最初で最後の
皐月は開いた口が塞がらなかった。それもそうだ、皐月からしてみれば現実とはほど遠い、ファンタジーのような提案をされているのだから。これは大輝にも非があった。もっと説明するべきことがあったのにも関わらず、単刀直入にものを言ってしまっている。言い過ぎてしまっている。
「ああ、ごめん。ちゃんと説明するけど、さっき言った約束は守ってくれるか? このことは誰にも言わないって。えっと……冴島にも言っちゃ駄目なんだ。本当は」
「ええ、約束するわ。それと、皐月でいいわ」
「分かった」
それから大輝は必要最低限の事を皐月に話した。本の中に入れること。本にも寿命があること。本が光ったらその寿命が近いこと。本の中に入って主人公をやらなければ寿命を延ばせないこと。皐月はそれらを頷くことなく黙って聞いていた。時折質問を挟むこともせずに、黙々と。
「大まかなことは理解したわ。でも信じろと言われても難しいにも程があるわね。ねえ、もし本に入らずに寿命を迎えたら本はどうなるの?」
一通り大輝が話し終えてついに皐月が質問を口に出す。心なしか少し首を傾げている姿が可愛らしい。
「その本に書かれた物語の存在が消える。俺は覚えてるけど、皐月はその物語があったことすら覚えていないよ」
「今までで、その……死んじゃった物語はあるの?」
大輝の様子を伺うように投げかけられた問いかけだったが、そんな気遣いを無視するように、その質問は大輝の心を深く突き刺した。一つの物語が頭をよぎる。つい先日見殺しにしたばかりの物語が。
「あるよ」
「一応題名を言ってみてくれる? もしかしたら覚えているかもしれないじゃない」
大輝の今までの話が信じられないことからでた言葉なのだろう。言葉から必死さが嫌と言うほど滲み出ていた。大輝は顔を落として一つの題名を口にする。見殺しにした物語の題名を。
「灰かぶり」
「ごめんなさい。やっぱり知らないわ」
「いや、いいよ。分かってたことだ」
あの日、大輝は題名をみて諦めていた。まず性別が違う。もしも女性が主人公の物語に男性が本の中へ入ったら性別が影響して、男性の主人公として物語が進んでしまうらしい。だから両親がいなくなった日も光った本の主人公が女性だったため、母だけが本の中に入っていたのだ。
シンデレラが男の話だなんて誰が読みたがるのだろうか。そしてどんな風に話が進んでいったのかは大輝が入ってみないことには誰にも分からないことだった。
「それで、さっき光ってた本は何だったの?」
「これだ」
そういってカウンターの下から本を取り出す、大きさはA5判と言ったところだろう。厚さもあまりなく、重くもない。片手で簡単に持ち上げられた。
カウンターに優しく置かれたその本は、未だに淡い光を放って二人を照らしている。そして題名を見た皐月が目を見開き、重々しく口を開く。
「ごめん、なさい。この中に入って主人公をやってくれってことでいいのよね? だとしたら無理だわ……こんなの。私には……できない」
「頼む、手伝ってくれ。俺一人じゃ無理なんだ」
大輝にはヘンゼルとグレーテルにいくつもの話があることを知っていた。月の光で光る石を落としたり、お菓子の家を見つけたり、様々な展開や結末を大輝は知っていた。中には老婆を殺さない結末もあった。
だが、皐月は違う。結末を一つしか知らない。皐月だけではない。この世界の誰もが、大輝以外は、結末を一つしか知らない。
「私に人を殺せって言うの?」
皐月が知っているヘンゼルとグレーテルの結末。もちろんそれは、グレーテルが老婆をかまどで焼き殺し、財宝をもって家に帰るというもの。それの主人公をやってくれと大輝から頼まれている。皐月の指摘通り、大輝の言っていることは殺人の教唆に等しい。
「必ずしも殺すとは限らない。皐月は知らないだろうけど、老婆を殺さない結末もあったんだ」
「待って、それってどういうことなの? そんな結末を私は知らないわよ?」
「俺たちが本の中に入って物語を書き換えると、書き換えられる前に存在していた物語は消えるんだ。もし俺たちが今から入ったとするだろ? そしたら今後世界中の人が知るヘンゼルとグレーテルは、俺たちが行動したとおりの筋書きになるんだ。だから老婆を殺さなければ、殺さなかった話として世界に広まる。分かるか?」
「その理屈もなんとか理解は出来るわ。ちょっと待って、ということは前に物語を書き換えた人がいるということよね? 私が知っている物語に書き換えた人が」
「ああ、俺の爺ちゃんと婆ちゃんだ」
「それってつまり……」
「俺の婆ちゃんは、人を殺してる」
「少し……考える時間を頂戴」
大輝は「ああ」と短く答え、それを聞いた皐月は本棚という森の中へ消えていった。
人を殺す。高校生に頼むことの限度を超えている。よくいじめの表現で窃盗を強要されるシーンがあるが、今回はそのことのように生ぬるいものでもない。確実に殺すことあるというわけではないが、ほんの少しの可能性が皐月にのしかかっていた。
大輝は手帳に目を落とす。心地よい手触りを堪能するように指で撫でまわして、皐月の返事を待っている。彼女が足を踏み出すたびに木の床が軋む音が書店いっぱいに響いていた。
三十分。大輝は待った。店内を徘徊しながら考えていた皐月がカウンターへと足を運ぶ。
「決まったか?」
「ええ、やるわ」
「もしかしたら死ぬかもしれないぞ」
「……っ! やるわ!」
一瞬、大輝の今まで隠していた重大な発言に身体が少したじろいだが、すぐに体勢を立て直し、さっきよりも力強く言葉を発した。やけくそと言われればそれも似合っているが、メンタルが強いと言った方が彼女のためだろう。
「じゃあ、すぐいくぞ。本の光が消える前に入らないといけないからな」
「わかったわ、でもどうやって入るの? 本の上から頭を突っ込むわけではないのでしょう?」
初めて言った彼女の冗談に大輝は口を開けて笑った。大輝が両親を失ってから初めて見せた笑顔だった。
「そんなわけないだろ。あそこからいくんだよ」
そういって例の本棚を指さした。皐月は首を傾げながら大輝の指す場所へと目を向ける。大輝が父親を最後に見送った場所を二人が見つめていた。