勧誘活動② 由香里の力
「ああ、もう、どうしよう」
安藤由香里は、今日すでに何度目かになる言葉をつぶやいた。
目の前には、自分のものではない鞄が置かれている。
よりにもよって、なぜあのタイミングで、自分の横にいた男が踏切に入り込んだのか。
(やるならもっと早くやってくれればよかったのに……)
犬を助けるために行動したことは分かっているため、そこまで強い嫌悪感を抱いているわけではない。むしろその度胸に感心さえしているが、問題は押し付けられた鞄である。
部屋の天井を見上げて、大げさにため息をつく。
(できるだけ、目立つことはしたくないのに……)
それが彼女の、今の人生における行動方針だった。制服は校則通りに着て、髪の毛も染めない。化粧もしない。高校デビューを目論む友人に唆されたことはあったが、そこも何とか踏みとどまった。勝手に伸びていく身長だけはどうしようもなかったが、それ以外はできるだけ周りの生徒たちに紛れるようにして過ごしてきた。
過去に起こった事件がトラウマとなって、彼女の性格をそう変えてしまったとも言えるかもしれない。
ベッドの脇に置いてある目覚まし時計で時刻を確認する。思わず逃げ帰ってきてから、そろそろ1時間半が経過しようとしていた。学校には遅れることを一度連絡していたが、その時は完全に休む決心がついていなかった。そろそろ決断しなくてはいけない。
彼女は大きく息を吸い込むと、鞄を見つめて自身の行動をシミュレートしてみる。この鞄を学校に持って行った場合に、どのようなことをしなければならないのか。
しばらく考え込んでから、気が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「やっぱりダメだ……」
ただでさえ遅刻して行くのに、上級生の(しかも男の)鞄を余分に持って自分の教室に入り、そのあと休み時間に上級生の教室をのぞいて周って、朝の男を見つけたら鞄を返し、助かってよかったですね、などと声をかけるのだ。その場にいる知らない人からも事情を聞かれるだろう。そのたびにこれこれこうですと説明し、愛想笑いでも浮かべるのか。
想像しただけで頭がパンクしそうである。
「……今日は休もう……」
へたり込んだまま自分のスマートフォンに手を伸ばし、学校に電話をかける。今は二限目が始まる直前だ。まだ担任の有村は職員室にいるだろうかと、少し心配する。
何コールかしたのちに電話がつながり、年配の男の声が聞こえてきた。
「もしもし、あの私、1年2組の安藤ですけど……。はい、そうです。有村先生はいらっしゃいますか」
ちょっと待ってね、という返事の後、スピーカーの向こうから人を呼ぶ声が聞こえてくる。かすかに女性の声が聞こえたかと思うと、突然耳元で張りのある声が響いた。
「有村です」
由香里は携帯電話を耳元から少し離し、用件を伝える。
「あの、すみません、安藤です。今朝、具合が悪いので遅刻すると言ったんですけど、やっぱり良くならなくて……。今日はそれで、休もうかと思うんですけど……。あ、はい、両親はまだ海外で……、あ、近くに親戚がいますし、弟もいるので、それは大丈夫だと思います」
有村は特に、由香里が休むことに対して疑問を感じていないようだ。それどころか、両親が仕事で家を空けている由香里の状況をいたく心配している様子でもある。由香里は若干の罪悪感から、「明日にはよくなると思うんですけど」などと余計なことを言ってしまう。有村は朗らかに笑うと、
「まぁ、無理しなくていいから。別に一日や二日休んだって、どうってことないでしょ」
などと無責任なことを言った。
「ご両親も早く帰ってくるといいんだけど。いくらあなたがしっかりしてても、子供だけだとちょっとね……。ああ、そういえば、あなたに聞きたいことがあったんだけど」
有村が何かを言いかけたところで、それに重なるようにスピーカーからチャイムの音が聞こえてきた。
「あら、もうこんな時間だったの。次の授業に行かないと……。ごめんなさい、また学校でね。とにかく、今日はゆっくり休みなさい」
慌ただしく電話が切られたあとで、由香里はほっと一息ついた。
とりあえず時間ができた。
有村が最後に何か言いかけていたが、明日行けば分かることだ。彼女は束の間、放心したように自分の部屋を眺めた。
由香里の両親は、どちらも大学の研究者である。子供たちが小さい頃は母親が休職して面倒を見ていたが、由香里が中学に入ることには、ほとんどフルタイムに近い状態で働くようになっていた。現在はインドの大学との共同研究のために、両親とも一か月前から日本にいない。
「今は遺伝子工学の革命期だ」と目を輝かせながら言った父親の姿に、子供たちは無関心な目を向けていたが、電話で聞いた話では研究はなかなか順調に進んでいるようだった。
最初は若干の不安を感じていた由香里も、そんな生活が一か月も続けば自然と慣れてくる。むしろ今では、自分の好きなように生活できることにある種の解放感さえ抱くようになっていた。
とはいえ、こういった不測の事態にあっては、隠し事なく相談できる相手がほしい。彼女は久しぶりに、心細い思いをしていた。
「とら、早く帰ってこないかな……」
ぼんやりと時計を見る。まだ10時過ぎだから、弟の景虎が帰ってくるまでには、まだずいぶん時間がある。いつも通りなら、部活が終わって帰ってくるのは18時を回るころだろうか。
由香里と1歳違いの景虎は、今年で中学3年生になる。少し前に野球部の副部長に任命されてからは、練習にも一段と熱が入るようになっていた。そのせいか最近は、前よりも帰ってくる時間が遅い。
由香里はもう一度、部屋の真ん中に置いた鞄に目を向ける。側面に描かれた青野台高校の校章を縁取る色は青。2年生の鞄であることを示す色である。やや汚れていて、幅が薄くなるように強く折り目がつけられている。自分が持つ真新しい鞄と比べると、ずいぶん異質な感じがした。
しばらくその鞄を見つめたあとで、由香里は一度大きく深呼吸をした。勢いよく立ち上がると拳を握り、「よし!」と気合を入れた。
「とりあえず今は、考えてもしかたない!」
彼女は鞄を部屋の隅に寄せると、制服から部屋着に着替え始めた。それが終わると本棚から読みかけだった漫画本を取り出し、部屋を出る。リビングに移動するうちに、彼女は少し眠気を感じ始めていた。「頭を使いすぎたからだ」などとつぶやきながら階段を下りる。大きなあくびをしながらソファに座り漫画本を読み始めるが、すぐにうとうとしてくる。そのうちにソファに横になると、すーすーと寝息を立て始めた。
由香里はあれこれと思い悩む質ではあったが、それが持続しないタイプでもあった。今朝のことも、景虎と相談して決めようと思った段階で、頭の中の解決済み箱に移しかけられている。よく考えれば、彼女は変な形で巻き込まれはしたものの、それによって、犬も、あの男の先輩も助かったのだ。なんだ、何も思い悩むことなどないじゃないか。
夢うつつの状態でそう納得すると、本格的な眠りに移行し始めていた。
タオルケットを引き寄せ、寝返りを打つ。が、彼女が動いたことで、脇に置いた本がバランスを失い、音を立てて床に落ちた。
その音に彼女は一度目を覚まし、音の主を探す。ぼんやりと何が起きたのかを理解すると、無意識に胸の前に手を掲げた。
彼女が指に力を入れると、床に落ちた漫画本がふわりと浮かぶ。
それはそのまま音もなく浮遊し、ソファの前にあるテーブルに着地した。それを見届けると、彼女はまた瞼を閉じ、寝息を立て始めた。
彼女の悩みは、持続しない。
たとえそれが、自身に宿った、特異な力についてであっても。