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プロローグ

 水の中を立ち上る大小の泡が、光を受けてきらめく。

 その光で、水の中に沈んでいる人間のシルエットがより一層くっきりと描き出される。


 牧野佳志は、少し離れたところからそれを見守っていた。幻想的な光景とは裏腹に、頭は焦りと不安でいっぱいになっている。


 残り時間は?


 なぜ外れない?


 様々な思考が頭の中で交錯する。助けを求めるように周りを見回すが、見慣れた面々は無表情で目の前の光景を見つめていた。

 彼らは動かない。頭の片隅で、彼はそれを理解している。

 自分が、動かなくてはいけないのだ。

 走り出したい気持ちでいっぱいなのに、なぜか体はスイッチが切れたように動かない。

 そうする間にも、水中の状況はどんどん悪い方向へと変わっていく。シルエット越しでも、中の人間の表情が歪み、動きが鈍くなっていくのが分かる。


 いてもたってもいられず、周囲をぐるりと見回す。


(もう駄目でしょう! 終わらせましょう。先輩を助けないと!)


 大声で叫んだつもりだったが、なぜか自分の声がうまく聞き取れない。周りの人間はそれを憐れむように、静かな目を彼に向けてくる。


 なんとかしないと。

 なんとかしないと。

 なんとかしないと。


 ただ一人焦燥にかられる中、水中の人物が大きく息を吐き出すのが見えた。それがさらにたくさんの小さな泡を生み、歪んだ表情を隠す。泡が反射した光が牧野の目を刺し、眩しさに思わず目を閉じる。一歩も動けないまま、必死の思いで目を開けると、無数の泡から突き出た手が、強い力で彼の腕をつかんだ。冷たい感触が頭をしびれさせ、思考がストップする。

 目の前にある泡から、男の頭が滑り出てきた。恐怖で声を上げることができない。

 下を向いた男がゆっくりと顔を上げ、彼と目が合う。


(……牧野、俺は……)


 男の口がそう動いたところで――


彼は目を覚ました。


 目の前に映る見慣れた部屋の天井から、視線を左にずらす。締め切ったカーテンの隙間からはうっすらと光が差し込んでいて、すでに夜が明けていることを知らせていた。牧野はゆっくりと体を起こし、壁にかかっている時計に目を移した。その横には、寝ている間に母がかけたと思しき制服のブレザーが吊ってある。


 混乱した頭が、徐々に現実を取り戻していく。


 ぼんやりと視線を前に戻し、小さく深呼吸をする。急速に萎んでいく夢のイメージを束の間追いかけ……もう一度布団をかぶった。


(最近、あの夢は見てなかったのにな)


 目をつぶって寝返りを打つ。

 しばらくそうやってごろごろしていたが、どうにも眠れそうにない。観念して体を起こすと、布団から這い出る。大きく伸びをしてから、もう一度時計を確認した。いつも起きる時間より、まだかなり早い。


(まぁ、たまにはいいだろ)


 無理やりに自分を納得させると、彼は扉を開けて居間へと続く階段を下りていった。

 驚く父と母の顔を見るころには、彼はすでに夢の内容を忘れかけていた。

 ただ、その腕に残った冷たい感触だけは、しばらくの間消えてくれなかった。


 ※


 牧野の自宅から青野台高校までは、スムーズにいけば、電車と徒歩で30分くらいの行程だ。自宅は駅からすぐ近くの場所にあり、電車で10分、徒歩で15分かければ高校に到着する。しかしここに、駅で電車を待つ時間と、目的の駅で電車を降りてから踏切を渡るための待ち時間が追加される。電車を待つ時間はともかく、この踏切の待ち時間は、青野台高校に通う生徒たちにとって大きな悩みの種になっていた。牧野も例外ではなく、この日の朝、あまりゆっくりせずに早く家を出たのも、この待ち時間問題が頭を過ぎったことが関係している。


 少し早歩きで駅に向かうと、改札を抜けるところでいつも乗る時間より20分ほど早い電車が滑り込んできた。ぎりぎりセーフ、そう思って電車のドアに飛び込む。通勤時間帯ということもあって人は多いが、ぎゅうぎゅうというほどでもなかった。


 牧野は肩に下げた通学鞄から財布を取り出すと、小銭入れから500円硬貨を取り出した。ごそごそ動く牧野に、横に立っていたサラリーマン風の男が迷惑気な顔をしたが、素知らぬ顔でやり過ごす。


 周りから見えないように注意しながら、手のひらに伝わる平らな金属の感触に集中する。もはやルーティーンと化している動作を繰り返していると、すぐに目的の駅に到着した。


 青野台高校の最寄り駅である和田川駅は、普通電車しか止まらない小さな駅だ。そのため改札口が一つしかなく、しかもその改札は高校へ向かう道とは反対側にあるため、駅を出てすぐに踏切を待たなければならない。急いでいる生徒たちにとっては、なんとも不便な作りになっている。


 さらにこの踏切の質の悪いところは、電車が駅に停車している間も、遮断機が閉まったままになっているという点である。安全のためにそうなっているのかもしれないが、踏切を渡る側からすれば、来ないことが分かっている電車を横目で見ながら待つという、非常に間抜けな状態で過ごすことになる。しかも、その待ち時間に逆側の電車が来ることを知らせる表示灯が点いたりすると、踏切の両側からは盛大なため息が漏れることになるのであった。


 このような理由から、牧野は朝の時間をゆっくり過ごすことに使わなかったのである。いつもと違う時間帯の電車に乗ることで、踏切での待ち時間が短くなるとか、あるいは、待たずに抜けられるのではないか、ということを期待したのだ。もちろん、早くなったからと言ってどうということはない。友人たちに、ちょっとした自慢ができるだけだ。だが高校生活においては、そういうどうでもいい自慢こそが重要だった。


 しかし、電車から降りて改札に向かう間に、早くもその期待は打ち砕かれた。

 駅のスピーカーから、


「この電車は、次に来る特急列車の通過待ちを行います。お急ぎのお客様には申し訳ありませんが……」


というアナウンスが流れてきたのだ。その内容に牧野は肩を落とし、歩くスピードを緩めた。これでは急いでも無駄だ。


 この駅を使う生徒たちの間には「特急待ちを回避せよ」という格言があった。これに当たってしまうと、逆側からの電車の待ちも含め、10分近く待たされることがある。牧野は早く家を出た分の時間が無駄になることを思い、朝から徒労感に襲われた。


 必要以上にゆっくりと改札を抜け、踏切に向かう。周りの生徒をよく見れば、通学鞄の色が緑。つまり、一年生ばかりだ。牧野の通学鞄の色は赤であり、これは二年生であることを意味する。冷静に考えてみれば、牧野も一年以上この通学路を使用しているわけで、そんなにタイミングのいい電車があるなら、友人から何らかの情報が入っていてもおかしくなかった。


(まぁ、そんなもんか)


 周りを歩く一年生の真新しい学生服を眺めるうちに、なんとなく納得して気を取り直す。ここを歩いている彼らも、こうやって経験を積んで上級生になっていくわけだ。今日の自分には運がなかったが、遅刻するわけでもない。こういうこともあると言い聞かせ、ポケットに手を突っ込んだ。


 すでに何人かが待っている踏切に到着すると、彼は再度500円硬貨を取り出した。指の間を何往復かさせると、興味をそそられたように周りの人間が目を向けてくる。

 牧野は体をかがめて手元を隠すと、別のテクニックの練習に移る。始めは周りの視線が気になってなかなか集中できなかったが、何度も同じ動作を繰り返すうちに、今はほぼ手の感覚だけで500円硬貨を操れるようになっていた。


(いい感じだ)


 牧野がそうしている間にも、踏切には徐々に電車の通過待ちの生徒たちが増えてきていた。ふと気づけば、横には彼とそう背の高さが変わらない女子生徒が並んでいた。


 牧野の身長は170cmちょうどで、高校二年生男子の中では特別高くも低くもない。しかし横の女子生徒は、通学鞄の色から察するにまだ一年生だ。高校一年の女子で身長が170㎝というのは、かなり高い方だろう。牧野は少し驚いて、横目でその女子生徒を盗み見る。彼女はこちらには特に注意を払っていないようで、鞄からスマートフォンを取り出すと、ロックを解除して何やら操作を始めた。


 少し日焼けした肌に、短めに切った前髪がよく似合っていた。首元は華奢だが、背筋はすっと伸びていて安定感を感じさせる。何かスポーツをやっているのかもしれない。何より、立った状態で女の子の顔がすぐ横にあるという状況が、彼にとっては新鮮だった。ふわりと漂ってきた甘い匂いに、思わず目を伏せる。


(いつもと違う時間に出ると、違う人に出会うんだな)


 至極当たり前のことを考えながら、なんとなく得した気分になる。口元が緩みだすのを必死にこらえて、もう一度意識を手元に集中させた。


 500円硬貨を手の背面から指先に持ち替えたところで、周りにいる生徒たちから、不穏なざわめきが沸き起こった。


 何事かと顔を上げる。

 耳を澄ますと、危ないぞ、大丈夫か、といった言葉が聞こえてきた。


(何を騒いでるんだ?)


 首を伸ばして前を見て、


「え、おい」


思わず声が出た。


 いまだ閉まったままの踏切の中に、一匹の犬が入り込んでいた。


 首輪をつけた中型の柴犬で、どこから迷い込んできたのか、踏切の中でうろうろと、行ったり来たりを繰り返している。

 彼は周りの生徒と同じように、まず電車の往来を確認した。手元に意識を集中していたから、状況がよく分からない。右手にある和田川駅のホームを確認すると、彼が乗ってきた電車は、まだ駅に停車していた。


(あれって、確か特急待ちだったよな。特急って、もう通過したのか……?)


 そう考えた次の瞬間、駅に停車している電車が、大きく警笛を鳴らした。その音に、生徒も犬もびくりと体を震わせる。そしてそれを合図にしたかのように、踏切の両側にいる生徒たちから、犬に向かって呼びかける声が飛び交い始めた。


 こっちこーい、と呼ぶ声や、パンパンと手を叩く音、鈴を鳴らすような音も聞こえてくる。犬は犬で、それらの音に反応はするものの、両側から鳴る音に戸惑い、その場でクルクルと回るだけだった。その姿を見て、生徒たちの声に強い焦りが生じる。


 ここに来て、ようやく牧野も状況を理解した。


 つまり特急は、まだ通過していない。

 今まさに、この踏切めがけて、猛スピードで迫ってきているのだ。


 目の前で起きる惨劇を予感してか、周りの生徒たちからは悲壮感漂う囁きが行きかうようになっていた。


 えー、やだ……。


 誰か何とかしろよ……。


 やばいって……。


 警笛は繰り返し鳴らされているが、そのたびに犬は萎縮するばかりで、余計にその場に留まるような姿勢を取っていた。牧野はいてもたってもいられず、首を伸ばして線路の先に目を向ける。

 太陽の光に目を細めながら、必死に見つめたその先に、銀色に輝く車体が現れた。


 ――特急が、来た。


 同じように電車に気付いた生徒から悲鳴が上がる。その悲鳴に反応するように、犬を呼ぶ声は一段と大きくなっていた。もはや、叫んでいると言ってもいい。

 牧野も慌てて自分の鞄を開き、何か犬の気を引けるものがないか探す。しかし、こういうときに限って手ごろなものが見つからない。その間にも、電車は猛スピードで迫ってきている。


 焦りが最高潮に達したその時、不意に耳元で、


「……なんで頑張っちゃうの……、お願いだから、素直に動いてよ……!」


と、今にも泣きだしそうな声が聞こえた。


 その声のあまりの必死さに、牧野は思わず横を向く。声の主である背の高い女子高生は、眉間にしわを寄せて線路内を睨みつけ、なぜか胸の前で手をもぞもぞと動かしていた。足を踏ん張り、額には汗がにじんでいる。


 突然、さっきまで聞こえていた喧噪が、遠くになったように感じた。その代わりに、彼女の焦りや不安が、まるで自分が感じているかのような切実さを持って頭に響いてきた。不思議な感覚だった。何か、自分と彼女の間にあるはずの境界がぼやけているような……。


 しかし数秒後、彼女がもぞもぞと動かしていた手の動きが、ゆっくりと止まる。

 険しかった目からも、すっと力が抜けた。


 それを見た瞬間、牧野は直感的にあることを理解する。

 頭に生まれた確信に引きずられるように、彼は自分でも予想していなかった行動に出た。


「ごめん、これ持ってて」


 無理やり自分の鞄を彼女に押し付けると、そのまま踏切をくぐり抜けたのだ。

 周囲から沸き起こる怒号と悲鳴を無視して、牧野は犬に向かって猛然とダッシュした。もつれる足をなんとか制御しながら、無心で加速する。

 踏切自体はそんなに長い距離ではないから、少し走れば、すぐに犬のもとに到着するはずだった。


 走りながら手を伸ばす。


 あと少し。


 もう手が届くというところにきて、伸ばされた手におびえた犬は、それから逃れるように、彼が来た方とは逆側に走り出した。そのスピードたるや、牧野のそれとは比べ物にならない。


(最初から、それやれよ)


 逃げていく犬の背を見送りながら、牧野は意外にも、穏やかにそう思った。自分の滑稽さに噴き出しそうですらある。

 目線を右側にずらすと、すぐ間近に電車が迫っているのが見えた。自分と電車の位置関係から、頭が自動的に答えを導き出してくれる。


 ――間に合わない。


 踏切の向こう側では、集まった生徒たちが青ざめた顔で口々に何かを叫んでいた。


 もう、音は聞こえていない。


 ゆっくりと目を閉じる。


 瞼の裏には、直前に見た女子生徒の横顔が浮かんでいた。


(先輩、俺は――)


 次の瞬間、彼は背中に強い衝撃を受けて、前方に吹き飛んでいた。




 ……手のひらが、痛い。


 まず頭に浮かんだのはそれだった。


 体が硬いものに押し付けられている。頬にあたる砂利の感触で、それが地面だと分かる。そのことに気づくと同時に、失っていた感覚が戻ってきた。


 頭の上から、大丈夫か、しっかりしろ、という叫び声が聞こえてくる。すぐ横で、電車が通過するゴーッという音も聞こえてきていた。

 ゆっくりと目を開けると、自分がうつ伏せになっている黒いアスファルトと、周りに集まっている生徒たちの靴が見えた。


 うめき声を発しながら、仰向けになるように体をひっくり返す。目の前には同じクラスの相川がいて、泣きそうな顔でこちらを覗き込んでいた。


「勘弁してくれよ。目の前で親友が死ぬところまで見ちゃったら、俺一生立ち直れないよ」


 労わるように牧野の肩に触れながら、情けない声を出す。


「俺、生きてるのか」


 放心したような表情でつぶやく牧野に、相川は肩に置いた手に力を込めることで答えた。だんだんと現実感が戻ってくる。

 何度か目を瞬かせながら、ゆっくりと体を起こす。顔や体についた砂を払い落とすと、擦りむいた手のひらから血がにじんでいることに気が付いた。おそらく、転んだ時に手をついたのだろう。だが怪我と言えばそれくらいのもので、他に目立った傷は見受けられなかった。手も足もちゃんと動かせることが分かり、牧野はほっと息をついた。


 電車が通過し終わると同時に踏切が開き、反対側にいた生徒たちが走り寄ってくる。牧野が気付いていなかっただけで、見知った顔が何人かいたようだ。たちまち取り囲まれ、口々に声をかけられる。それに対応するうち、あることに思い至った。


 首を伸ばして、生徒たちの隙間から踏切の反対側に目を向ける。彼の隣にいた女子生徒は、まだ踏切の向こう側にいた。


「ちょっとごめん」


 集まっている生徒たちをかき分けて、なんとか顔を出す。

 彼女は相変わらず足を肩幅に開いて立ち、両手を前に突き出したまま固まっていた。

 声をかけようと右手を挙げると、彼女はびくりと体を震わせ、そのまま少し後ろに下がる。逡巡するようなそぶりを見せたかと思うと、くるりと体を翻し、勢いよく走り去っていってしまった。


 牧野が挙げた右手は、空中に固定されたまま目的を失っている。


 それに気付いた相川が、怪訝な表情で「どうした?」と聞いてくる。


 牧野はまだ口を開けたまま、女子生徒が走り去った方角を見ていた。


 少ししてから、


「……俺の鞄……」


とつぶやいた。


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