第1話その7 『力なき者』
「なぁイルマ。ちょいとツラ借せや」
イルマの首から肩に腕をかけ、サメジマは囁いた。
「ちょいとばかしお話しようぜ? だって俺らクラスメイトじゃねーか」
意趣返しと言わんばかりに、昨日イルマが放った言葉を用いる。こう言えばイルマの退路は塞がるだろう、とサメジマは踏んだからだ。
どの道連れ去るにしても。
「は、話って何……?」
全身を強張らせ声が上擦りながらにもなんとか目だけを動かして、耳の横からする声の主へ、イルマは微かに応答をする。表情は見えない。
「あーんだよ、怖がんなよ。なに、場所はすぐそこだ。だからちょいと着いてきな。お前にとっても悪い話じゃないんだぜ?」
声は嘲笑っている様だった。
親指を横にし裏路地を示すサメジマに、ここでは駄目かとイルマは問えない。ただでさえ疲弊している心にはさらなる負担がかかる選択肢などを選ぶ余裕はなかったからだ。
("今"は彼の言う通りにしよう……、"今だけ"は少し彼に従おう…………)
先行するサメジマに続いてイルマは闇の中へゆっくりと消えていく……。
ほどなくしてサメジマに案内されるがままにイルマが辿り着いたその場所は、まさしく廃墟だった。
コンクリート造りの砕けた断面からは骨組みであろう鉄の棒が姿を現し、地からは砂埃の感触がする。電気も通ってないようで突き抜けた天からさす微弱な光だけが建物の中を少しだけ照らす。人の気配は感じられない。
奥に入るとサメジマは段に腰をかけ片膝を立て口を開いた。
「よく来たな、まぁ楽にしろ」
連れてきたのは自分だろうに、そもそも腰を下ろせる場所など見当たらないが? 出そうになった言葉をグッと堪えて、話をする為にイルマは少し前に出た。
「で、話って何……? もしかして昨日の続き?」
もしかしなくとも、サメジマが自分を呼び止める理由などそれしか無いとは思っていたが、それでも会話の糸口を掴む為に出せる言葉はそれだけだった。するとサメジマはひょんな事を口にする。
「……なぁ、イルマ。サヤマの事をどう思ってる?」
「どう…………、え?」
イルマは呆気にとられ耳を疑い言葉に詰まる。よもや想像だにしてなかった一言がサメジマから送られてきたからだ。サメジマの表情を見ようと目を凝らしたが、光が雲に遮られ今は見えない。話は続く。
「お前は昨日、サヤマの奴に昼飯を奢った。何も別に奴が昼を食べようが食べまいが俺にゃどうでもいい事だ。重要な事はそこじゃねぇ。……どうしてお前は俺たちの間に割って入った?」
やはり話は昨日の事だ。混乱しているイルマを他所にサメジマからの言葉は重なる。その日の夜に出せなかった答えを、今度は本人の口から確認しようとしたのかも知れない。
「だ、だからそれはサヤマさんがお昼を取れないって聞いて、流石にかわいそうだなって思ったからで────」
その内に秘めたるは、まさか本人に面と向かって言えるわけも無く……。
「だからそれがどういう事か分かった上でかって聞いてんだよ」
靴が砂利を踏む音と共に闇の中から大勢の人の影がゆっくりと現れて、イルマを中心に円を描いた。彼らはきっとサメジマの子分であろう。イルマの頬に嫌な水滴が伝わった。
「4つ星の俺が奴に命じて使いにいかせた。その影で奴に手を貸す輩が現れた。それは一体どういう事だ?」
サメジマはその日の自分の思考をなぞる様に質問を繰り返す。
「────その答えは『反抗』だ」
断言した。影に隠れる存在を、その内に秘めたる思いをサメジマは肌で感じ取っていたからだ。そしてそれは、あの夜に出した自分の中の答えだった。
言葉と共にイルマの腹部へ鈍痛が走る。
「ぐふっ! あふ…………うぅ……うぅ……」
サメジマの子分の内の一人がイルマへ不意打ちを仕掛けたのだ。暗闇からの突然の攻撃に防御姿勢を取る事など出来るわけもなく、イルマは両の腕で腹を抱えて地にひれ伏した。
腹から伝わる激痛をなんとか和らげようと息を強く吐き出し悶える。イルマの全身からは汗が噴き出だす。
「おいっ!」
しかしサメジマの声を受けた者が慌ててイルマから離れる。
「ちっ、わりーな。今日お前をここに連れてきたのは、何も暴力を振おうってわけじゃねーんだ。ただ一つ、お前に提案があるからだ」
「て、提案……?」
既に振るわれたそれに思うところがあったものの、今はただサメジマの話を進めるしかなかった。
「ああ、そうだ。これをやってくれたらば、お前にとって良い事が待ってるはずだ。お前だけじゃねぇ、サヤマにとっても、な」
「良い事って……、何さ」
肩で息をしつつ、今の状況のなかで提示された甘美な言葉にイルマは思わず喰いついた。サメジマからの提案なんて碌でも無い事とは思ったが……。
「いい事ってのはそれを達成してくれりゃあ今後一切お前らには手を出さねぇ、って事だ。それで内容はめちゃくちゃ簡単。それは────────」
サメジマはその提案の内容についてゆるりと話す。あの日に思いついた最悪の思考の始まりの部分を。
「────それじゃあイルマ、頑張れよ。お前の成果を期待してるぜ」
説明が終わるとサメジマはそう言い残し、イルマの答えを待たずにその場から姿を消した。その背中には笑みを浮かべて。サメジマに続いてイルマを取り囲んだ人壁も次第に形を崩し、そこに残ったのはイルマただ一人。
イルマは四肢をいたずらに投げ出して、仰向けになり天に向かって腕を伸ばす。その手はただただ虚空を掴み込むばかりだ。
「ちくしょう……っ! ちくしょう…………っ! なんでだよ……ちくしょう…………っ!」
夜空は何も答えない。
唇を噛みしめて伸ばした腕で瞼を覆う。イルマの頬には涙が伝う。
静寂の中。今はただ、突き抜けた天からさす微かな光だけが優しくイルマを照らしている…………。