勧誘活動③ 賭けに出る
教卓の上に設置された古めかしいスピーカーから、六限目の終わりを告げるチャイムが流れてくる。その日の最後の授業が終わり、教室の空気は一気に弛緩したものになった。残すはホームルームだけだが、それも高校生になるとほとんど形式的なものになる。藤森もそういったことに熱心なタイプではないから、大抵は必要事項の伝達だけであった。
チャイムが鳴り終わってすぐに、牧野はそそくさと帰る準備を始める。いつもは直行する部活動も、今日ばかりはさぼる心構えである。
「お、どうしたの。動きが速いな」
「うん。今日はちょっとな」
相川の問いかけに短く答え、机の上に出していたノートや教科書を、ロッカーの定位置にしまい込んでいく。もともと教科書を家に持ち帰る習慣がなかったため、鞄がなくても授業に支障はなかった。もちろん、そんなことを言っても教師たちは苦い顔をするだけであったが。
「部活は、来るの?」
「悪い。今日は行けない。鞄返してもらいにいきたいんだ」
「あぁ、朝のな。つーか、結局持ち主は分かったの?」
相川がそう問いかけると、牧野は微妙な顔をする。
「分かったと言えば、分かったんだけど……」
「けど?」
「まだうまく行くか分からないんだよな。まぁ、やり方次第と言うか」
牧野が苦笑すると、相川は何かを察したように目を細める。
「さては何か悪いこと考えてるな。ま、いいけど。うまくいったら教えてくれよ。部活休むことは、俺から先輩たちに伝えとく」
「すまん、助かる」
相川が内容を追及してこなかったことに、牧野は内心安堵していた。今回の思い付きは、さすがに相川にも話せない。いやむしろ、場合によっては誰にも話せないかもしれない。
これは賭けだ。
もし彼女が「そう」だとしても、今考えている作戦でうまくいく保証はどこにもない。むしろ下手をすると、今日を境に、自分の学校での呼び名が大きく変わってしまう恐れもある。例えば変人とか、あるいは変態とかに。それを考えると躊躇する気持ちも生まれないではなかったが、それでも彼は、はやる気持ちを抑えられないでいた。
なんとかして真実を知りたい、自分が思いついたことを確かめたいという思いが、時間がたつにつれて大きくなっていた。
そしてもし彼女が「そう」であり、自分の話に興味を持ってくれれば……。
そこまで考えて、彼は一度目をつぶる。
(考えを飛躍させちゃダメだ。まずは最初の一歩からだ)
自分を制するように、牧野は手のひらで顔を覆った。
両手で顔をこすって目を開けると、ちょうど藤森が教室に入ってきた。それを見た生徒たちが、ぞろぞろと自分の席に戻っていく。藤森は無言で教卓まで歩き、そのまま生徒たちが着席するのを待つ。全員が座るのを見届けてから、よく通る低い声で話し始めた。
いつもとそう変わらない内容だ。全国模試が近くあるから準備をしておけだの、課外授業の日程の変更など、これからの学生生活のスケジュールの伝達が大半を占める。ただし今日に限っては、最後にしっかりと、「踏切を渡るときには電車に気を付けるように」と付け加えた。生徒たちから小さな笑い声が上がった後で、藤森は「ああ、そういえば」と右手を上げて、生徒たちを静かにさせる。
「今年の文化祭の日程だが、例年通り、7月の第2週にやるからな。お前たち2年生は教室を使っての展示になる。まだ2か月くらい先だが、各自何をやるか考えておくように。来週末のホームルームで時間取って決めるからな」
藤森の言葉に目を輝かせる生徒もいれば、無関心とばかりに表情を変えない生徒もいる。高校での文化祭と言えば華やかなイメージだが、公立校である青野台高校は外部からの来客を認めていないこともあって、せいぜい劇や合唱など、いわゆるお堅い演目しか実施しない。一部結束の強いクラスが力の入ったパフォーマンスを見せることもあったが、残念ながら、牧野がいるクラスはそういう雰囲気ではなかった。
ただ、今年の文化祭に限っては、牧野と相川には特別な思い入れがあった。
藤森の言葉を聞いて、お互いに目配せをする。
「それでは、今日は以上」
藤森の声を合図にして、日直が号令をかける。「起立、礼」という声とともに、生徒たちがだらだらと立ち上がって礼をする。藤森が教室を出ていくと、教室には再び喧騒が戻ってきた。神妙な顔つきになった牧野と相川は、一度無言で目を合わせる。
「とりあえず、後でまたメールする」
牧野がそう言うと、相川も小さく頷き返した。
お互いの間に妙な沈黙が流れた後、牧野はそれを振り払うように勢いよく立ち上がった。
「じゃ、また明日」
「おう、頑張れよ」
短いやり取りを交わし、牧野は教室を出ていく。相川はその後ろ姿を見送ると、小さくため息をついた。表情を消して、教室の窓から外を眺める。少し前まで快晴だと思っていた空に、いつの間にか雲が広がりだしていた。
※
夕方から降り出した雨は、18時を回るころには本降りになっていた。
由香里は洗濯物をたたみながら、弟の帰りをリビングでぼんやりと待っていた。2時間前から煮込んでいたおでんの匂いが食欲を刺激し、思わずお腹が鳴る。若干の変装をしてスーパーで買いそろえた食材は、初めてのズル休みという特殊な状況下でハイテンションになっていたためか、明らかに量が多い。少しつまみ食いをしようかと考えたが、食べ過ぎる危険を考慮して我慢した。
無言で手を動かしていると、窓の外で降り続く雨の音がはっきりと聞こえてくる。
テレビはついていない。音楽もかけていない。
彼女は、雨の音を聞くのが好きだった。
そのBGMを遮るように、突然、ブーンという振動音が部屋に鳴り響いた。顔を上げると、テーブルの上でスマートフォンのランプが点滅していた。
彼女は反射的に腕を胸の前に上げ、スマートフォンを見る目に力を込める。振動していたスマートフォンはふわりと浮かび、そのまま音もなく空中を移動して、彼女の手の中におさまった。ロックを解除して画面を見ると、景虎からメッセージが入ってきていた。
『ずぶ濡れ。お風呂沸かしといて』
思わず苦笑を浮かべて、彼女も返事を書き込んでいく。
『お疲れさま。今日はおでんです。もう帰ってくる?』
送信ボタン押し、返事を待たずに浴槽に湯を張りに行く。戻ってくると、すでにメッセージが届いていた。
『おでんの場合はすぐ帰る。あと30分ぐらい』
由香里はそれに『おっけー』とだけ返事をして、洗濯物の残りをたたみ始める。残りの家事を片付けていると、しばらくしてドアの鍵が開けられる音が聞こえてきた。
一瞬強くなる雨音と、「ただいまー」という弟の声。タオルを持って迎えに出ると、いつも以上にどろどろになった景虎の姿があった。
「雨が降るのはしょうがないにしてもさ、無理に練習続けることはないと思わん? 試合までけっこうあるんだし」
由香里からタオルを受け取った景虎は、それで自らの顔と坊主頭を拭く。練習内容に文句を言いながら、その場で服を脱ぎ、トランクスとアンダーウェア姿になる。身長は彼女と同じくらいだが、体重は彼の方が10キログラムほど重く、肩幅もずいぶん広い。まだ子供らしい線の細さを残してはいるが、この一年でずいぶん体格が変わってきていた。
「先にお風呂入るんでしょ?」
「もちろん」
靴と一緒に靴下も脱ぐと、景虎はそのまま風呂場に走っていった。由香里はそれを見送ると、やれやれと脱ぎ散らかされた服を見下ろした。軽くため息をついて、胸の前で手を動かすと、シャツとズボンがふわりと浮かぶ。水滴がぽたぽたと落ちているが、これはどうしようもない。そのまま濡れた制服を移動させ、足で脱衣所の扉を開けると、洗濯機の中に放り込んだ。次にタオルを手に取ると、床に落ちた水滴を拭きながら玄関まで移動する。玄関に到着して一息つくと、靴下を置き去りにしていたことに気付いた。
「ああ、もう」
自分に悪態をついて、今度は靴下を浮遊させる。制服と同じように洗濯機に放り込み、脱衣所から出ようとすると、風呂場にいる景虎から「サンキュー」と声がかかった。彼女はそれで気を取り直すと、夕食の準備をするためにリビングに戻っていった。
「いただきまーす」
そう言うが早いか、景虎は猛然とおでんを口に運び始める。安藤家では、おでんを食べるときにはテーブルに鍋ごと持ってきて、各自が好きなだけ皿に取り分けるスタイルである。
「うめー! なんか今日のは、いつもよりうまい気がする」
景虎ははふはふと口を動かすと、お茶で一気に流し込む。
「特にこの牛筋、すごい柔らかい」
「でっしょー。今日はすごい時間かけて煮込んだんだから。下処理が面倒くさいけど、これだけ美味しくなるならいいよね」
由香里の言葉に、景虎は無言で何度か頷く。しばらくの間、食べることに集中していた二人だったが、ふと何かに気付いたように、景虎が由香里のほうを見る。
「あれ? でも、姉ちゃん今日は部活なかったの? だいたい雨でも筋トレとか、時間きっちり練習してるようなイメージだったけど」
突然の質問に、由香里は一瞬きょとんとした表情になる。
そういえば、なぜ自分は今日ずっと家にいたのだろう。
少しの間考え、やがて朝の出来事に思い至る。
「あ! そうだ! 私今日学校休んだのよ。忘れてた……」
その言葉に呆れたような表情を浮かべると、景虎は持っていた皿をテーブルに置いた。
「そういうのって、普通忘れないだろ。でもどうして? 体調悪そうには見えないけど」
景虎の声には少し心配するような響きが混じっている。由香里はそれには答えず、おもむろに立ち上がると、自分の部屋に向かって駆け出した。取り残された景虎はぽかんと口を開けたままだ。バタバタと音がしたかと思うと、彼女は今朝託された鞄を持ってリビングに戻ってきた。
「これのせいよ。これの」
どさりと床に置いた鞄と、それを忌々しそうに指さす由香里を交互に見て、景虎はますます訳が分からないといった表情になる。
「どう説明したらいいかな……」
彼女は、今朝起きたことについて順を追って説明し始めた。
一通りの説明が終わると、いつしか食べる手を止めていた景虎が「うーん」と唸った。
「よりにもよって、私に鞄を預けることはないよね。そりゃ、犬を助けようとしてくれたことはいいんだけど、結局私が助けないといけなくなったんだから。あれ、絶対走り慣れてない人だよ。私には分かる」
由香里の文句を聞き流しつつ、景虎はなるべく正確に、説明された状況を頭の中に再現しようとしていた。
「いくつか聞いてていい?」
景虎がそう言うと、由香里は喋るのを止めて首をわずかに傾ける。
「まず、姉ちゃんは今朝、二回力を使ったわけだよね。犬と、その男と、両方に」
「うん、まぁ、そうね。でも、それはしょうがないでしょ? 犬でも人でも、轢かれる姿なんて誰も見たくないわけだし……」
最後のほうは声が小さくなる。由香里は普段、できるだけ力を使わないようにと、両親と弟からきつく言われている。それは周囲に混乱をもたらさないためだったし、何より、彼女自身を守るためであった。
「そ、それに、誰にも気づかれてないと思うよ。確かに周りには人がいっぱいいたけど、皆線路のほうに注目してたし。踏切が開いてからは、その男の人の周りに集まってたし……」
景虎は焦ったような表情になる姉を見て、思わず苦笑する。一度考えることを中断して、彼女の方に向き直った。
「まぁ、とりあえず、そう思うしかないか……。確かに、たとえ誰かが姉ちゃんのことを見てたとしても、今回のことだけなら、ごまかせるんじゃないかとは思う。あとは……」
よっこらせ、と立ち上がると、景虎はテーブルを回り込んで、床に置かれた鞄の脇に膝を下す。不思議そうな表情で近づいてくる由香里を横目に、彼はおもむろに鞄を開けた。
「え、ちょっと、人の鞄だよ。いいの? 開けて」
「いいも何も、黙ってたら本人には分からないじゃん。今のままだと手掛かりがなさすぎる。持ち主を探すにしても、何か情報がないと……」
景虎は全く遠慮せずに鞄の中身を外に出していく。ファイルが2冊に、ノートが1冊。あとは、二人には何に使うのか分からない道具が少しと、なぜかトランプが2ケース。そして……。
「あったあった」
そう言って景虎が鞄の底から取り出したものは、ネイビーのケースに覆われた、大型のスマートフォンであった。さっそく操作を試みるが、さすがにロックがかかっている。当てずっぽうでは解除できそうもない。
「うーん、ダメか。中が見れれば、持ち主が分かるかもと思ったんだけど。だいたい携帯には、個人情報を入れてあるよな」
心配そうに見守る由香里に対して、景虎はいたずらっぽく笑って見せる。
「父さんなら無理やりロック解除できるかもしれないけど。でも、相手もこっちと連絡を取りたがってるってのは分かった」
「え、なんで?」
「ほら」
景虎が由香里に見せた画面には、『着信あり 10件』と表示されていた。
「たぶんこれ、持ち主がかけてるんだと思う。マナーモードになってるみたいだし、姉ちゃん気付かなかったんじゃない?」
由香里は、無言で画面を見つめる。
「できれば……、あんまり持ち主と話したくはないんだけど……」
「うん、俺もそのほうがいいと思う。今回の事件の中で、突き飛ばされた本人だけは、何か違和感を持っているかもしれないし」
「事件って」
景虎の言葉に苦笑しつつ、由香里は少し考える表情になる。
「……でも、さすがに携帯がないと困るよね。ずっと返さないわけにもいかないでしょ?」
「まぁ、それはそうだな」
由香里と一緒に、景虎もしばし考え込む。
「あ、いいこと思いついた」
景虎の言葉に、由香里は顔を上げる。
「よく考えたらさ、別にこの鞄を本人に渡さなくてもいいんじゃない? 明日の朝早く学校に行ってさ、職員室とかで、適当な先生に渡せばいいんだよ。名前は言わないでくれって言ってさ。向こうだって一瞬の出来事だったんだから、姉ちゃんのことを完璧に覚えてるってこともないでしょ」
それを聞いて、由香里の顔に徐々に笑みが広がっていく。
「とら、すごい! それだよ! それでいこう!」
弟の思わぬ機転に素直に喜びながら、由香里はさっそく明日のプランを考えてみる。朝早く行くのはもちろんだが、鞄を二つ持っている姿もあまり他の人に見られたくない。もちろん本人に見られたら最悪だ。かなり早く出たほうが安全かもしれない……。
景虎も自分のアイデアに満足しながら、スマートフォンを鞄に戻そうとする。
そのとき、今まで沈黙を保っていたスマートフォンが、突然小刻みに振動し始めた。
驚いた景虎は、危うくスマートフォンを取り落としそうになる。
由香里と景虎はお互いに目を合わせると、恐る恐る画面をのぞき込む。そこには『自宅』という文字が表示されていた。スマートフォンはしばらく断続的に振動を繰り返していたが、やがて画面に『音声メッセージ再生中』という表示が出て、静かになった。
どちらともなく、安堵したように息を吐き出す。
「ま、これはもう鞄に戻して、リビングにでも置いておこう。明日になれば解決なんだし……」
景虎は無理やり笑顔を作ってそう言ったが、次の瞬間、スマートフォンは彼の言葉を遮るように、再度振動を開始した。画面にはまた、『自宅』の文字。
「今まで大人しかったのに、急になんだよ。一日くらい我慢しろよな」
景虎は内心の動揺を隠しながら、強気な口調で由香里のほうを見る。それとは反対に、彼女は深刻な表情を浮かべていた。
「もしかして……、何か緊急の用事でもあるのかな……?」
不安そうな彼女の言葉を受けて、景虎はじっと画面を見つめる。
「どうかな。向こうはこの携帯に家から電話できるわけだろ。本当に緊急の用事があるなら、それでやればいいじゃんか」
「それはそうだけど……。とら、私の携帯の番号、覚えてる?」
「そりゃあ……、その……」
景虎は勢いよく言いかけるが、急に口ごもる。
「やっぱり、覚えてないでしょ? 私だって他の人の電話番号なんて覚えてないし……。それに、何かの連絡を待ってるとか、そういうのもあるかもしれないじゃない? 今日じゃなきゃダメってことも、あるのかもしれない」
景虎は無言で画面を見続けている。すでに着信は、話をしているうちに切れていた。
何かを考えるように動かない景虎と、それを見つめる由香里。
時間にして、さらに15秒ぐらい経過してからだろうか。赤子が何かを訴えてぐずるかのように、景虎の手の中で、再度スマートフォンが振動を開始した。
彼は横目で由香里の顔を見る。不安そうに、しかし強い意志を持った目で見つめ返す姉の顔を見て、景虎は大きくため息をついた。
「分かったよ。出るよ。それで相手の話を聞いて、本当に緊急そうだったら、俺が持っていく。それでいいだろ?」
その言葉を聞いて、由香里は満面の笑みで頷いた。
景虎は、緊張した面持ちでスマートフォンの画面にタッチする。
「もしもし?」
スマートフォンに向かってそう言うと、若干の間があった後で、「よかったー! つながったー!」という男の声が聞こえてきた。
「いやもう、ダメかと思いましたよ。どうしても今日中に携帯を手元に取り戻したくて、電池が切れてもいいやと思って、ダメ元で連続でかけてみたんですよ。つながって、本当によかった」
「マナーモードになってたみたいで、こっちも今まで気付かなかったんスよ」
男のほっとしたような声を聞いて、景虎の緊張が少し緩む。
「あー、そうか、マナーモードか。言われてみればそうですね。すっかりそのことを忘れてた。そりゃ気付かないですね。すいません、このタイミングでも、気付いてもらって助かります。それでその、さっきも言った通り、その携帯、すぐにでも返してもらえると助かるんですけど……」
やっぱりそう来たか。予想していた通りだ。景虎は実際に相手の声を聞くことで、ある程度余裕を取り戻していた。思い切って出てみれば、ただの気弱そうな男の声だ。そうなると、相手の言う通りに動くのも面白くない。彼は方針を変えて、攻めに回ることにした。
「すぐにでも? もう7時を回ってるじゃないスか。俺も部活で疲れてるんで、明日じゃダメですか? 朝一では受け取れるように、そっちの高校に届けときますよ」
横目で由香里を見ながら、景虎は頭に浮かんだ言葉を口にしていく。相手の雰囲気から、押しに弱いタイプではないかと考えたのだ。面倒ごとにつながりそうなリスクは、極力排除しておいたほうがいい。
少し間をおいて、相手の男は困ったような声を出した。
「明日……明日か……。いや、やっぱりそれじゃ遅いんですよ。携帯もそうだし、鞄に入ってる荷物も大切なもので……。手元に置いておかないと、どうにも気分が落ち着かなくて。例えば、場所を言ってもらえれば、近くまで行きますよ。それでどうですか?」
景虎は少し考えて、
「いや、今から出るのは嫌なんだよ。近くにいい場所もないし。それに、絶対今日じゃなきゃダメなんてこと、なかなかないでしょ。もう今日は諦めてさ、明日高校で鞄ごと受け取ってよ」
と言ってみる。
由香里には怒られるかもしれないが、相手の用事というのも、たいしたものではないだろうと考えている。最悪、一方的に通話を切って、あとは電話に出なければいいのだ。
男はまた少し間を空けると、調子を変えずに話し出した。景虎はここで初めて、男が話し出す前の間に違和感を覚えた。
「まぁ最悪、それでも何とかなるんですが、やっぱり、そっちに取りに行きたいんですよね。高校で受け取るんじゃあ、お礼も言えないし」
「礼なんていいよ。さっき電話で聞いたし。明日でいいならもういいだろ。切るよ」
調子の変わらない相手の口調に、景虎は少し苛立ちを感じる。横にいる由香里は非難がましい視線を向けてくるが、これ以上話を続ける必要性も感じられず、電話を切ろうとしたのだが……。
「いや、あなたにお礼を言いたいんじゃないんですよ。そうじゃなくて、朝僕を助けてくれた、安藤由香里さんにお礼が言いたいんですよ。近くにいるんでしょ?」
スピーカーから流れてくる言葉を聞いて、景虎は耳元から離しかけたスマートフォンをそのままの状態にして固まった。
――今、こいつは何て言った?
混乱する頭をなんとか制御して、ぎくしゃくとした動作でもう一度スマートフォンを耳にあてる。すでに、さっきまであった余裕は消し飛んでいた。
「あんた……、何を言ってるんだ? 言ってる意味が、よく分からないんだけど」
とぼける景虎に対して、男はあくまで同じ調子で答える。
「あれ? おかしいな。分からないはずないと思うんだけど。ああ、そういえば、まだ名乗っていませんでしたね。僕は牧野。朝、あなたのお姉さんに鞄を預かってもらって、そして電車に轢かれそうになったところを助けてもらった、青野台高校の2年生です。もう一度言いますよ。僕の鞄、すぐに返してほしいんです。それと、あなたのお姉さんに、直接お礼が言いたい」
景虎は口を開けたまま、言葉が出なくなる。なぜか相手は、自分が由香里の弟だということまで知っている。何も言わずに通話を切ってしまいたいという衝動に、何とか抗う。ここで切ってしまえば、相手のことは何も分からなくなってしまう。どこまで知っているのか、少なくとも、それは確かめなければならなかった。
「ちょっと待て」
景虎は牧野という相手にそう告げると、由香里に顔を向けた。彼女は不思議そうな表情を浮かべている。
「どうしたの? 何かひどいこと言われたの? それにしても、さっきの対応は、あんまり良くないと思うけど……」
景虎は逡巡したように一度目を伏せた後で、言いにくそうに話し出した。
「相手が、姉ちゃんのことを知ってるみたいなんだけど、姉ちゃん、その相手に見覚えってあった? 牧野って、言ってたけど」
由香里は驚いたように目を丸くし、ぶんぶんと首を横に振る。
「えぇ?! 全然知らない人、だと思う。そもそも高校の先輩なんて、陸上部の人たちくらいしかまともに知らないし……」
それを聞いて、景虎は力なく目をつぶった。そりゃそうだよなと思う。知り合いだったら、そもそもこんなことにはなっていない。それなのにどうして、電話の男はこちらのことを知っているのか。今まで舐めてかかっていた相手のことが、今は得体のしれない怪物のように感じられる。
そのイメージが起点となり、突然耳の奥に、昔言われた言葉が蘇ってきた。
――お前のねーちゃんは、化け物だ。
景虎は一度身震いすると、気を引き締めなおした。何としても、かつてのようなトラブルは引き起こさせてはならない。彼はスマートフォンを持つ手に力を込め、もう一度耳にあてなおした。
「もしもし、とりあえずあんたの言いたいことは分かった。うちの近くにファミレスがあるから、そこで話を聞く。場所は……」
「一応確認するけど、話の内容は、周りに人がいても大丈夫なものになるんだよね?」
相手の冷静な返答で、景虎は言葉に詰まる。一度天を仰ぐと、深いため息をついた。
「……分かった。こうなった以上しょうがない。うちで話を聞くよ。ただし、もし変なことをしたら……」
「分かってる。俺が何かしたら、好きにしてもらってかまわない。そっちが思っているほど、俺は甘く考えてないよ」
なんだよ、最初の雰囲気と全然違うじゃねえか。景虎は内心で毒づくと、一拍おいて自宅の場所を説明し出した。
隣から由香里の不安そうな視線を感じるが、そちらはなるべく見ないようにする。
部活の試合でもたまに、こういう展開になるときがある。楽勝だと考えていたゲームが、たった一打で流れを変えられ、コントロール不能になっていく感じ。キャッチャーをやっていると、そういうときの罪悪感は他のポジションよりはるかに強いのではないかと思う。
だがまだ、諦めるわけにはいかない。
相手の目的も明らかになっていない状態で、諦めるのは早すぎる。
彼はそう自分に言い聞かせ、震えそうになる指で通話を切った。