プロローグ2
さて、ここで、しょうげきてきなじじつをはなそう。
ねこまたはまず、死なない。ようかいになるけいやくをかみさまとしたところで、死ぬことはほぼなくなるのだ。死ぬというより、猫又生をやめたいときに、おねがいするだけらしい。ねこまたをやめたいときは、自分できめるそうだ。なので、ねこまたたちは、寿命がない。
しかし、『けいやくいはん』といって、ねこまたとしてわるいことをすると、ねこまたをやめさせられてしまうことはあるらしい。『けいさつかん』が、わるいことをしたら、おしごとをクビになってしまうようなものだ。
ねこまたは、かみさまのおてつだいもするようかいだ。なので、悪いことはしてはいけないのだ。ま、ねこまたにかぎらず、わたしたちにんげんも、わるいことはしていかずに、生きていきたいものである。
ようかいにもいろいろいる。
ねこまたちはかみさまのおてつだいもするようかいだが、あくまのおてつだいをするようかいもいることをはなしておこう。
そやつらは、『あくまようかい』という。
かれらは、きたないもの、よごれてくさいもの、そして、悪いにんげんがだいすきだ。きづいたら、おともだちにイジワルをしていた、人をたたいていた、モノをぬすんでいた、など、うっかり悪いことをしてしまうときがみんな、これまでになかっただろうか。
それは、あくまようかいがちかくにいることがあるので、きをつけてほしい。かれらは、悪さをするこどもも、だいすきだからだ。どんどん悪いことをするようになってしまうので、へんだなとおもったら、ゆうきをだして、おとうさんやおかあさん、がっこうのせんせいや、おともだちにそうだんしよう。
さて、すこしはなしはかわり、ようかいのなかでも、かみさまでもあくまでもない、へんなようかいがいるというおはなしをしようか。
こやつらは、じぶんでもしらないまに、ようかいになっているやつらだ。『ちゅうせいようかい』という。『ちゅうせいようかい』は、ほとんどのやつらがはなさない。「かんがえるあたま」をもっていない、とでもいったほうがわかりやすいかもしれない。
ながく人がもっていたまくら、すてられたあずき、なんじゅうねんもいきているキノコや、どくキノコ、さんさい、どうぶつなどのシカバネからのこった『めだま』などだ。これらは、モノによっては、てんしやせいれいがやどるばあいもあるが、ほとんどがちゅうせいようかいになる。
またぞうはよく、じぶんたちがたべるりょうりにも、こやつらをつかっている。とくに、どうぶつのシカバネからなるめだまのちゅうせいようかい『トンとチンとカン』は、良いダシがでるらしい。カレーにいれるとぜっぴんだそうだ。もちろんわたしはえんりょしたい。
さて、またぞうはねこまたになってからというもの、じぶんだけでできることがふえ、すごくたのしくせいかつしているという。
火もつかえるようになり、水にもおぼれなくなり、おゆにもはいれ、人も、のりものも、天変地異もこわくなくなったため、どこにでもでかけられ、りょこうしたり、おんせんにいくようにもなった。字をりかいし、ほんがよめ、料理や、研究などもするようになった。
とくに、にんげんがたべるような、あじがついているごはんをたべられるようになったことで、りょうりして、ごはんをたべることが、だいすきになったらしい。
またぞうは、もともとのせいかくもあるとおもうが、なにごともべんきょうねっしんでコルので、じょうたつがはやい。いまでは、ものすごくたくさんのしゅるいのりょうりが作れるのだ。
これには私もそんけいしている。というか、しょうじきにいってしまうと、ちょっとひいてしまくほどの高レベルなのである。
またぞうが作るものはすべてがおいしく、また、もりつけもきれいなのだ。どこかのりょうていなどで、しゅぎょうでもつんだのか?とおもうほどだ。またぞうは、ようかいになってからはなにをたべてもしんでしまうしんぱいがなくなったことがなによりもうれしいとはなしていた。ただし、ネギだけは今もにがてらしい。たまねぎはたべられるのに。なんでも、ねこでいるときにわがげのいたりで、ネギをこうきしんでかじってしまったことがあり、死にかけたことがあったそうで、今でもトラウマだという。なんとも、わらってしまう。それでも、ネギの出汁ならのめるようになったらしい。
ねこだったときとくらべ、よのなかがものすごくかわり、べんりになったとまたぞうははなす。
このあいだも、今は、レシピもおおくあるから、いろんなくにのりょうりをためいているんだとか。和食洋食、中華にくわえ、フレンチ、イタリアン、トルコにネパール。こうなると、もう、料理研究家だ。
すこしだけはなしをもどそう。またぞうは、とあるまちのはずれにすんでいる。
『よろずや』をいとなんでいるのだ。よろずやというのは『なんでもや』みたいなものだ。そのとおり、またぞうのお店はなんでもうっている。
お店の名は
『ねこまたてい』だ。
ネーミングもすてきだな。
さて、ようかいとおなじく、このお店もふつうの人にはみえないのだ。もちろん、またぞうも、しょうひんも、おみせでながしているおんがくや、たべもののニオイもかんじないであろう。
たまに、ニオイだけわかるにんげんもいるらしいけども、だ。
まあ、それはおいといて。
それでも、ごくいちぶのにんげんにはみえたり、きこえたり、するときがある。
小さな子どもはみえることがおおいらしい。またぞうをみつけると、ちいさな手をふっていたりするのをよくみかける。それでも、10さいをすぎるとみえなくなってしまうこともおおいらしいが。
そんな不思議なようかいのまたぞうにも、またぞうほんにんが、不思議にかんじていることがあるそうだ。
人間に関してだけは、猫又亭がひつような人にだけみえたり、お店にはいれたりするということだ。またぞうはいう。
「おもいろいね。ヒトがいう、縁てやつなのかな?」
と。こんなとき、またぞうはうれしそうにキラキラした目ではなす。またぞうは、人がだいすきだ。
わたしたたよりもはるかに、いろんなのうりょくがあるねこまたのまたぞうが、へいぼんなわれら「人間」のなにがそんなにひかれるのかわからないが、またぞうにとって人のそんざいは、すばらしくかんじ、うれしいものらしい。
そんな、人がだいすきなまたぞうにも、人間がいってくるちょっとゆるせないことがあるそうだ。それは、
「それ、きぐるみをきてるのか?」
おもいだして、くちに出すだけで、モヤモヤするそうだ。
「ぼくらはきぐるみじゃないよ。このままでお風呂もはいるし、ていうか、毛は生えてるもんでしょうよ!あなた、そのあたまカツラですか?ってきくようなもんさ!しつれいな」
またぞうは、はないきをあらくして言っていた。
1990ねんあたりから、たまにきかれることがあったそうで、ちょっとコンプレックスらしい。カツラのはなしにたとえるとわかりやすいが、ちょっとちがうきもするのだが、ほんにんがいやだといっているので、まあ、そういうことにしておこう。
このながれのはなしになるのだが、ここまでナレーションをしてきたわたしにも、不思議がもりだくさんなまたぞうたち『ねこまたたち』の、さらにふかかいにおもうことが少しだけあるのでおはなししよう。
ねこまたたちは、いまのじぶんたちのすがたやかたちが、ねこだったときとすこしも変わっていない。という。
またぞうのえほんや、さしえ、どうがをみてくれたであろう良い子みんなは、またぞうのいまのすがたがわかっているだろう。
これはあくまで、ナレーションをしているわたしからみた個人的ないけんだが
「いやいやいや!こんなねこいないでしょ!いたらこわいわ!」
と、おもってしまうほど。いや、こえを大にしていいたいくらい、みためはちがうのだ。
はっきりいおう。ほとんどのねこまたが、人面猫とでもいうべきだろうか。たつすがた、あるくすがたは2ほん足だ。そして、こんないいかたをするとまたぞうにしかられてしまうが、ねこのようなきぐるみをきているようにみえないこともない。はっきりいえば「きぐるみをきたにんげん」のような なナリをしているのである。
……ふー。なんだかスッキリした。いや、ここまでのはなしは、わたしとよんでくれたきみたちとのヒミツだ。なかったことにしてほしい。あとでさくじょしておかねば、またぞうになにをいわれるかわからないな。くわばらくわばら。
さて、そのなかでも、ねこまたたちのスタイルはスラッとしたもの、はらがぽってりしてるもの、きんにくマッチョなもの、おっさんのようなかおをしたもの、といったように、にんげんとおなじく、タイプはそれぞれだ。
これはわたしのすいそくなのだが、そもそも、またぞうは江戸時代のうまれである。この時代は、よくうつるかがみなどはまだまだ高級品だったようにおもえる。ましてや、山のなかのみたばたで、じぶんのすがたをねこのまたぞうがかくにんする術などなかったのではあるまいか?というのがわたしのかんがえだ。あったとしても、水にうつったときくらいじゃなかろうか?と。またぞうは、やせいのねこだったとはなしていた。やせいのねこなんぞ、じぶんのすがたなんて無頓着だったのでは?と、おもう。
まあ、ゴチャゴチャはなしてしまったが、とりあえず、またぞうがねこからようかいになったときに、じぶんできづいたへんかは、2ほんの足でたてるようになったことと、シッポが2ほんにわれたこと、だそうだ。なんでかなぁ?と不思議でならない。
すがたやいろのみえかたが、虫とわれわれがちがうように、ねこまたもまた、ちがうのか?なんて、なぞはふかまるばかりである。
さて、わたしとまたぞうがはじめていっしょにごはんをたべて、おさけをのんだときにしたはなしをすこしだけはなそう。わたしはまたぞうにきいてみた。なぜもこんなににんげんがすきなのか?とね。
「ボクは、人間に大切にしてもらったから」
だそうで、なんともシンプルなりゆうだ。またぞうはこうつづけた。
「人をわるくいうねこやようかいもよくいるし、人にも悪いのがいるのもよくしっている。これでも、200ねんいじょういきてますから!ボクの大切なともだちも、人にきずつけられたこともある。けれど、それはきっとおたがいさま。これまで、人をきずつけたねこもいぬもきっといるし、ようかいなんてもっといる。もしかしたら、ボクもしらないうちにまちがったことをしているかもしれない。でも、ボクは人にたすけられたりたのしくすごしたときのほうがおおかったから。それがぼくのなかのじじつだよ。そして、なんだかんだで良い人の方が多いとおもう」
これをまたぞうからきいたとき、人としてなんともうれしいことばだった。
だからこそ、わたしもまたぞうがとても好きになったのだ。そして、できるかぎり、ふだんから良いおこないをしようとおもった。できるかぎり。
「人は、ねことちがってよけいなことをすごくかんがえるよね。みていてためになるし、おもしろいよ。ぼくが人のマネをはじめた理由さ」
さて、プロローグとしてのまたぞうのしようかいはとりあえずここまでにしましょう。
え?もう、じゅうぶんだから、ほんぺんをはやくはじめろと?
せっかちはいかんぞ。たのしみながらゆっくりまいりましょうや。
それでは、おはなしのはじまりはじまりー。
てんてんてんてんてんてんてん