勧誘活動① あの子の行方
学校に到着してからも、牧野の周りには人が絶えなかった。
彼は普段それほど多くの人間とつるむタイプではなかったが、登校するまでのわずかな時間で、朝の出来事が人づてに広く伝わってしまったのである。生徒たちは口々に心配したような言葉をかけてくるが、その表情はあふれる好奇心を隠しきれていない。
牧野はややうんざりしながらも、それなりの答えを返す。もともとサービス精神が旺盛な性格である。聴衆の好奇心を満たすぐらいには脚色して、その瞬間の話を繰り返していた。
やがてそれぞれのクラスの担任がやってくる時間になり、生徒たちは自分たちの居場所に戻っていった。
「あれが心配してるって顔かよ。ああいうのが、事故現場で嬉しそうに写真撮り出すんだよ」
横に座っている相川の辛辣な言い方に、牧野は苦笑する。
「まあまあ、いいんだよ。最初のうちだけだろ」
不機嫌な顔を崩さない相川をなだめていると、担任の藤森が教室に入ってきた。高校時代に水球でインターハイに出たという噂の藤森は、実際、四十代前半にも関わらず引き締まったスタイルをしていて、肩幅も広い。あまり厳しいことをいうタイプの教師ではなかったが、その妙な貫禄から、生徒たちに一目置かれた存在であった。
藤森が教卓の前に立つと、日直が声を上げる。起立、礼の掛け声に、生徒たちそれぞれがばらばらに頭を下げ、着席する。藤森は特にそれを気にする様子もなく、無表情に連絡事項を伝えていく。
いつもの朝の風景だった。
ぼんやりとそれを眺めて、牧野は感慨深い思いを抱く。
自分は、ほんの少し前に死にかけたのだ。
あのとき、一秒でもタイミングがずれていれば、自分は永遠にこの世界からいなくなっていた。今見ている光景も、まったく違ったものになっていただろう。いや、もしかすると、これは死にかけている自分が見せている夢ということもあるのではないだろうか。前にどこかで、そういう映画を観た記憶があった。
そんなことを考えて、彼は小さく笑みを浮かべる。ショックのせいか、いつもより思考が変な方向に飛躍するようだ。
すでにかさぶたになっている手のひらの傷をさすりながら、彼は朝の出来事を思い返す。考えなしに飛び出したのは、やはりまずかったと思わないでもないが、結果的に犬も自分も助かったのだ。善いことをしたから救われたなどと考えるタイプではなかったが、今朝のことについては、そんなふうに思ってもいいような気がしていた。
断片的な記憶をスポーツニュースのハイライトのように思い出していると、ふとある場面が引っ掛かった。
何かが、おかしい。
不思議な直感を頼りに、頭の中の映像をゆっくりと再生させる。問題の場面を探し当てたとき、彼は自然と背中に手をまわしていた。
(そういえば……あれは何だったんだろう?)
電車の存在を間近に感じた直後、背中に強い衝撃を感じた。その時は、それこそが電車が接触した衝撃なのだろうと思って死を覚悟したのだが……。実際には轢かれておらず、気付いたときには踏切の外で倒れていた。
背中の衝撃が電車によるものでないならば、それはどこから来たものなのか。
そこまで考えて、不意にある場面が頭の中に浮かび上がる。
背の高い女子生徒が両手を前に突き出して、こちらを見ている姿だった。
牧野が思惑に沈んでいると、唐突にホームルームが終わった。藤森が何を話していたのか、全く頭に入っていない。まぁ、後で相川に聞けばいいだろう。そう考えながら、また日直の声に合わせて、機械的に頭を下げる。席に座りかけたところで、藤森から声をかけられた。
「そういえば牧野。この後、保健室に行って傷の具合を診てもらってこい。自分では大丈夫と思っていても、頭を打ってたりしたらまずいからな。それが終わってから、職員室の俺の机まで来ること。いいな」
顔を上げると、出席簿の角を牧野に向けた藤森と目が合う。
「広瀬先生には言ってあるから大丈夫だ。お前数学は得意だから、一回くらい抜けても問題ないだろ」
教師としてどうなのか、と思う発言だが、藤森はこのフランクさで、多くの生徒たちの信頼を得ている。
「あ、はい。分かりました」
牧野がそう答えると、藤森は軽く頷いて教室を出ていった。
「やっぱり、藤森も知ってたんだな、朝のこと」
横から相川が声をかけてくる。
「まぁ、騒ぎになってたしな。とりあえず言われた通り、俺は保健室行ってくるわ。後でノート見せてよ」
オーケーと答える相川を残して、牧野はそそくさと教室を出ていった。
保健室での診察を終えて職員室に入ると、牧野の姿を認めた藤森が手を挙げた。職員室のやや奥まった場所にある机に近づくと、煙草の残り香が鼻をくすぐった。
「どうだった?」と問われた牧野は、保健室でのやり取りを簡単に説明する。見たところ特に異常はないが、近いうちに必ず病院でも診察を受けること。要約するとそれくらいの内容だった。藤森はふんふんと頷くと、続けて今朝の出来事について聞いてきた。すでに教室で何度も話しているから、特に説明に困ることはない。余計と思われる部分を省いて、単純に、「犬が電車に轢かれそうになっていたから、咄嗟に体が動いてしまった」と話す。藤森は少し腑に落ちないような顔をしていたが、特に追及するわけでもなく、「そうか」とだけ言った。
「鉄道会社からも学校に電話があってな。朝の話はすでに職員室でも話題になっていたから、とりあえず無事のようだと返事をしておいた」
藤森の言葉に、牧野は頷く。
「あと今回の件に関しては、特に電車を止めたりしていないから、遅延なども発生していないそうだ。損害金を請求することもないらしい。よかったな」
牧野はその言葉に安心して、小さく息を吐いた。以前、イタズラで電車を止めた生徒に多額の賠償金が請求されたという噂話を聞いたことがあったため、内心心配していたのだ。
「めちゃくちゃよかったです。ありがとうございました」
「俺は何もしてないよ」藤森は牧野の言葉に苦笑する。
「お前の運が良かっただけだ。向こうの運転手も肝をつぶしたらしいぞ。どうやら若い運転手だったらしくてな。まぁそれはともかく、踏切には緊急停止ボタンってのが設置されてるから、もし万が一、次にそういうことがあったら、そのボタンを押せばいい。簡単に命を投げ出すなよ」
牧野は頭を下げ、「はい、もう二度としません」と口に出す。しかし、ふと藤森の言葉が引っ掛かり、顔を上げた。
「あの先生、運転手の人とも話したんですか?」
「いや、そういうわけじゃない。その運転手から報告があったってことで、鉄道会社の人がわざわざ電話してくれたんだよ」
「変なこと聞くようですけど、その運転手の人が何て言ってたか、詳しく聞いてませんか。例えば、僕が轢かれかけた瞬間のことで」
「なんだそりゃ、ずいぶん悪趣味な質問だな」
「何でもいいんです。例えば、僕の後ろに何かいたとか、未知の物体が空から降ってきたとか」
質問の内容に、藤森は怪訝な顔をする。
「おいおい、お前ともあろうものが、急にオカルトに目覚めたのか。いやそれか、オカルトが好きだから今の部活に入ったのか?」
牧野はそれに笑うこともせず、首を小さく横に振る。
「いや、部活は関係ないっス。そうじゃなくて……、正直、自分でも何で無事だったのか分からないんですよ。何て言ったらいいのかな……。ほら、テレビとかでよく、危険が迫った時には、時間がゆっくり流れるように感じるって言うじゃないですか。僕もそんな感じになって、視界も頭もクリアな状態で、けっこう冷静に、これは無理だなって思ったんですよ。間に合わないなって……。でも気付いたら線路の反対側にいて、助かってた。それはホント良かったんですけど、記憶がそこで途切れてるのが気持ち悪くて」
牧野の話に、藤森も考え込む。
「うーん……。俺も何とも言えないが……、逆にそういうときには、火事場の馬鹿力が出るって言うじゃないか。もう駄目だと思った瞬間に、自分の限界を超えて走り抜けたとか、そういうことじゃないか?」
藤森の答えに、牧野は真剣な表情を崩さない。確かにそういうこともあるかもしれないが、今朝に限っては、それでは説明がつかない点が一つある。
「それも考えたんですけど、自分では全然自覚がないんですよね。それに、最後の最後に、何かに背中を押されたような感覚があったんですよ。それでバランスを崩して、前につんのめって転んだような、そんな風に思ってたんですけど……」
無意識に擦り傷をさすりながら言うと、藤森はさらに困惑した顔つきになる。
「それで、さっき言ったようなことを思ったのか。悪いがそれだと、余計に何も言えん。実際に事故が起きたわけでもないし、向こうも念のための確認って感じだったからな。だが……、もし仮に、本当に何かに押されたんだとすると、向こうの言い方も少し変わるんじゃないか。たまたま後ろに小型のUFOがぶつかってきてラッキーでしたねとか、そういう感想が入ってもおかしくない」
「いや、UFO小型すぎるでしょ」
「まあそうだな。そもそも危険を冒してまでお前を助ける理由がないな」
じゃあなぜ言ったんだ、と牧野は心の中で突っ込むが、藤森の言うこともある意味では的を得ていると感じる。あれだけぎりぎりのタイミングだったのだ。自分の後ろに何かいれば、そちらのほうを運転手が覚えていないとは考えにくい。
やはり、線路上には犬と自分しかいなかったのだ。
そして犬と牧野を結ぶ直線状には……。
そこまで考えて、これ以上は藤森に話す内容ではないと判断する。牧野はさっぱりとした顔を作ると、藤森に向かって軽く頭を下げた。
「変なこと聞いてすいませんでした。結局先生の言う通り、最後の最後で火事場の馬鹿力みたいなのが出たのかもしれませんね。それに、たとえUFOか何かの仕業だったとしても、それのおかげで助かったんだから、文句は言えないですし」
注意深く牧野の表情を観察した後で、藤森は軽く頷いた。
「まぁ、とりあえず一日か二日は様子を見とけ。少しでも体に違和感があったら、すぐに病院に行けよ。もちろん、何も感じなくても行っていい」
「はい。いろいろとすみませんでした」
牧野は一度大きく頭を下げ、「それじゃ、戻ります」と言って歩き出した。
「あ、牧野」
藤森に呼び止められ、牧野が振り向く。
「何でしょう?」
「その……。いや、すまん、何でもない」
一瞬不思議そうな表情を浮かべた牧野だったが、「そうスか」とつぶやくと、何事もなかったかのように職員室を出ていった。
牧野が去った後も、藤森はしばらく遠くを見つめたまま、何かを考えていた。
教室に戻る途中、牧野は売店の自販機でホットのレモンティーを買い、ベンチに座ってゆっくりと飲んだ。どうせ今戻っても、授業はほとんど終わりかけている。それなら一限目が終わるまでサボっても一緒だろうと考えたのだ。
窓の外を見ると、一年生と思われる生徒たちがクラス対抗でグラウンドでソフトボールの試合を行っていた。牧野は目を細めて、鞄を預けた女子生徒がいないか探してみる。背の高い女子生徒は何人かいるが、今朝出会った彼女に似た生徒はいないように思われた。
「そんな簡単には見つからないか」
背もたれに体を預け、そのままぼんやりと試合を眺める。
試合は終盤だったようで、見ている間に女子側が終わり、応援のために男子生徒の周りに集まり出した。
牧野が眺めだしてから三番目の打者がバッターボックスに入り、一度空振りした後で、二球目を打ち上げた。
いい当たりに見えたが、外野手の一人がそれを予期していたように懸命に走り、ぎりぎりのところでボールをキャッチした。それでゲームセットになったようで、勝った方のチームの生徒たちが歓声を上げる。
その情景を見るともなく見ながら、牧野は頭の中で、朝の出来事をできるだけ正確に再現しようと試みていた。
女の子の切羽詰まった表情、体の前に掲げた両手、犬。
迫る電車に、鞄を預け走り出す自分……。
それらの場面を、フィルムの一コマ一コマを見るように思い返していると、ふと耳にか細い声がよみがえってきた。
……なんで頑張っちゃうのよ……、お願いだから、素直に動いてよ……!
額に汗をにじませた彼女がこぼした言葉だ。あれはいったい、どういう意味だったのだろう? 周囲の人間が声を上げても、犬が動かないことに対しての言葉だったのだろうか? それにしては、どこか違和感がある。そして何より、牧野が助かった後、逃げるように走り去ってしまったこと。ショッキングな状況とはいえ、彼は助かっていたのだ。目が合った後で逃げ出すという行動に、理由を見つけることができなかった。
(やっぱり……、あの子は何か知ってるんじゃないか。例えば、俺の背中に何かがぶつかったのを見たとか……、彼女自身が俺に向かって何かを投げたとか……。何にしても、鞄を返してもらわないといけないから、連絡を取る方法を考えないといけないな……)
そんなことを考えるうち、彼の頭の中に、ある閃きが発生した。それは今まで悩んでいた事柄どうしをつなぎ合わせ、一つのストーリーを形作る。
軽い衝撃を受けて、彼は少しの間、目を見開いて硬直していた。
しばらくして自嘲気味な笑みを浮かべると、手に持ったレモンティーをごくごくと飲んだ。ひどく甘ったるい味がした。
(確かにそう考えれば、全部つじつまは合う。だけど、一つだけ問題があるな)
いまだ薄い笑みを浮かべながら、彼は口元に手を当てて考え込んだ。
その問題とはつまり、そんなことができる人間はこの世の中にいない、ということだ。
しかしなぜか、それが分かっているにも関わらず、その思い付きが頭から離れなかった。
(優先するのは、とにかく直接連絡を取る方法を見つけるってことだ。だけど、どうやって進めるかをよく考えないと……。何せ一つ間違えば、俺の頭が事故でおかしくなったと思われても仕方がないような話だ……)
彼はベンチの上で考え込みながら、静かな興奮が体を満たしていることを感じる。
(それか俺は、本当にちょっとおかしくなったのかもしれない)
そんなことを思うと、余計に笑みを抑えられなくなる。いずれにしても一度頭を冷やす必要があると感じ、彼はもう一度窓の外に目を向けた。チャイムが鳴るまで、もうそれほど時間も残っていない。
グラウンドでは両クラスの生徒が整列し、互いに向かい合っていた。教師が何か声をかけたかと思うと、向き合って並んでいた生徒たちが大きな声で、「ありがとうございました!」と叫んだ。よく見ると、勝った方のチームの列のほうが少し短い。
(人数が足りない状態でやってたのか。それで勝ったのはすごいな)
牧野は素直に感心する。高校生にもなると、様々な理由で体育を休む人間が出てくる。女子側のほうがその傾向が顕著だが、男子側もそれなりにある。
少なくなったレモンティーを口に流し込み、教室に戻ろうとベンチから立ち上がると、あることに気が付いた。
――そういえば彼女は、あの後、学校に来たのだろうか?
踏切を渡り切った牧野から逆に向かって進むということは、青野台高校からは離れることを意味する。他の道から向かおうにも、あの辺りでは踏切は一つしかなく、他の方法で線路を越えようと思うと、かなり遠回りしなければならない。
少なくとも牧野は、あの後で彼女の姿を見ていない。朝の出来事のせいで、学校に到着したのが予鈴ぎりぎりだったにも関わらずである。
つまり彼女は、あの後、学校に来ていない可能性がある。
そう思い至ると、牧野は慌てて壁に掛けてある時計を確認する。一限目の授業が終わるまで、あと五分もない。
急いで空き缶を捨てると、彼は職員室に向かって走った。扉を開ける直前で一度呼吸を整え、何食わぬ顔を装う。ゆっくりドアを開けると、職員室に残っている教師の何人かが振り返った。
「なんだ牧野か。何か忘れものか?」
扉の一番近くにいた年配の教師が発した言葉で、奥にいた藤森も顔を上げる。牧野と目が合うと、少し驚いたように眉を上げた。
「すいません、大事なことを聞き忘れてて」
牧野は慎重に言葉を選びながら続ける。
「今朝のことで相談したいことがあったんですけど……」
「やっぱり、どこか具合が悪くなったのか?」
心配したような様子で椅子から立ち上がった藤森に手のひらを向け、その場にとどまるように促す。
「あ、いや、そうじゃなくて。……できれば、一年生の担任をしている先生に話を聞きたいなと思ってるんですけど……」
愛想笑いを浮かべた牧野に、藤森が疑わし気な視線を向ける。牧野は自分の意図が悟られないように、できるだけ藤森の目を見ないようにした。
二人のやりとりが聞こえたのか、藤森の机を挟んだ向かい側の机に座っている小太りの女性が、ゆっくりと立ち上がった。
「私でよければ、話を聞くけど?」
張りのある声でそう言った女性教師の姿を見て、牧野は気を引き締めた。