軽率な行動
「声、聞こえなくなったわね」
「ああ、そうだな」
涙を拭ったグレーテルが枯れた喉を振り絞るように声を発する。二人はゆっくりと身体を起こし、窓から差し込む陽の光を体中で浴びる。寝ていない目に日光の光は強く当たり、二人して手で目を覆った。
「私達、これから捨てられるのよね? それとも殺される?」
「わからない。でも殺されるのはまずいな。老婆の家を無事に抜け出すまでに死んだら、俺たちは現実の世界に戻れない」
「そうね、どんな形でも到達点までいければ帰れるのよね」
ヘンゼルは「ああ」と答えて頷く。
到達点。物語の結末に当たる部分。到達点は様々でもちろん物語によって変わる。ヘンゼルとグレーテルの場合は老婆の家を無事に抜け出すところが到達点になっている。それまでに死んでしまえば、現実の世界には帰ることが出来ない。だからなんとしてでも到達点まで行くことが今の二人の目標だった。
「これからはどうすればいいの?」
グレーテルが当然の疑問をヘンゼルにぶつける。
「わからない。俺が知っている展開とは違うものになっているからこの後捨てられるのか、殺されるのかも分からない。逃げるのもいいと思う。けどじっとしてる方がいいと俺は思う」
「じっとしてるって本気なの!? 母親を殴るような男が隣にいるっていうのにここに留まれって言うの?」
「ああ、そうだ。よく考えてみろよ。逃げるにしてもその男がいる部屋を通らないと外に逃げられないんだ」
「あっ……」
ヘンゼルの言う通りだった。今二人のいる部屋には外へ続く扉がない。窓はあるが開けられるように設計されておらず、ただ陽の光を屋内へ差し込ませる役目しか果たしていない。つまり外に出るには二人が今いる部屋とは別の部屋に行く必要があった。
「まあそういうことだ。今どうなっているか分からない隣の部屋を通って外に出るとしても、見つかった時に何されるか分からない。だったら男につれられて外に出た後に隙を見て逃げる方が可能性が高いと俺は思う」
「そうね、殺されると決まったわけじゃないし、わざわざ自分たちからその危険に飛び込む必要もないわね」
母親は気を失っているだけ。そう思っていた。死んでいないと信じていただけかもしれないが、二人の間で母親の安否を心配する会話は一切なかった。自分たちの命の心配をするだけで精一杯なのだろう。
結果を言うとヘンゼルの案は正しかった。父親は母親の下のそばで横たえ、ぼろぼろで痣だらけになった母の死体を凝視していた。
今、死体とその犯人がいる部屋に入ったらどうなるかは子供でも分かるだろう。大人であれば抵抗して、犯人を取り押さえることも出来るかもしれないが、二人は子供だ。大人の男の力に屈することは目に見えている。
二人は寝室であろう部屋に閉じこもり、窓から差し込む日の光の傾きを嫌と言うほど眺め、ついには陽が窓からは指さなくなり、太陽の明るさだけが窓から確認できるだけになった。
母親の悲鳴が聞こえなくなってから数時間、監禁されていると言っても過言ではない状態だ。
「私、お腹がすいたわ。なにか食べるものはないのかしら」
そう言って立ち上がり、隣の部屋へ続く扉に手をかけようと手を伸ばす。が、それをヘンゼルが身体を扉とグレーテルの間に滑り込ませて止めに入った。小さい身体になれていないせいか、少し動きは鈍かった。
「お前! ここでじっとしようって決めただろ!? 何されっかわかんねえんだぞ?」
つい怒鳴ってしまった。ヘンゼルはこの天然ちゃんにきつく怒号を吐いた。天然にも程がある。空腹というのは分からなくはない。実際、ヘンゼルも腹を鳴らしていたし、「腹が減った」と口に出してもいた。だが、数時間前に部屋でじっとしていようと決めた。隣室には暴力的な男がいるのだから。
そう決めたはずだったのに、この天然はもう忘れている。天然で生徒会長なんて大役が務まるのだろうか。そんな考えが嫌でもヘンゼルの脳裏を横切った。
「ごめんなさい……さすがにもう大丈夫かなって思ったのよ。そんなに怒鳴らなくてもいいじゃない。男――じゃなくて父親が来たらどうするのよ」
「悪い。俺はグレーテルが心配なだけだ」
グレーテルが心配なだけ。言い方を変えれば、皐月が心配なだけ。名前が違うせいかするりと口から出てきた言葉に、顔を赤らめたのはグレーテルだけではなかった。
扉の取っ手に掛けようとした手は扉に手のひらをつけ、それが彼女の体重を支えていた。ヘンゼルはそんな彼女と扉に挟まれている状態。壁ドンだ。逆壁ドンだ。
くるまったわら布団の中では特に意識もしていなかったお互いの顔が、身体が二人の熱を上げていく。お互い子供の姿だと言うことを忘れてはいないだろう。なにせ自分が子供だと理解できていなくても、相対する異性が子供の姿なのだから。興奮するものもしなかった。こういう性癖の人なら別な話だが――
「ごめんなさい」
グレーテルが謝罪を口にして扉から手を離す。それとほぼ同時にヘンゼルも扉から離れ、わら布団へ座り込む。グレーテルも座るが、隣ではなかった。ヘンゼルとは少し離れた場所だ。といっても六畳もない狭い部屋だ。遠くに離れることも出来なかった。
互いに口を開かない時間が続くと二人は覚悟していた。事故とはいえああいった状況になってしまったのだから、ある程度は仕方ないと考えてもおかしくはない。
だが、そんな考えを無下にするかのように隣室へ続く扉が開けられた。
「おい、お前ら。森に行くぞ」
ドスのきいた地鳴りでも起こすかというくらい低い声が容赦なく二人に襲いかかった。