忍び寄る足音
「あ、やば……」
握られていた手帳が壊れかかっている事にようやく気がつき、必死に力を緩めた。
この手帳は父が大輝に渡していた物だ。俺たちに何かあったときに開けるんだぞ――そう口うるさく言っていた。手帳からもその声が聞こえそうな気がしたのか、しばらく手帳とにらめっこをしていた。
古い物なのだろう。ひも留めタイプの物で数年前は綺麗な茶色だったのだろうが、今となっては色あせてとても綺麗とは言えない。使い込んでいたと言えば聞こえはいいだろう。
大輝は手帳の中身を見たことはなかったが、ある程度の察しはついていた。察しなんてうんざりしている大輝だったが、こればかりは仕様がない。考え得るものはほぼ確信に近かった。手帳の中に記されていること。それは
――本の中への入り方
高橋家は代々、本の中へ入っていた。本、物語にも寿命があり、寿命を迎えるとこの世から存在ごと消えてしまう。消えてしまえば誰からも存在を認識されなくなり、思い出すことさえ出来ない。それを防ぐ為には、本の中へ入り、物語の筋書き通りに主人公を演じること。そうすれば本の寿命を延ばすことができる。でも延ばすことが出来るだけ、永遠の命を与えるというわけではない。このことを大輝が知らないはずはなかった。
とはいってもこの一連の事を知ったのは最近の事だ。高校入学とほぼ同時に両親から告げられたその事実は、すぐに受け入れろと言われても無理があった。大輝が最初に心が躍った事は漫画の世界へ入れるかだったが、両親はそれをすぐに否定した。本の中に入れるといっても、いくつかのルールがあるらしい。それが書かれているのがこの手帳だろう。
「どうすりゃいいんだよ、上手くやれる自信なんかねーよ……」
大輝はかすれた声で弱音を吐く。誰にも聞かれない安心感が弱音を誘ったのだろう。
両親がいない今、この責任を背負うことの出来る人間は、大輝一人しかいない。高校二年で、わずか十数年しか生きていいない大輝にはこの責任は重すぎた。事実、気落ちしていたこの三日間のうちに物語が一つ消えてしまっている。
その責任のせいか、カウンターのデスクライトを点けて、唐突に手帳のひもを解きはじめた。糸のこすれる音が妙に耳心地の良い。解き終わると同時、ページの重さで手帳が勝手に開き、反動で落としそうになるが、持ち前の運動神経でなんとか落とさずに済んだ。
最初のページをめくり、黙々と目を通しはじめた。読み終われば次のページへ。また次のページへ。めくられるページが愉快な音を立てて大輝の指に従って動いていく。
気づけば日が暮れていた。が、未だに雨はしつこく降り続いていた。小さく、短くため息を吐いて睛明を指でつまむ。ページ数が少なかったおかげか、読書時間はさほどかからなかった。時計の短針は七を指している。
手帳を開いて分かった事は、これは父が書いたものではないということだ。父の字を簡単に説明するとはらい字だ。とにかくはらう。とめやはねをまるで知らないかのようにひたすらはらった字だった。この手帳に書かれた字はというと、しっかりとめ、はね、はらいを意識して書かれた文字だ。几帳面な人が書いたのだろう。父とは大違いで。文字に性格が出ると言う言葉の意味を痛感させられる一冊だった。
問題は内容の方だ。本の世界のことやそこでのルール、世界への影響など様々な事が書かれている。大事なことと言えば、『現実に帰ってこない場合』という一覧に書かれていた事だ。が、これを大輝は読み飛ばした。理由は、もう知っていたから――
他に重要なことは、寿命が迫っているときのしらせだ。要するに物語が危篤に近い状態の時に出る症状。それは本が光ること。
二日前、大輝は本が光っていたことに気づいていた。もちろんそれが危ない状態であることも。本が光ったら教えなさい。本が死にかけている合図だから――そう両親は言っていた。耳にたこができるくらいに。大輝は物語を見殺しにしていたのだ。
そして思い返せばこうも言っていた。
「それを助けてあげられるのは私達しかいないのよ」
母の言葉だ。本を助けてあげられるのは私達しかいない。口癖のように頻繁に口に出していた。
「もう俺しかいないんだな」
一人きりの書店に漏れた声が悲しく響く。
「……っ! 父さんっ!……母さんっ!……うぅ」
やっと出た涙だった。自然と溢れ出てくる涙は大輝の量頬を濡らしていく。溢れ出る涙を止めようと手で塞いでも、それは無駄に終わった。もう一人しかいない。愛してくれた母も、父もどちらもいない。そのことをやっと実感できたのだろう。 時計の長針が二周するくらいひたすら泣き続けて、寝た。泣き疲れた事もあるのか、ぐっすりと眠った。
次の日、赤くなった目をこすりながら目を覚ます。恥ずかしがり屋の太陽は雲に隠れていて姿を見せようとはしていなかった。そう、天気予報はやはり外れた。
時計を見たらすっかり昼を回っていることに気づく。
「どんだけ寝てたんだよ」
寝癖を直すように髪を掻いて、書店の開店準備を始めた。開店準備と言っても店の扉にかかった札を『OPEN』にひっくり返し、『高橋書店 水曜日は本の日!』と書かれた黒板の後半部分だけを消して店前に出すだけだ。これでいつも通りの高橋書店が出来上がる。
あとはカウンターに座って客を待つだけだ。そのはずだった。
カウンターの椅子へ腰を下ろそうとした瞬間。大輝は目の端でなにかをとらえていた。淡く光り輝く一冊の本。本棚に並べられているその本からは紛れもない、危篤を知らせるあの光を発していた。
「さっそくきたか」
そう呟くと同時に座りかけた腰を軽く持ち上げ、早足でその本へと向かう。手に取ってみるとその光は、暖かくも、そして儚くも感じられる光だった。そして題名に視線を向ける。 誰もが知っているその物語が大輝の救う、最初の一冊となった。
『ヘンゼルとグレーテル』
題名を見て、大変なことに気づいてしまった。一人ではどうしようも出来ない重大な問題に。
「主人公、二人じゃね?」