表と裏と② 初めての手品ショー
部室のドアが音を立てて開き、雑談が止む。教室の真ん中には机が一つ置かれ、その向こう側には、奇術部員たちがイスを並べて座っていた。
「お待たせしました」
牧野が言うと、彼らも気合が入った表情になる。もともと手品に造詣が深い者たちである。教室に入る段階から、油断のない目で牧野と由香里を観察していた。
「今回は俺が助手になるんで」
牧野はそう言って、由香里を机の前に立たせる。彼女は一度深呼吸し、机の上を見据えた。
「今日はこの500円玉を使います。何も仕掛けがないことを、皆さんで確認してください」
牧野はそう言って、ポケットから出した500円玉を豊田に手渡す。豊田はそれを注意深く観察し、横にいる沢村に手渡す。500円玉は次々と部員たちの手を渡り、一分もかからずに牧野の手に戻ってきた。
「それでは、机の上をご覧ください」
全員の目が集まったところで、牧野は五500円玉を静かに机の上に置いた。それを見ていた豊田と沢村の眉がピクリと動く。
机の手前では、緊張した面持ちの由香里が両手を胸の前に構え、開いたり握ったりを繰り返している。
「今回はこの500円玉に手を触れずに、安藤さんの特技で自在に動かしてもらいます」
牧野はそう言うと、由香里に目で合図を送る。由香里は軽く頷くと、視線を500円玉に向けた。
やがて彼女の手の動きが止まり、その指に力が入る。
不意に、500円玉が机の上を移動しはじめた。
部員たちが息を飲み、その動きを見守る。
大きな声を出す者はいない。500円玉の動きを見つめる者。由香里の表情を覗き見る者。あるいは牧野に注目する者。それぞれで反応は様々だが、そこにあるのは驚きではなく、思索であった。
500円玉は机の上で円を描くように動いたかと思うと、その後ジグザグに移動するなど、複雑な動きを繰り返す。
10秒ほどたったころだろうか。奇術部員たちの方に来たタイミングで、机の端から転げ落ちた。500円玉は硬い音を鳴らしながら、床の上を転がっていく。
「あ、すみません」
牧野がそれを取りに走る。
そそくさと500円玉を回収すると、もう一度机の上に置いた。
「どうですか? なかなかのもんでしょう?」
牧野が得意げに言う。由香里は一度目を閉じ、静かに息を吐いた。
「うーん……」
豊田が口元を抑えて唸る。その声を聞いて、由香里は不安そうな表情になる。他の部員たちも、それぞれに何かを考え込んでいるようだ。
しばしの沈黙。
やがて豊田が顔を上げる。そのまま由香里の目をまっすぐに見つめると、一言、
「おもしろい」
と言って拍手を送った。
それを合図にしたように、他の部員たちも豊田に続いて拍手を送る。由香里はほっとしたような表情になると、牧野の顔を見た。彼も目を合わせ、満足げに頷く。
「いや、なかなかのもんだ。すまんがもう一度、そいつを見せてもらってもいいか?」
牧野は、「どうぞ」と手を伸ばし、豊田に500円玉を渡す。しげしげとそれを眺めたのち、豊田はもう一度唸った。
「みんなはどうだ?」
豊田は一度振り返ると、他の部員たちにも見えるように硬貨を掲げる。全員の目が豊田の指先に注がれた。
「うーん……。正直俺は、よく分からなかったな。物を動かす手品はいくつかあるけど、準備なしの状態で、しかもあんな風に動かす方法ってのは、ちょっと思いつかない」
薬師丸が首をひねる。
「うん。普通こういうのをやる時って、風とか、磁石とか糸を使うけど、どれも見当たらなかったよね。この机も私たちが用意するときに、一応点検したし……」
脇田も唇に指を当てて考え込んでいる。相川と岸本は共に、黙ったまま机の上を凝視して動かない。
「うん。まぁ、そうだな」
豊田は一度頷くと、持っている500円玉を沢村に手渡した。沢村も同じように眺めたのち、そっと机の上に戻した。
「今わかっているのは、さっき動いていた500円玉と、今机の上にある500円玉は、同じものじゃないってことだ」
その言葉に、他の部員たちは「え?」と目を見開き、もう一度硬貨を手に取った。沢村だけは、落ち着いた表情のままだ。
「最初に見たのと、同じものに見えますけど……」
相川がぼそりと言う。
「最初に見たやつは、たぶんそれで間違いない。そうじゃなくて、さっき動いていた500円玉と、今そこにある500円玉が、違うものなんじゃないかってこと」
沢村の説明を聞いて、相川ははっとしたような表情になる。
「すり替え……?」
全員の視線が牧野に集まる。
牧野は一度苦笑し、机の上の500円玉を手に取る。
「さすが豊田先輩と沢村先輩。ていうか、いくらなんでも準備の時間が無さすぎですよ」
「なんだよ。牧野の得意なやつじゃないか。いつだ? そいつが机から落ちた後か?」
薬師丸がにやけ顔になり、牧野に詰め寄る。牧野も苦笑したまま、「ご想像にお任せします」とだけ言った。他の部員たちも毒気を抜かれたような顔をしている。しかし、豊田と沢村の二人だけは、まだ真剣な表情を崩していなかった。
「……すり替えが行われていたとして、だ」
沢村がぽつりと言う。その言葉に同意するように、豊田も頷く。
「うん。結局、どうやって動かしたのかは分からないままだ」
「え? だから、すり替えたほうの500円玉に何か仕掛けがあったんでしょ?」
脇田がきょとんとした表情で言う。
「どんな仕掛けだ?」
「どんなって……」
豊田に言われ、脇田は黙り込む。
「500円玉が机の上を動いている最中、確かに机と金属が擦れる音がしていた。ギアが動くような、何らかの駆動音がしていたわけじゃない。つまり、その500円玉が改造されていて、自力で動いくようになっていたとは考えにくい」
豊田はここで指を一本立てる。
「次に、すり替えた500円玉が模造品で、鉄製だったらどうだ? これなら、磁石を使って動かせるかもしれない。だがしかし、この場合も、俺たちは机の下に何も仕込めないように、荷物入れをこちらに向けて設置したよな。見ていた限り、荷物入れのさらに下で何かしていた様子はなかったし、これも可能性は低い」
豊田は二本目の指を立て、言葉を切る。
「うーん……。言われてみれば、確かに……」
脇田はまた指を唇に当てて考え込んでいる。このしぐさは、彼女の癖だ。
部屋に沈黙が訪れる。
部員たちの思案する表情を見て、由香里が牧野に不安げな視線を送る。牧野はその視線を受けて、小さく頷く。
「分かりました。じゃあ、今、机の上にある500円玉を使って、さっきと同じことをしてみせましょう」
部員たちが一斉に顔を上げる。
「本当か?」
「ええ。必要であれば、もう一度確認してもいいですよ」
豊田がもう一度机の上の硬貨を手に取り、注意深く観察する。
「最初に見たものと同じものだ。それに、仕掛けがあるようにも見えない」
牧野は満足そうに頷くと、部員たちを見回す。
「僕はもう、そいつには触りません」
宣言した通り、牧野は豊田が机に戻した硬貨には触れない。
牧野が目で合図を送ると、由香里がさっきと同じように、手を胸の前に構えた。
部員たちは、今度こそ何も見逃さないようにと、牧野や由香里の手元に、せわしなく視線を動かしている。
「いきます」
由香里の言葉で、机の上の500円玉に注目が集まる。
彼女はゆっくりと手を握り、力を込めた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、
ガタン!
と、机が派手な音を立てて動き、その衝撃で500円玉が転げ落ちた。
部員たちはその音に驚き、思わず身構える。脇田は甲高い叫び声を上げると、部屋の隅に逃げていった。
部員たちが目を見開いて固まっていると、牧野がクスクスと笑い声をたてる。
「ほら、動いたでしょう?」
「馬鹿! びっくりしたじゃない!」
脇田が声を上げ、肩を怒らせて戻ってくる。その声で、他の部員たちも我に返る。
「今のは反則だろー。本当に驚いたじゃねぇか」
薬師丸が呆れたように言う。豊田と沢村は顔を見合わせ、苦笑している。
「すいません。ちょっと安藤さんの力が入りすぎちゃったみたいで。別のものが動いちゃいましたね。でもほら、結果は同じだったでしょ?」
悪びれもせずに言う牧野に、豊田が向き直る。その表情はどこかさっぱりとしていた。
「確かに、結果は同じだ。この短時間で、よくここまでの計画を練ったな。見事に引き込まれたよ。本番でも、この調子で頑張ってくれ」
沢村も満足げな笑顔を浮かべて、由香里に視線を向ける。
「次はぜひ、俺ともコラボしてほしいね」
「それは、その……」
もじもじする由香里に、沢村は目を細める。
「冗談だよ。なかなかクオリティの高いショーだった」
その言葉に、由香里も安堵したような表情を浮かべた。
「でも、いいんですか先輩。どんなトリックだったのか解明しなくて。どれだけ信頼を置けるか、分からないじゃないですか」
まだ不満そうな顔をしている相川が、口をとがらせて言う。
豊田は相川に向き直ると、はっきりと言った。
「マジックショーに、種明かしは含まれない」
相川はのど元を掴まれたようにぐっと黙り込み、眉根を寄せる。
しばらくそのままの姿で動かなかったが、不意に肩を落とすと、盛大なため息をついた。そして静かに顔を上げると、つかつかと由香里の方に向かって歩き出した。
「おい、相川」
牧野の言葉は無視して、彼は由香里の正面に立つ。
「安藤さん」
「は、はい」
由香里は怯えたような表情になる。相川は言いにくそうに顔をゆがめた後で、ゆっくりと口を開いた。
「……次に文化祭でやる手品ショーは、大変なんだ」
相川の声は、感情を押し殺したようなものに変わっている。由香里は訳が分からず、それでも一応、頷いて見せる。
「さっきのは、確かに驚いた。見たことがない手品だった」
相川は静かな声で続ける。
「だけど、みんなでやる手品は、連携が大事だ。一人のミスで、全部が失敗に終わる。それどころか、演者が危険にさらされることだってある」
相川はそこで一度言葉を切り、何かに耐えるように下を向いた。少しして顔を上げた彼の表情からは、さっきまであった意固地な雰囲気は消えていた。
「もう、君についてあれこれ言うのはやめる。だけど、これだけは肝に命じておいてほしいんだ」
まっすぐ見つめてくる相川の目に気圧されて、由香里は思わず頷く。
「手品は個人技だ。だけど、俺たちは一つのチームなんだ。助手という立場とはいえ、それはそれで真剣にやってほしい。先輩達でも分からなかった手品をやった君なら、確かに何か、今までできなかったことができるかもしれない」
いつの間にか、部員たち全員が由香里を見つめていた。しかしそれは、最初にあったような好奇の目ではない。もっと真剣な眼差しであった。
「つまり、よろしくね、ってことだよ」
沢村が補足する。彼は変わらず、柔らかな笑顔を浮かべたままだ。
「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いします!」
勢いよく由香里が頭を下げると、相川はバツが悪そうに頭を掻き、自分が座っていたイスに戻っていく。
「相川君、熱いよー」
「こいつ、俺が言うこと全部取りやがって」
「私たちは、一つのチームなんだから!」
部員たちに茶化されて、相川は恥ずかしそうにそっぽを向く。
由香里が牧野を振り返る。彼の方もそれに気づくと、満足げに頷いてみせる。彼女は自然と笑顔を浮かべると、目を閉じて大きく息を吐いた。
いつの間にか、窓から見える景色が夕焼けで赤く染まっていた。下校時刻10分前を知らせる予鈴が鳴り響き、帰り支度をするようにと校内放送が流れる。
「まずい。もうこんな時間か。片付けるぞ」
豊田の号令で、部員たち全員が慌ただしく動き始める。
「しかし、あれだな」
豊田が動きを止めたかと思うと、牧野と由香里を振り返る。
「手品に使える特技と聞いていたが、もろに手品だったな」
(そういえば、そういう設定だったな)
牧野は内心そう思ったが、もちろん口に出すことはなく、苦笑を返すだけに留める。
その後校門を出た後も、奇術部員たちが由香里の力を詮索するようなことはなかった。
由香里にとって初めての手品ショーは、こうして幕を閉じた。