思い出を胸に
「これを被れ」
父親はそう短く発して二人に目隠しを投げた。顔をすっぽりと覆える目隠しは穴を開ければ目出し帽にも使えそうだ。が、そんな悠長なことをしている場合ではない。二人の運命が決まる時間が来たと二人の目の前に投げられた目隠しが語っている。
捨てられるのか、殺されるのか――運命の時間が。
「被らなきゃ駄目なの?」
グレーテルが父親を見上げながら口を開いた。
「いいから被れ!」
「いっ……」
そんなグレーテルを怒鳴りつけると同時、頬に平手打ちをする。鋭い目つきで父親を睨めつけながら打たれた頬を撫でるグレーテルの目には少しばかりの涙が浮かんでいた。
それをヘンゼルが分からないはずもなかった。
「もういいだろ? おとなしくこれを被ろう」
「うん……」
庇うように父親とグレーテルの間に割って入り、グレーテルをなだめる。涙ながらに頷く彼女は言葉に詰まるほど可愛らしい。
ヘンゼルは殴られる覚悟で割って入った。だが、父親は黙って二人のやりとりを見ているだけで殴ってはこない。グレーテルに当たっている時点で落ち着いているとは思えないが、多少は冷静になっているらしい。
二人は投げられた目隠しを渋々被る。洗われていない雑巾に似た匂いが二人の鼻を刺激した。はっきり言って臭い。息を止めてしまいたいぐらい臭かった。
「いくぞ」
父親は言葉を発するとともに、二人の手首をつかみ力強く曳く。やはり大人の男性の力だ。二人は足に出せるだけの力を込めて踏ん張ったが、簡単に引きずられてしまった。
引きずられて隣室まできた二人。雑巾のような匂いではない、全く別の匂いと言っても言い匂いが漂う。錆びた鉄の匂いだ。
だが、二人は特に気にも止めなかった。布の匂いのせいで他の匂いを認識できなかったと言う方が正しい。布をとったとしても鼻にこびりついた腐臭を完全になくなるまでには時間がかかる。それくらい目隠しに使われている布は臭い。
例え目隠しをせず、雑巾に似た腐臭を嗅いでいなかったとしても、二人は鉄の匂いと錯覚していただろう。血の臭いと思うことがあっても匂いの元が血であるとは目で見るまで認識できないはずだ。それくらい普段の生活が血を流す生活とはかけ離れているのだから。
――そばにある母親の死体から流れる血だとこの状況で認識することはないだろう。
「ほら、速く歩け!」
父親はより一層強く二人の腕を引っ張る。グレーテルの腕の骨が痛そうに悲鳴を上げるが、それを気にするなんてことはこの父親に限ってはない。母親の、妻の死体を目の端で見ることもなく二人の腕を曳いた。そして二人が待ち望んだ外へ。
新鮮な空気を――と言いたかったが、それを感じられるのは父親だけだ。二人は優しく吹く風を身体で受け止めることが精一杯で、新鮮な空気なんて微塵も感じることは出来なかった。
風を身体で受け止める快感に浸ることも出来ず、父親に引かれるがまま着いていくしかない。辛うじて分かることと言えば、今が昼間だと言うことぐらいだ。目隠しをする前から分かってはいたが、わずかに布の隙間から漏れる光が昼であると言うことを物語っている。
落ち葉を踏み鳴らす音。風が葉を揺らす音。隣を歩くお互いの息づかいだけが響いた。
こんな状況のせいだろう。ヘンゼルは昔を思い出していた。たわいもない日常の思い出を――
***
「今日は店を開けないの?」
「まあ日曜だし、たまには休むのもいいんじゃないか?」
「ダメよ。ちゃんと店を開けますよ。サボりは私が許しません」
母屋で朝食を摂る高橋一家。ごく普通の家庭だった。例の仕事を除いて。
「いいじゃないか、たまにはゆっくりするのも」
「そうだよ母さん。どこか出かけてもいいんじゃない?」
だし巻き卵を口に運びおいしそうに咀嚼する父と子の大輝。サボり気質は親子そろってらしい。
「ダメです。お出掛けもしないし。店も開けます」
長い黒髪を揺らしながら首を横に振り、二人の提案を否定する。
「えー」
母親の答えに眉を寄せて駄々をこねる父親は見ていても不快じゃなかった。この光景に慣れていたというのもあるかもしれないが、この父と母のやりとりを大輝は気に入っていた。そしてこの後はいつもの展開だ。母親が折れて多少歩み寄った案を出すのが一通りの流れだった。
「じゃあこうしましょう。各々が好きなことをしましょう。せっかくの日曜日です。まあこんくらいは許してやんなくもないです」
母はいつも敬語だ。敬語に混じって時々誇ったような口調になることもあるが、大輝の知る限り、この口調を崩したことはなかった。
「ごちそうさま。じゃあ俺は部屋にいるから何かあったら呼んでくれ」
父は自分の食器を流しに置くとそそくさとリビングを出て行った。父が部屋に籠もるときのだいたいが趣味の小説を書くか、最近はまりだした海外ドラマを観ることだろう。ゾンビだか探偵だか知らないが内容のほとんどを大輝に話していたため、大輝は観ずともあらかたの内容を把握していた。
小説に関しては呼んだことはなかった。本を読まない性格というのもあったのかもしれないが、小っ恥ずかしさのほうが先に来ていたのだろう。
「大輝はどうするの? 私は店を開くけど、手伝ってくれる?」
母は一言で言えば本の虫。本に囲まれていれば幸せ。そんな性格だった。
「あー、ゲームしたり昼寝してから手伝うよ。ごちそうさま」
「わかりました。閉店作業だけでもいいから手伝ってください」
「あいよ」
大輝も父と同じように食器を流しへ。そして母の言葉に短く返事をして大輝も自室へと足を運んだ。リビングには母だけ取り残され、その静けさのあまりかおもむろにテレビをつけた。
時間的にどこのチャンネルもニュース番組で新しいニュースや一週間前や数週間前に起こった事件を報道している。
鮭の塩焼きを一口つまむ。我ながらやるじゃないと言わんばかりに頬を緩めてご飯も頬張る。ラジオ代わりにつけたテレビからは新着のニュースが報道されていた。
「昨日午後五時頃、茨城県◯◯市で娘に暴力を振るったとされる両親を障害の罪で逮捕しました。父母ともに娘に暴行を加え、父親は性的虐待にも及んでいたと情報が入ってきており、また――」
「あら、うちの近くじゃないですか」
***
「ついたぞ、そこでしばらく待ってろ」
あの日、ゲーム夕方まで夢中になってやったゲームや母親とした閉店作業。そんな思い出を振り払うようにろくでもない父親の声がヘンゼルを我に返した。