていいたいくらい、みためはちがうのだ。

 はっきりいおう。ほとんどのねこまたが、人面猫じんめんねことでもいうべきだろうか。たつすがた、あるくすがたは2ほんあしだ。そして、こんないいかたをするとまたぞうにしかられてしまうが、ねこのようなきぐるみをきているようにみえないこともない。はっきりいえば「きぐるみをきたにんげん」のような なナリをしているのである。

 ……ふー。なんだかスッキリした。いや、ここまでのはなしは、わたしとよんでくれたきみたちとのヒミツだ。なかったことにしてほしい。あとでさくじょしておかねば、またぞうになにをいわれるかわからないな。くわばらくわばら。

 さて、そのなかでも、ねこまたたちのスタイルはスラッとしたもの、はらがぽってりしてるもの、きんにくマッチョなもの、おっさんのようなかおをしたもの、といったように、にんげんとおなじく、タイプはそれぞれだ。

 これはわたしのすいそくなのだが、そもそも、またぞうは江戸時代えどじだいのうまれである。この時代じだいは、よくうつるかがみなどはまだまだ高級品だったようにおもえる。ましてや、山のなかのみたばたで、じぶんのすがたをねこのまたぞうがかくにんするすべなどなかったのではあるまいか?というのがわたしのかんがえだ。あったとしても、水にうつったときくらいじゃなかろうか?と。またぞうは、やせいのねこだったとはなしていた。やせいのねこなんぞ、じぶんのすがたなんて無頓着(むとんちゃく)だったのでは?と、おもう。

まあ、ゴチャゴチャはなしてしまったが、とりあえず、またぞうがねこからようかいになったときに、じぶんできづいたへんかは、2ほんのあしでたてるようになったことと、シッポが2ほんにわれたこと、だそうだ。なんでかなぁ?と不思議ふしぎでならない。

 すがたやいろのみえかたが、むしとわれわれがちがうように、ねこまたもまた、ちがうのか?なんて、なぞはふかまるばかりである。

 さて、わたしとまたぞうがはじめていっしょにごはんをたべて、おさけをのんだときにしたはなしをすこしだけはなそう。わたしはまたぞうにきいてみた。なぜもこんなににんげんがすきなのか?とね。


「ボクは、人間にんげん大切たいせつににしてもらったから」


だそうで、なんともシンプルなりゆうだ。またぞうはこうつづけた。


ひとをわるくいうねこやようかいもよくいるし、ひとにもわるいのがいるのもよくしっている。これでも、200ねんいじょういきてますから!ボクの大切たいせつななともだちも、ひとにきずつけられたこともある。けれど、それはきっとおたがいさま。これまで、人をきずつけたねこもいぬもきっといるし、ようかいなんてもっといる。もしかしたら、ボクもしらないうちにまちがったことをしているかもしれない。でも、ボクは人にたすけられたりたのしくすごしたときのほうがおおかったから。それがぼくのなかのじじつだよ。そして、なんだかんだでい人のほうおおいとおもう」


 これをまたぞうからきいたとき、人としてなんともうれしいことばだった。

 だからこそ、わたしもまたぞうがとても好きになったのだ。そして、できるかぎり、ふだんから良いおこないをしようとおもった。できるかぎり。


「人は、ねことちがってよけいなことをすごくかんがえるよね。みていてためになるし、おもしろいよ。ぼくが人のマネをはじめた理由さ」


 さて、プロローグとしてのまたぞうのしようかいはとりあえずここまでにしましょう。

 え?もう、じゅうぶんだから、ほんぺんをはやくはじめろと?

せっかちはいかんぞ。たのしみながらゆっくりまいりましょうや。

それでは、おはなしのはじまりはじまりー。


てんてんてんてんてんてんてん



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ