きっともう――
「起きて、ヘンゼル。ねえ起きて」
「ん……あれ、寝てたのか?」
皐月ことグレーテルに起こされた大輝ことヘンゼル。ヘンゼルは眠い目をこすりながら身体を起こし、辺りを見渡した。無事に本の世界へ入れたらしい。白い部屋から一変して今は小屋の中にいる。辺りの暗さから考えれば夜だろう。静寂に包まれた二人のいる部屋には、虫や鳥の鳴き声しか届いていなかった。
「おはよう、ヘンゼル。いきなりだけど私をみて。身体までグレーテルと同じになるなんて聞いていなかったのだけれど」
「おはようってまだ夜じゃね? それに、言ってなかったっけ?」
皐月の姿はすっかりグレーテルになっていた。長めに伸ばした金髪の似合う可愛らしい女の子に。もちろん大輝もそうだ。現実の姿とは比べものにならないくらい年端もいかない少年の姿に。身なりはお世辞にも綺麗な服とは言えないくらいにボロボロだった。下手をすれば隠すべき場所が露わになってしまうくらいの防御力だ。ポロリもあるよ――なんて冗談を言っている場合ではないだろう。
それだけではない、ヘンゼルが寝ていた布団以外、布団らしきものは見当たらなかった。つまり一つの布団に二人が寝ていたということになる。それも兄妹だからと言ってしまえば終わる話かもしれないが、中身が高校生と言うことを忘れてはいけない。その証拠に、頬を赤く染めたグレーテルが冗談を口にした。
「どこかの名探偵みたいだわ」
「麻酔銃とか変声機は使えないからな。一応言っておくけど」
「そんなものに期待なんかしてないわよ」
そんなたわいもない会話をしている二人に一つの足音が迫ってくる。大きく地響きをならして近づいてくるそれに隠れるように二人は寝たふりを決め込んだ。一つしかない布団に二人で仲良く寝そべり、一つしかない掛け布団を肩の位置まで仲良くかけた。
「うるせぇよ! 静かに寝ることもできねえのか!? あ? 寝たふりなんかしてんじゃねえ!」
「っ!」
二人の寝室に入り込んできた男――三十代前半くらいだろう男は罵声を浴びせ、右足を大きく振り上げてヘンゼルの腹を蹴り上げた。綺麗にみぞおちに入り込んだ蹴りに声を上げることが出来ず、代わりに腹が鈍い音を立てる。
蹴りに満足した男は二人の元を去って行った。
「ねえ大丈夫!? だ……ヘンゼル!
あまりの出来事に名前を間違えそうになったグレーテル。その呼びかけにヘンゼルは咳混じりに答える。
「大丈夫……げほっ! ああ痛ぇ……」
「あの人は誰?」
「たぶん父親だ。それよりもう展開がおかしくなってる。こんな物語じゃない」
再度父親を呼ばないようにとできる限りの小声で話す。自然と顔が近くなったがそんなことを気にしている余裕は二人にはなかった。最悪命の危険すらあるこの状況に心臓の鼓動が早まり、お互いの鼓動が聞こえそうなくらい大きな音を立てて脈打っている。まだ本の中に入って目覚めたばかりだというのに先が思いやられる状況だ。
「夜中に話し声が聞こえてそれをあなたが聞く展開じゃなかったかしら。蹴られるなんて聞いたことないわ」
「これもさっき言っただろ、俺たちの行動が物語に影響するって。それが今起こったんだ。俺だってヘンゼルが蹴られる展開なんて聞いたことない」
「ごめんなさい、少し甘く見ていたわ。そんな些細なことですら変わってしまうなんて思っていなかったの」
二人のたわいのない会話が物語を変えた。この事実がグレーテルの顔を曇らせた。言動に注意しなければならないという戒めを改めて背負うことができたいい展開だったのかもしれない。ヘンゼルの痛みの代償は払うべき価値のあるものだったのだろう。
「いいよ、俺だって甘く考えてた。でも父親は優しかったはずだ。普通は母親の方が暴力的な態度をとってくるはずだったんだが……何かおかしいな。お前も気をつけた方がいい、知ってる展開になるなんて保証はどこにもないからな」
腹をさすりながらさらに小声で忠告するヘンゼルの顔は、真剣以外の何物でもない。今後の展開が自分たちの行動次第で変わると言っても、物語の進行自体に変化が起きていれば元通りの展開を追えるはずはないだろう。それ故の忠告だった。その忠告に生唾を飲んで応えるグレーテル。小さい拳を強く握りしめ、そばに横たえるヘンゼルの顔をじっと見つめていた。
「明日あいつらを捨てにいく! お前も賛成だろ? もう明日の飯を買う金だってないんだ。俺たちだけでも生きていくのは精一杯なのに、あいつらまでいたら俺たちまで飢え死にしちまう」
そう言葉を発したのはヘンゼルの腹を蹴り上げた男、父親だ。二人の寝室から出た後、誰かと子供を捨てるか捨てないかで相談しているらしい。ここは展開通りだ。少し細部は違っているが。
「でもそれだけはやめて! あの子達を捨てるなんて私には出来ないわ!」
そんな言い争いが二人に聞こえていないはずがなかった。息を潜めるようにわらで出来た掛け布団で身体を隠し、お互いの顔を見つめ合っていた。
「うるせえ! なら俺が捨てに行く。お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだよ!」
「きゃああ!」
短い悲鳴をあげるとほぼ同時、痛そうに頬が鳴った。衝撃で殴られた人物は倒れ込み、食器や家具が倒れる音が豪快に鳴り響いている。
「殴られているのは母親よね? 助けなくていいの? このままじっとはしていられないのだけれど」
「そう言っても俺たちは子供の姿だ、力もそれなりになっているし、助けに行ったところで殴られるのがオチだ。下手したら何かの反動で死ぬかもしれないだろ? 今はじっとしているしかない」
「そうだけど……」
グレーテルは口籠もり、ヘンゼルの提案を渋々のんだ。ヘンゼルの言うことが正しいのか、間違っているのかは分からないが、一理あることは確かだ。母親と行っても本の中の住人、言ってしまえば赤の他人に等しい。対する二人は物語の途中で死ぬことは許されない。死んでしまえば現実に帰ることは出来ないのだから。
父親の暴行と暴言は朝まで続いていた。母親は「ごめんなさい」や「もうやめて」しか言っておらず、そんな言葉を耳に入れることなく父親は殴り続けていた。日が昇る頃には女性の声も聞こえなくなり、男も殴るのをやめていた。
そんな中眠りにつけるはずもなかった二人。ヘンゼルは目を見開いたまま、女性の悲鳴を嫌と言うほど耳に入れ、抱きついていたグレーテルに腕を回すことすらしなかった。グレーテルはヘンゼルの胸の中で声を上げずに泣いていた。声を上げてしまえばこちらにも火の粉が飛んできてしまう。そんな不安が彼女を襲っていたのだ。
簡潔に言おう。父親は母親を殴り殺していた――